6章 面掛十人衆(一部)の男たち

7/10
前へ
/48ページ
次へ
 安堂徹。  星の井通りに面して、敷地の壁もなく建つ褐色の木造民家は小さいながらも純和風の2階建の民家だった。2階は通りに面した窓はあるものの雨戸で締め切られている。  その1階部分、同じ向きの玄関の前にはわずかなスペースがあり、白い軽トラックが駐車してあった。そして理音が言っていたように、軽トラックのそばには水色の大きな洗い桶が5つほど伏せてきれいに横に並べてあった。でも、さっきと並び方も置き方も違っているらしい。  地面もそれも濡れているところを見ると洗いたてよりは、少し乾きはじめていて時間が経っているのがわかった。そして一番左にはホースを突っこんだままの浴槽のような色あせた水色の大きな容器があり、ベニヤ板のような横長の板で蓋をされている。そっとのぞくと中には隅の方に銀色の鱗を時々きらめかせる細長い魚が身を寄せ合っていた。  もう日もだいぶ傾いて、玄関の引き戸にはまる細い格子のガラスはほんのりと白っぽく明るい。  人工的な光だ。家に誰かいる。  おっさんは玄関の前に立つ、かと思いきや隣家との隙間をのぞき、それから慧を手招いた。 「慧、そこの電気メーター、見てくれ」  確かにおっさんの体つきでは大人1人がようやく入れるような隙間程度では入れない。慧でさえ体を横にして入りこみ、灰色の電気メーターを見た。 「円盤の、かなり早く回ってる。人、いるんじゃない?」 「おう。じゃあ行くか」  後ろで緊張の面持ちで立っている理音を振り返った。 「大丈夫なの?」 「大丈夫だよ。でも理音たちは近づかないで」  紬を引き寄せた理音は心配そうにしている。  おっさんが玄関の脇のドアホンを鳴らした。 「ごめんください、極楽寺の野狐というもんですが」  応答はない。 「すみません、安堂さん。ちょっと中川蓮次郎さんの紹介でお尋ねしたいんですが!」  おっさんのよく通る声に、通りを歩く人の視線が時々こっちに飛んでくる。 「居留守使われてる?」 「かもな」 「すみませーん。ちょっとごんごろのことで教えてください!」  玄関の引き戸に顔を近づけて、今度はオレが声をかけた。  室内で声がしたような気がした。またドアホンを押した。 「すみませーん。安堂さーん」  何度か声をかけると、引き戸の向こうが明らかに足音や声で騒がしくなった。 「安堂さーん」  ドアホンが応答のときのノイズを発して、「今開ける」とがさがさした声がした。さっと一歩後ずさると、玄関の引き戸が軽く半分ほど開けられ、真っ黒な顔の男が上半身をのぞかせた。 「なんだ、お前らは。近所迷惑な」  そう言った男は年の功50代半ばと聞いてたわりには、ごま塩混じりの短髪のせいか、それとも介護疲れのせいか、想像より老けていた。とはいえ、日焼けした顔から首は、潮風に当たっている人にはありがちなしわが刻まれていても、その上半身は筋肉質でたくましい。  海で働く男、という印象そのもののだけれど、疲れ切った雰囲気が見ている慧を辛くさせるほどだった。 「安堂徹さんですか?」  おっさんが一歩前に出た。体がでかくてスキンヘッドのひげ面という風貌にたいていの人は一瞬驚くけれど、目の前の男は動じた様子もない。 「オレは何も話すことはねえ。帰れ。こっちゃ忙しいんだよ」  喉が焼けてでもいるのか声がガラガラだ。たえず鼻もすすっていて、風邪を引いているのか、すこぶる体調が悪そうだ。 「中川蓮次郎さんから何も聞いてませんか?」 「ああ? 知らねえな」  言いながら、しきりに咳きこんだ。 「だいぶきつそうですが、大丈夫ですか?」  おっさんが玄関に手をかけて一歩近づいた。こういう時、体が大きいと迫力が増すんだろう。さすがに玄関の中の男もわずかに身を引いた。 「もうこの時期にもなってくると潮風は体に応えるでしょう?」  労るような言葉に、男はちらりとおっさんを見やって、それから「だからなんだってんだ。もう何十年とやってていまさら応えるもなんもねえわ」とつぶやいて玄関の引き戸を閉めようと手をかけた。でもおっさんがさりげなくそれを妨げていた。 「おい、手離せ、」と勢いこんだ瞬間、激しく咳きこんだ。  尋常じゃない咳きこみ方に、さすがに心配になってくる。 「中川さん、心配されてました。和菓子の細田さんも、一番たいへんだろうって。おじさん、なんでもいいので教えてください」  声をかけると、咳きこみ続ける男の目が一瞬慧を捉え、それからそらされた。 「おじさん。少しだけでもいいです。ごんごろの話、聞かせてもらえませんか?」 「……話すことなんざなんもねえ。帰れ」  その時、玄関の奥の方から声がした。お客さんか、と問うように聞こえたけれど、すぐに安堂徹のしわがれた声がかぶさった。 「知らねえ人だ!」  振り返って家の奥に怒鳴り、といってもガラガラの声が届いているかどうかは微妙だった。 「いい加減帰れ。帰ってくれ」  男はそう言って玄関の引き戸を閉めようとした。 「徹」とさっきよりははっきり近くで声が聞こえた。  玄関の向こうに続く廊下の奥に人が出てくるのが見えた。 「徹、どうしたね」 「安堂佐和、さん?」  思わず声をかけるようにその名を呼ぶと安堂徹の顔が引きつった。 「徹、どこだい。朝飯は食べたかね、母ちゃんが用意してやるから、徹、出ておいで」 「徹はオレが呼んでくっから、部屋でじっとしてな!」  男は廊下の奥に向かって精一杯といわんばかりに大声を出した。  あれ、と首を傾げた。目の前の男は安堂徹じゃないのだろうか。  奥の人影がゆっくりと部屋の方に入っていくのが見えた。 「見ての通り、ボケたばあさんとオレの2人暮らしだ。それ以上はなんもねえ。いい加減帰れ。でなきゃおまわり」呼ぶぞ、と男が言い終えるか否かだった。 「紬ちゃん!?」  理音の声とともに慧やおっさんの隣をすり抜けた影があった。 「あ、おい……っ」  止める間もなく紬が玄関の隙間に身を滑りこませた。驚いた男がひと呼吸出遅れた。 「おい、何勝手に……っ!」  紬はシューズを脱ぎ捨てて廊下の奥へ走っていく。 「ちょ、待ておい、こら!」  男がガラガラの怒鳴り声とともに慌てて中へと入っていく。その隙に慧も玄関を引き開けて中に飛びこんだ。 「おい、慧!」  排泄物がかすかに混じった、饐えた匂いがしている。かびも生えているのか、全身が少しかゆい。でもそれは覚えがあるかゆさだ。  ああ、と思い出す。  このかゆさは、アレルギーだ。そう思った時、家の中のどこかで確かに鳴き声がした。  ぶにゃ、というか、濁点ばかりのうにゃ、というか。 「ごんごろ!」  紬の大きな声が聞こえた。  そしてまた、決してかわいいとは言えないどす訛りの鳴き声がした。
/48ページ

最初のコメントを投稿しよう!

18人が本棚に入れています
本棚に追加