6章 面掛十人衆(一部)の男たち

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 紬がにこにこしている。というか、紬が笑えるのを初めて知った。 「すっごくかわいいね」  そう言って、紬は理音を見上げた。 「そうだね。紬ちゃんの好きなものばかりだね」  理音の言葉に、紬がさらに目を細くして満足そうにまた自分の目の前に並ぶものをそっと大切そうに見つめた。  ほんの10分前くらいのことだ。なんとなく微妙な空気を抱えて店の敷地から出ようとした時だった。  1人の40代後半くらいのふくよかな女性がアトリエの方から石畳の上を駆けてきて、慧たちを呼び止めた。そして紬の前にしゃがみこむようにして、手にしていた小さな紙袋をさしだした。 「これ、ここの上生菓子なの。さっきずっとつくってるところ見てくれてたでしょう? よければ、お土産にどうぞ」  その瞬間、紬の顔が戸惑ったように理音を、それからおっさんを見た。  ほしいと言いたいのに、そう素直に言うことを小さな体の中でぐっと抑えこんだような、なんともいえない複雑な表情だ。  たぶんオレだったら、食べ物がもらえるってだけで飛びつく。 「紬、もらっとけ。きっと、すーっごくうまいぞ?」  おっさんが促して、紬はようやく戸惑いの表情をやわらげた。それでも濃い眉をハの字形にして、女性からおずおずとお土産を受け取った。 「ありがとうは?」  理音に促されて、ハッとしたように紬が慌てて頭をさげた。 「ありがとうございます」 「いいのよ、おいしいと思ってくれたら嬉しいな。あの、お引きとめしてすみません。父の話でお役に立てました?」  細田さんの、まだ結婚していないという娘さんらしい。もしかしたら店の雰囲気も和菓子のデザインもその女性の発想なのかもしれない。 「大丈夫ですよ。もしお気づきのことがあったら、ご連絡いただけますとありがたいですね。これもなにかの御縁ですから」  おっさんはそう言って名刺をとりだした。 「わかりました。ごんごろ、きっと見つけてくださいね」  そう言うと女性はすぐに来た道を忙しなく引き返していった。なんだかんだで、親子って似るんだなと思う。  そして今、近くの公園に休憩がてら立ち寄り、いただいたお土産を開け、理音が丁寧な手つきでベンチの上に並べたところだった。  中には繊細な色合いの上生菓子が人数分入っていた。合計4個。今の季節を表すらしいうさぎ、薄いグラデーションがかったモミジ、茜の空を思わせる色の菊。それからごんごろがモチーフの福猫だ。どれも手の混んだ繊細な形と色をしている。 「これ食べていいの? ねえ食べていいの? 食べられるの? もったいないね! どれもかわいい!」  紬はこれまで見たことないくらいきゃっきゃっとはしゃいでいる。年相応の、という感じだ。 「さあ紬ちゃん! ここは紬ちゃんが一番最初に選ぶ権利があります!」  理音がおどけるように両手を広げて言った。  紬が嬉しさのあまりぴょんぴょんと跳ねている。  それを横目で見ながら、慧はずっと黙って缶コーヒーを飲んでいるおっさんに近づいた。 「安堂徹さんだけど……なんか気にならない?」 「……なんでそう思う?」  おっさんがちらりと横目で慧を見ながらそう聞いた。紬がベンチの上の和菓子を真剣に見つめている。時間がかかりそうだ。 「安堂徹さんって漁師だよね。この辺りの漁師って、いわゆる遠洋とかじゃなくて、すぐそこの相模湾のシラスとかアジとか沿岸で漁をしてる。で、漁師って、基本深夜とか早朝とかに漁をして、普通の人が起き出す頃に帰ってきて、普通の人が仕事をはじめる頃にはもう寝たりするっていう生活じゃん。