1章 野狐という屋号のおっさん

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「……あっちぃ」  9月も半ばを過ぎたというのに、なんでこんなに暑いんだ。  制服のワイシャツを第2ボタンくらいまでは開けている。それでも蒸していて、思わず胸元のシャツを引っ張ってバサバサと空気を送るようにした。  屋敷の中でも廊下のつきあたりにある納戸は電気をつけても薄暗く、しかもカビくさい。窓もないせいか、普段嗅ぎ慣れないお香みたいな匂いも漂っていて、あまり長居はしたくないところだった。  史乃さんに言われなければ、近づかない部屋だし、これまで足を踏み入れたのもたぶん1回かそこらだ。  納戸の壁際に括り付けられたような木製ラックや棚、階段の形をした箪笥を順番に確認してはいるものの、なかなか目当ての将棋セットは見つからなかった。  さっきから見つけるのは、いろんな色で塗られた壷だったり、たぶん一度も解いてないような巻かれた状態の何本もの掛け軸だったり、薄汚い木箱におさめられた茶碗だったり。隅には布をかぶせたままの西洋の絵画もあった。でもほとんど布で覆ってあったり、畳のような素材の箱の中にまた箱、さらに箱みたいな意味が分からないものもあったりと、疲れだけが暑さとともに蓄積していく。  でもそうじゃない男が同じ納戸の空気を乱していた。  大きな体を忙しなく伸ばしたり、と思えば縮めたり。たまに「これは」とか「おいおいおい、」とか「うーん……鑑定回すか」とか、いろんなつぶやきが聞こえてくる。  1人なら静かに探せるものの、その声が気になってしまう。  探し物が見つからない、暑い、やけにでかい体のうっとうしさ、の三重苦。  だんだん息もつまる。苛立ちも募る。  そろそろ限界だ。そう思った時。 「おお、これは」 「……あったんすか、将棋セット」 「ん?」  振り向いたおっさんの手には、想像していた将棋セットよりもはるかに小さな、むしろ分厚い手の中にすっぽり収まるなにか。 「将棋セットですか、それ」 「いや? 根付だよ。年代もんの。象牙製の煙草入れを模したんだろうな、なかなか粋なしろもんだよ」 「は?」 「は、とは?」 「え、オレらが探してるのって将棋セットですよね。根付ってなんですか。つうか、そういうもんより将棋セット、見つかったんすか?」 「いや?」  あっけらかんと否定されて、思わず大きなため息が出た。 「おっさん!」 「おっさん、言うな。まだそんな年齢じゃねえ」 「あんたの年齢とかどうでもいいし! 何やってんすか、こっちは真面目に探してんですよ、将棋セット」 「おう、真面目な少年だ。さすが自慢されるだけのお孫さんだ」 「自慢」と聞いてついにやけそうになったのを慌ててひっこめた。 「そうじゃなくて! 史乃さんに頼まれたのは将棋! あの、着物着た人間2人が何時間も考えこむ、あの!」 「怒鳴るな、聞こえてる」 「……っ、だから!」 「どうどう、どうどう、抑えて抑えて」  手振りで両手を上下させたおっさんの仕草に、頭の奥でなにかが切れかけた。 「やってらんねえ」  ぼそりとつぶやいて、開け放したままの引き戸の方へと体をくるりと向けた。  暑いしくさいしムカつくし、史乃さんには悪いけど、さっさと母さんの忘れ物だけとって帰ろう。 「あ、おい、待て。ちょちょちょ」  地響きみたいな足音と、その振動で木製のラックや和箪笥が揺れてきしむ音がして、おっさんが意外にもオレの進行方向にさっと回りこんだ。 「まあ待て、慧」  いつのまにか呼び捨てにされている。  にらんだにもかかわらず、おっさんは平然とオレを見下ろしている。体がでかいだけで圧倒される感じも気に入らない。 「いちおう、この納戸の整理もお願いされている。で、オレはこっちの列の棚、慧はそっちの列の棚からはじめて探すっていう話だったよな」 「まあ……そうですけど」 「で、終わったのか?」  確かに入口の引き戸に近い両端から奥へと続く棚をそれぞれ分担して探すという話ではじめた。 「で、終わったのか? 自分の担当分」 「……終わってません」 「じゃあ、続けないとな。最後まで任せられたことに責任をもつのが大人ってもんだからな」  なんで先生に怒られているみたいな感じなんだ。  そう思いながら渋々、自分が探していた棚の列に戻った。納得いかない気がするのはなんでだろう。  口の中のグミをぐにぐにと噛みながら目の前の棚をまた一つ一つのぞきながら探していると、「おおっ、慧!」と背後から嬉しそうな声が響いた。  また別のものだろうか。期待しないで振り返ると、おっさんが棚から紫の布がかけられた四角く重そうなものをとりだしたところだった。  それらしく見える。  おっさんが風呂敷らしい布を解くのを見ていると、中から将棋の升目が美しい台が出てきた。 「これだな、脚付き盤だって言ってただろ。あれ、駒はねえのか?」  おっさんが見つけた隣にも同じ紫の布に包まれたなにかが置いてある。それを開いてみると、2つの木箱が揃えてあった。少し振るとカタカタとなにかがたくさん入っている音がした。  片方を開けると、飴色の将棋の駒だ。 「おっさん、これ。セットの駒じゃないの」 「おー、そうだな、色も同じようだし」  満足そうにうなずいて、おっさんはまた紫の風呂敷に丁寧に包み直した。 「これで1つ、落着。慧、史乃さんに知らせてこい」 「わかった」  ホッとした気分で納戸から出た。これでようやく解放される。  いやその前に、わかった、ってなんでオレがおっさんの使い走りみたいな立ち位置になっているんだろう。  そう文句を言いに戻るのもばからしくて、たいてい史乃さんが定位置にしている台所に向かって歩きはじめた。すると、すぐ近くの客間の方から笑い声が聞こえてきた。  男性の声だ。廊下にまで響いてくる笑い声は、史乃さんの声に劣らず空気成分の多い年寄りのものだ。史乃さんの笑い声も混じっている。  じいちゃんが帰ってきたのか、それとも誰かほかに客でも来ているのだろうか。  足を客間の、昼過ぎにいた座敷へと向け直した。  誰だろう。  開いている襖から座敷に顔をのぞかせると、そこには仙人みたいな長く白いひげを蓄えたおじいさんが座っていた。
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