4章 地獄につながる縁と、極楽(寺)につながる縁と

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 座っとけと言われてもいまいち身の置き所がない。そう思いながらうろうろと見回していた時だった。ふと、脚がついた箱型のテレビと大型の蓄音機の間に見える細長く肌色のものに気づいた。  足?  人形の? にしては大きい。人間の、しかも子供の足のようだ。  後ずさりかけた時に、その足が動いた。  思わず息を飲んで見守っていると、いったんその足はひっこんで、その隙間から頭がのぞいた。 「野狐ーのど乾いたー」と目をこすりながら這い出てきたのは、紬だ。 「え? なんで?」  漏れた言葉に重たげなまぶたの下の目が慧を見た。その目つきが少しずつ険しいものに変わっていく。同時に、慧と紬との間の空気が北極圏のブリザードのごとくに冷えこんでいく。  どういうことだ、紬はおっさんの娘だったのか?  でも母子家庭だと聞いたはずだ。  混乱していると、おっさんが繊細な欄間の下を身をかがめて入ってきた。湯呑茶碗3つを載せた盆を片手にしている。事情の説明を求める、非難めいた視線に気づいたのか、おっさんが慧を見て苦笑した。 「ちょっとな、事情があって預かることになったんだ」  おっさんがそう言うと、紬は慧を警戒するように横向きに歩いて、おっさんのでかい体の後ろに隠れた。まさかの展開だ。恐れこそすれ、頼るなんて想像もしていなかったおっさんを自分の盾にしている。なにがどうしてそうなってる? 「おいおい、ちょっと飲みもん置くから、離れろ。つぶしちまうよ」  紬はあいかわらず仁王立ちして慧をにらんでいる。でもその片方の手は、おっさんのズボンをぎゅうっと掴んでいた。その掴む理由が今はわかってしまうから、怒りよりも先に疲れとか諦めみたいな気分に陥った。 「慧、悪いけどこの盆、適当にそこらに置いてくれ」  身動きできないおっさんが慧に漆塗りの黒々とした盆を差し出した。使いこまれた艶がきれいな盆だ。慧はそれを足元に置いてあった木製の箱の上に置いた。 「紬、大丈夫だ。あのお兄さんはちょっと怒りっぽいけど、悪いやつじゃない」  怒りっぽい? 「ごんごろ探しを手伝ってくれてるだろ?」  おっさんの優しい言葉にもかかわらず、紬は唇を引き結んで口を閉ざしている。おっさんの店兼自宅なのに、どっちが主かわからない。そしてこの場での一番の闖入者のような扱いをされているのは慧だった。 「な、紬。少しは許してやれ?」 「ねえ、オレ、なんで許されなきゃなんないの?」  思わず尋ねると、紬は慧をキッとにらみつけて、それから急におっさんの足を蹴った。 「いって!」  すねを蹴られたおっさんが悲鳴をあげている間に、紬は和室から廊下に飛び出していった。 「おほー……いてて……」  おっさんが顔をしかめながら畳の上にどっかとあぐらをかいて座りこんだ。 「なかなか難しいお年頃だな、あのくらいの女の子ってのは」 「……いやそういうことよりも、さ。いろいろ聞きたいことは山ほどあるけど。とりあえず、なに、なんであの子がおっさんに慣れてんの? つうかいよいよ、女といえば見境なくなったの?」 「なんてこと言うんだ。オレはまっとうに大人の女が好きだ」  そんな素直に開き直られても。呆れつつ座りながら湯呑茶碗を手をのばした。しっくり手のひらになじんで、触り心地がいい。これも古道具屋としての目が選んだものなんだろうか。 「それにしてもよく仲良くなれたよね」 「まあな。ちょっとな。あれ、あれれ、慧。オレがとられてもしや淋しいのか?」 「うん、オレも蹴っていいっすか?」  にやつくおっさんのすねに狙いを定めた。 「待て待て! 冗談くらい言わせろ、けっこう痛いんだから」 「いいの、放っといて? ほかの部屋でいたずらとかさ、何するかわかんないじゃん。それこそ売り物ばっか置いてあるんでしょ?」 「大丈夫大丈夫」  おっさんはそれだけ言うと湯呑茶碗の中のお茶をすすった。そう言うならそうなんだろう。まあ売り物がどうなろうと、オレの知ったことではないか。 「この部屋が店なんすか?」 「そうだな、古道具を求めにおいでなさる客が入るのはここだ。もっと目的のもんがはっきりしてりゃ別の部屋も案内する」 「別の部屋」 「まあいろいろ扱ってっからな」  おっさんはそう言って適当に近くに置いてあった木製の箱を引き寄せた。慧の腕にすっぽり収まりそうな小さな箱だ。 「これはな、昔の人たちが使ってた箱膳っていうもんだ。一人ひとり自分の専用のものがあって、この中に食事に使う茶碗だの箸だのをおさめてあったんだな。この天板の上で飯を食ってたって寸法よ」  言いながらおっさんは、その箱の引き出しを開けて見せてくれた。