6章 面掛十人衆(一部)の男たち

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 男はやはり安堂徹本人。  ゲホゲホ、と咳きこみながら、そう名乗ると庭に面した畳敷きの部屋でうなだれた。そして半分縁側に開け放されている障子のそばに、紬がいる。その小さな手は絶えず大きな猫を撫でていた。  ごんごろだ。写真と変わらず、ハチワレで矢の形をした傷痕のある太った大きい猫だ。  そのごんごろを挟むようにして、安堂徹の母親である佐和がぺたりと座りこんでいた。紬とごんごろを無邪気に輝く目で見つめている。 「徹、お前なんで……なんでか。なんでこんな、こんな真似した?」  おっさんの連絡で駆けつけた中川のじいさんは力が抜けたように徹の前にひざをついた。  徹は度々咳きこんでいる。 「そんな具合悪い状態で、なんでごんごろを連れ去るような、こんなお前にゃ得にもならんようなことした?」  震える声で、中川のじいさんが徹ににじりよった。でもやっぱり徹は赤い顔で息苦しそうにしている。 「あの、もしかして……猫アレルギーじゃないですか?」  思わず声をかけると、そばにいた理音が「あ、」と声をあげて慧を見た。 「オレもあなたほどじゃないけど、小さい頃、猫アレルギーだったんです。近づくとむずがゆくなるというか」 「じゃあ苦手だったのは……」  理音にうなずいた。 「うん。嫌いじゃないけど近づくと自然とかゆくなったりするから、なんか苦手意識を持っちゃうんだよね。今はだいぶ平気になったんだけど、それでも自分からは積極的には近づかないというか」 「……そうだ。猫アレルギーだよ」  徹が観念したような声でつぶやいた。 「でもその様子だと猫アレルギーといっても重症な方じゃねえか?」 「そうだと思う。猫と一緒にいちゃいけないレベルだよ、おじさんのは」 「そうまでして、なんでごんごろをわざわざ……」  中川のじいさんの悲しげな声が座敷に落ちた。 「……もしやそこにいらっしゃる、お母さん……佐和さんのため、ですか?」  おっさんが静かに徹さんに向かって問いかけた。  徹さんは鼻をずずっと吸って、それから深く長いため息をついた。 「認知症ってのは、淋しいもんだよなあ……。あんなに長く暮らしたってのに、おふくろが覚えてんのは小さい頃のオレとかわいがってた猫ばっかになっちまってよ」 「佐和さんはそんなにもう……」  中川のじいさんが絶句したように、佐和さんを見た。  佐和さんは時々、紬に「八太郎はかわいいね」と話しかけている。でもすぐさま紬が「八太郎じゃないの、ごんごろ! もう何回言ったらわかるの! ごんごろっていうの!」と怒ったように言っている。 「そうかい、ごんごろっていうの。でも八太郎によっく似てるんだよねえ。八太郎はどこ行っちゃったかねえ」 「あの、八太郎っていうのは?」 「八太郎ってのは」と言いかけて、また徹さんは咳きこんだ。 「ねえ慧くん。ごんごろがいるこの部屋じゃなくて、ほかの部屋にしたら? 紬ちゃんもおばあちゃんも私が見てるから」  理音のさりげない提案にうなずいて、おっさんと中川のじいさん、そして徹さんとともに隣の部屋に移った。床の間の隣に仏壇があり、史乃さんの家と似た線香の匂いがした。仏間なんだろう。鴨居にはいくつもの白黒写真が飾られ、着物姿の男女が見下ろしてくる。唯一飾られているカラー写真は比較的新しく、そして男性のものだった。厳しい顔は真っ黒に日焼けしていて、徹さんに似ていた。 「悪いな、仏間で。ここは猫が寄らねえから、ちょっと楽になんだわ」  そう徹さんは言って、押入れから紫のいかにも重たげな座布団を出して配った。徹さんは自分の下には座布団を敷くこともなく、正座すると、改めて中川のじいさんに向かって深く頭を下げた。 「中川さん。