江ノ電からもたまに七里ガ浜とか沖に漁船が朝7時ぐらいに出てたりするの見えるし」 「よくわかってんな」 「小学校の時に習う」 「ねこ! あ、でもうさぎも。でもねこ。でもごんごろは食べちゃえないから、うさぎ……でも、あー……」  猫とうさぎとで、かなり悩んでいる声が聞こえてくる。 「そんなに迷ってるなら、紬ちゃん、お姉ちゃんの分、あげるよ」 「だめ! お姉ちゃんはお姉ちゃんの分なの!」  大声をあげて紬が頭を思い切り振っている。 「だけど、安堂徹さんの場合、介護もあるわけでしょ。そう考えると、今もう夕方近いけど、普通の人である母親が生活する時間にある程度合わせると思う。そうすると寝てることはあっても自宅にいないってあるかな。まあちょっとした用でたまたま本当にいなかったのかも、って思うけど、それなら、その家の前に作業途中みたいだったバケツっていうのはなにかな、って思うし」 「ど、ち、ら、に、し、よ、う、か、な」としまいには、片方ずつ指をさしはじめている。  それを見ていたおっさんがふいに「悪い、話の途中。ちょい待っててくれ」と、紬の方へ近づいていった。 「紬。野狐の分やっから、両方にしとけ」 「えーでも野狐の分だもん!」 「いいや、違う。1個はな、紬のママの分だ」 「ママの?」 「そう。野狐の分は、ママの分だったんだ。だからな、紬。うさぎもねこも紬が持ち帰っていい」 「ほんと?!」 「ほんとだ。そのかわり、ママにちゃんと言うんだぞ。野狐がくれましたって」 「言う! 野狐のおっさんがくれたって!」 「おっさんは余計だ。イケメン野狐がママに愛を捧げますって言ってたって」  思わず吹き出しかけ、おっさんににらまれた。  ……小学生にそこまで言わせるのか。  そばで見ていた理音が苦笑しながら慧の方に近づいてきた。 「じゃあ残りは私と慧くんの分だよ。どっちがいい?」 「オレが先でいいの?」  どうせ理音は彼氏と来る機会も多いだろう。そんな拗ねた気分で選びかけて、自分に情けなくなった。 「いいよ。理音、オレいらないから」 「え? どうして?」 「いや、いいよ。せっかくだしさ、理音も彼氏と一緒に食べたら?」 「――彼氏?」  訝しげに理音が眉をひそめた時。 「はいはいはい、離れて離れて。オレがすぐ目を離すとこれだ」  ベコベコと空の缶コーヒーを手でつぶしながらおっさんが割りこんできた。いや、話を中断してどっか行ったのはそっちだけどな。 「紬の買収終わったの?」 「買収じゃねえ。で、慧。話の続きだ続き。それで安堂徹さんが犯人って思うのか?」  いや、場を離れたのはそっちだけどな。  ため息をつきながら話を再開した。 「安堂徹さんを犯人と断定はできないよ。ただほかの氏子さんより、比較的ごんごろを連れ去る機会に恵まれてそうだって思ったんだよ。安堂徹さんって、お母さんの介護があるから、けっこう例大祭の時に自由にさせてもらっていたみたいだし、境内に夜出入りしていても、家族がいるわけじゃないから見咎められないし、それに、権五郎神社に一番近い位置に家があるんだよね。行列が練り歩く星の井通り沿いに家があるっていうのは、なにかと便利そうだなって」  おっさんは腕を組みながらも片方の手でひげをしごいている。中川のじいさんみたいだ。 「……まあ、もう一度行くしかないな」 「安堂徹さんとこ?」 「あとは、力餅家の方の安堂さんとこだが、あそこがごんごろを連れ去ると考えるのは無理がある」 「それこそ細田さんとこみたいに、商品は力餅だし、正直あんなおいしいもの作る人たちがごんごろ連れ去ったとは思いたくない」 「同感だ」  おっさんが慧の言葉に大きくうなずいた。
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