中になにがおさめられていて、どんな人たちが使っていたかなど、丁寧に説明してくれる。  史乃さん家で将棋セットを探していた時。権五郎神社で十人衆の面を見ていた時。  その時と同じ目をしている。慧には見通せないなにかを見ている、そんなふうに思わせる目で。  本当に何者なんだろう。この平屋の、売り物だという古い道具ばかりに囲まれて暮らすこの男は。しかも東大卒。 「あのさ、この前、まめきちのおばちゃんが言ってたけど、東大出て、なんでこんなことしてんの? 儲かってなさそうだけど」 「こんなことってなんだ。生意気だな。こんなこともあんなことも、商売にゃ上も下も右も左もないんだよ。学校でのカーストに慣れすぎんじゃねえぞ、慧。なにもかもランクづけの価値観で見たら、いろんなこと見落とす」  なにも言えなかった。  嫌だと思っているはずのヒエラルキーに気づかないうちに染まっている。恥ずかしかった。  その時、庭(あのいろんなものが雑多に置いてあるのを庭と言えれば)から、枝を折るような音がして響いてきた。そして暗くなった縁台のところにぼうっと人影が現れた。  心臓が縮みかけて「うわ」と悲鳴に近い声が思わず出た。 「きゃ」と悲鳴のような声がそれから出た。  女性の声だと気づく。 「あ、どうもどうも、あがってください。コーヒーくらいしか出せませんが」  おっさんのにやけた声が場違いなトーンで響いた。 「あの、夜分にごめんください、峯田です」  灯りの見えるところに歩み出てきた女性は、そうおずおずと名乗って頭を下げた。 「紬を迎えにきました。ご迷惑をおかけしてませんか、あの子」 「なに、全然いい子にしてましたよ」 「でも、そちらの方、お客様では……?」 「いえいえ、こいつはオレの弟子です。まま、あがってください。呼んできますから」  若干引っかかる言い方をしながらおっさんは女性を和室へとあがるように促すと、廊下へと出ていった。それと入れ替わるように女性が縁台にあがってきた。  紬のお母さん、なんだよね?  あがってきたその人を見て、思わず内心つぶやいた。あの眉の濃い紬の母親とは思えないほどにきれいだ。これはおっさんがデレるのがわからないでもない。  にしても、真純さん、未涼さん、あの女子高生、それから目の前の女性。女なら本当に誰でもいいのかな? おっさん。 「あの、もしかして、支倉さんと一緒にごんごろを探してくれているという……?」  うなずくと、女の人は穏やかな笑みを浮かべた。でもその笑みはどこか疲れがにじむ。 「紬がご迷惑ばかりかけているでしょう? 本当にごめんなさい。あの子、あれでもごんごろを探してくれてる人がいるって、すごく喜んでるんです」  にわかには信じがたい。  いつも敵意しか向けられてない。歓迎されてるというより、むしろ邪魔されているというか、探す意欲を常に、ずっとそがれ続けてきた身としては。 「……いやむしろ怖がらせてるんじゃないかって思ってるんですけど」  困ったように首を傾げた。紬のお母さんは、合点がいったように目を伏せた。 「ごめんなさいね。あの子、男の人が苦手で……。そうさせてしまったのは私のせいなんですけど、でも感謝してるのは間違いありません。ただそうは言えなくて。それに、こちらの支倉さんなんて、おしゃれなカフェでケーキをいっぱい食べさせてくれたって、もう喜んで喜んで」  餌付けか! と言葉を飲みこんだ。 「すみません、峯田さん」  廊下の方からおっさんが入ってきた。腕に紬を抱っこしている。腕の中の紬はおっさんの肩にもたれて完全に眠っている。  紬のお母さんは困ったような顔でおっさん、というより紬に近づいた。 「紬、起きて。ほら帰りましょ」 「あ、いやこのまま寝かせてあげてください。お宅まで連れていきますよ。慣れないところで疲れたんでしょう」  そう言っておっさんはやんわりと断ると慧を見た。 「風呂沸いてっから、適当に入っててくれ。もし帰りたいなら、オレが戻らなくても帰っちまってかまわんから。戸締りも必要ない」  オレより紬の母親か。  なんとなくおもしろくない。不承不承うなずくと紬の母親はまた申し訳なさそうに慧に何度も頭を下げた。とてもきれいな人なのに、溌剌とした雰囲気がないのが痛々しくさえ見えた。 「そうだ、慧。明日の昼間、蓮次郎さんが権五郎さんとこに来てくれるらしいんだわ。お前むりか?」 「いや、大丈夫。なんとかするから。ここまで来て蚊帳の外にはなりたくない」  素直にそう言うとおっさんはうなずいて紬を抱え直し、縁台に降りた。  学校はどうするんだ、とは言われなかった。それがこのおっさんなのだと、ようやく気づきはじめていた。
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