本当にすまねえ。ごんごろを連れ去る気はなかった。もちろんごんごろになんかするなんてことも考えてねえ。ただ……ただ、ごんごろとおふくろを少し一緒に過ごさせてやりたかった、それだけだ」 「……どういうことか説明してくれるな?」  玄関で対峙した時の頑なさはかけらもなく、徹さんは肩を落としてうつむいたまま、とつとつと語りはじめた。 「おふくろの認知症が急に進んだのは、今年の夏ぐらいだったんですわ。やたら暑いわ不漁続きだわで、オレもあんまり気が回んねえで、ちょっと留守してる間におふくろを入院させるはめになってしまいまして。オレの顔見ながら、徹はどこか、って言うんですよ。そのうち、縁台で外見てると、八太郎はどこか、って言い出して」  八太郎。  さっき、紬を前にごんごろのことを八太郎と言っていた佐和さんの顔を思い出す。じっと嬉しそうにごんごろを見つめては、「八太郎」と言ってにこにこしていた。 「八太郎ってのは、おふくろがかわいがっていた飼い猫なんです。飼い猫って言っても、外猫ですよ。小さい頃に飼ってた猫にそっくりだってんで、かわいがっていて。  ただオレは猫アレルギーだから、家の中に入れることはなかった。でもある日、オレは親父とやりあって、その時ちょうどおふくろに飯もらいにきてた八太郎に、その、なんていうか八つ当たりしてしまいまして。以来、二度とうちに八太郎が来ることはなかった。  おふくろは何も言わなかったけど、でも亭主関白の親父の影でいつも我慢してきたおふくろの唯一の楽しみを、オレは結果的に奪っちまいました」  軽く鼻をすすって、徹さんは両膝の上に置いている拳を握りしめた。 「認知症が進んだおふくろを散歩に連れ出した時のことです。といっても、いつも権五郎神社までしか行かねえけど、ごんごろを見たおふくろが突然言い出したんです。あれは八太郎だって。八太郎がうちに遊びにきてたのは、オレが高校生の頃です。数えても、もう生きてるはずがない。  それでも、八太郎だって言い張って。それから家にいても、八太郎八太郎、って。暇さえあれば、八太郎はどこ行ったか、八太郎のとこ連れてけと。散歩で会わせるだけじゃ間に合わなくなって、ちょっと知り合いんとこの猫を連れてきても、八太郎じゃないって。  オレはもう息がつまりそうでつまりそうで……。今のオレの顔なんか忘れて、オレを見れば八太郎か昔のオレを呼ぶばっかりで。それしか言わねえおふくろが……」  さっき玄関先で、奥の人影、それは佐和さんだったけれども、徹さんが怒鳴ったのを思い出した。  自分の母親が、産んだ息子の顔を忘れている。徹さんの握りしめた膝の上の拳にやりきれなさが募った。 「……だから、ごんごろが、家にいてくれりゃ、おふくろももう少し落ち着くかと思いました。うちと権五郎さんとは目と鼻の先です。だったらほんの少し、ちょっと借りるくらいなら、と。でも、……でも全然、返せなくなっちまった。  おふくろは、喜んで、喜んで、で、時々言うんですよ。徹、漁の首尾はどうだったかと、今日はなにが獲れたかと、生活は大丈夫かと。ほとんど八太郎か幼いオレの記憶ばっかだったおふくろが、時々思い出すんです。それを聞いちまったらもう……返せなくて。そのうちに騒ぎが大きくなって、そこの人らみたいに探し回る人も出てくるし、おふくろは八太郎に、いやごんごろにべったりだし、なんかケーブルテレビでごんごろ失踪とかニュースになりだすしで、もう言い出すに言い出せなくなっちまって」  そう言うと徹さんは額を畳にこすりつけるようにして、さらに謝った。  その姿に、慧は心臓がぎゅうっとわしづかまれるような痛みを感じた。慧よりも全然年齢が上の大人の男が、ドラマの中じゃなくて本気でそうしていることが、そうしなくてはならない状況がたまらなく息苦しい。 「中川さん、本当に申し訳ねえ。こんな大きな騒ぎにさせちまって、なんてお詫びすればいいか。ごんごろは、ちゃんと神社に返す。オレで償えることがあったらなんでもします」  中川のじいさんは、目の前でしきりに謝り続ける徹さんを見つめたまま、口を開きかけ、そして閉じた。  でも徹さんの言うようにごんごろを返したら、佐和さんはどうなるんだろう。もっと認知症が進んだりしないのだろうか。 「……徹」と中川のじいさんがようやく押し出すように声を出した。 「どうして、もっと早く、そう言ってくれなかったんだ。宮司だって真純さんたちだって、事情を知れば、ごんごろをしばらくこの家に預けるってことだってしてくれたろう。なにせ、権五郎さんとこことは、お前の言う目と鼻の先の間柄だってのに、なんで、なんで言ってくれなかった。一言、言ってくれれば、佐和さんのことでもほかのことでも、力にならんと思っとったかね。同じ町内に住んでるもん同士、権五郎さんのもとにいるもん同士、力にはならんかったか、私らじゃ」 「そんなことねえ、そんなふうには。……ただ、……言おうと、思っとりました。思って、……でもオレはおふくろの介護でいろいろと氏子の仕事を免除させてもらってて、しかも例大祭が近づいててみんな準備で忙しくしてるってえのに、そんな時にごんごろを貸してくれなんて、……祝い事のまっただなかに、こんな介護だなんだの辛気くせえ話をオレにはとても、」と徹さんが言葉を切った。  中川のじいさんは黙って同じように視線を畳に落としたままでいる。その背中がかすかに震えていて、それが怒りというよりも悲しさに満ちているように見えた。 「……まあまあまあ、蓮次郎さん」  突然、明るい大声が割って入った。  おっさんがどっかとあぐらを組んで身を乗り出し、笑みを浮かべた。  ちょっと怖いほどに、笑顔だ。そのあまりに場にそぐわないおっさんの様子に、中川のじいさんも徹さんも何事かと凍りついた。 「いやまあですね、とりあえずごんごろは見つかった。しかも元気に、佐和さん、紬という女性2人から熱烈にかわいがられている。いや、真純さんからも未涼さんからも、理音ちゃんからもだ」  理音ちゃん?  なんで、おっさんが理音を下の名前+ちゃん付けで呼んでるんだ? 「結果的にです。結果的に、何も問題はないわけですよ!」 「問題はない?」 「ごんごろはですね、佐和さんに会いたくて、たまたま、この目と鼻の先にある安堂家のおうちに居候しに来てただけじゃないですか」  急になにを言ってんだ、この人。  今、話を聞いてなかったのかとオレは思わずおっさんを突いた。でもおっさんは気にもとめずに話を続けた。 「ごんごろは、ちょっとでかけていただけで、まあ明日には神社にお帰りになる。でも佐和さんに会いたいから、例えば週の2、3日は別宅に出かける。まあその時は紬なんかももれなくついてくるかもしんないですけどね。でも猫だろうとなんだろうとモテてりゃあ別宅ぐらいあるでしょう。なにせ、ほら面掛行列の阿亀ももとは頼朝が恋仲に落ちた、愛人なわけですからね」 「野狐の、それは……つまり」  中川のじいさんが困惑した声を出した。 「ええ、猫ですよ? 猫は自由自在、気まぐれな生きもんですから。女性と同じように」 「女性は余計じゃないの?」  急に声がして、ハッと顔をあげると理音がふすまを開けたところに立っていた。 「ごめんなさい、声かけようと思ったんですけど……」  いつから聞いていたのかわからないけど、理音はそのまま徹さん、それから中川のじいさんを見た。 「あの、おふくろがなんか粗相でも……」 「いえ、なにもないです。すごく平和。幸せって思えるくらいに、すっごくね」 「え?」  理音は、にっこりと笑った。
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