1章 野狐という屋号のおっさん

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 初めて見る顔じゃない。確かじいちゃんとよく縁側で話している(というかよく言い合っている)のを見かけたような気がした。なんとなく関わりあいになるのも面倒だなと思い、顔をひっこめかけた。  でも先に史乃さんに目ざとく見つけられてしまった。 「慧、終わったの?」 「うん、見つけたけどお客さんなら後にする?」 「大丈夫、むしろこの方のためでもあったのよ」  そう言って史乃さんは笑って斜向いに座るおじいさんを見た。日本茶をすすっていたおじいさんの澄んだ小さな目が、史乃さんの言葉を聞いて光ったように見えた。 「もしや見つけましたか」 「ようやく。おじいさんじゃもう全然見つからないから、孫とプロの方にお願いしたんですよ。慧、こちらは長谷の方で町内会長をされている中川さん」  史乃さんに目で挨拶するように促され、慌ててその場に膝をついて頭を下げた。たぶん、というかきっと偉い人なんだろう。 「初めまして、宮島慧です」 「おお、礼儀正しいお孫さんですなあ。私は中川蓮次郎(れんじろう)というもんです。泰治(たいじ)さんの将棋仲間といった方がわかりやすいかな」  口をもごもごさせるような喋り方は、空気の成分が史乃さんよりも断然多い。  泰治というのはオレのじいちゃん、つまり史乃さんの旦那の名前だ。 「で、どれ。見せていただきますかな。泰治さんご自慢の将棋駒」  どうやらじいちゃんが目の前の仙人ばりのじいさんに見せる約束をしていたらしい。 「あ、持ってきます」  そう言って立ち上がったと同時に、どらのような声が響いた。 「持ってきたよ、ほれ」  紫の風呂敷に包み直された将棋セットを手に、敷居の手前におっさんが立っていた。 「あらあら野狐さん、どうぞ」  史乃さんが手で座布団を示して、おっさんは頭を軽く下げるようにして座敷に入ってきた。それを中川のじいさんは目を細め、長いひげを片手でしごくようにしながら見つめている。 「これはまた、大きな御仁ですなあ」  心底感心する声におっさんがその場に膝を折って正座すると、深く頭を下げた。 「極楽寺で古道具屋兼便利屋 野狐を営む支倉(はせくら)実篤(さねあつ)です。ご面倒をおかけしておりまして」  はせくらさねあつ、という名前なのか。まるで武士みたいな名前だ。 「古道具屋と、便利屋とな?」 「ええ、主には古道具屋ですね。まあ古道具を扱う以上、便利屋的な部分も多分にありまして。よろず承っているという感じですかね」  ふむふむとうなずいていた中川のじいさんはそれから頭を下げて名乗った。互いに名乗りを終え、おっさんはテーブルを回りこんで紫の風呂敷包みを2人によくみえる位置で解いた。  さっき見た将棋セットだ。 「さて、野狐の御仁。そのセットはそこそこの値打ちものらしい。どう見たてますかな?」  中川のじいさんがひげの奥の口元を緩めたようだった。その目はきらきらしていて、なんだか悪戯をしかけているみたいに見えた。  古道具屋と名乗るだけの証を立ててみろ、ということかもしれない。  仙人のような優しげな風貌をしておきながら、なかなか曲者な人だ。とはいえ、じいちゃんの知り合いならそんなもんかもしれない。  引っかかったおっさんには気の毒だけど、まあオレには関係ない。適当なところで切り上げて、母さんの忘れ物を見つけたら帰ろう。  なんとなくスマホをとりだしながらおっさんを見ると、やはり緊張してるのか、でかい体で居住まいを正していた。 「島つげの天童将棋セットかと思います。最近作られたものじゃなくて、おそらく大正期あたりのものと見受けました」  おっさんの言葉に中川のじいさんの目が値踏みするように細くなった。 「どうしてそう思われましたかね? 野狐の」 「まず木地の材質ですが、この飴色の艶と手触りはつげ材でしか出せない。国産のです。ならば薩摩か御蔵島かのどちらかのものになりましょうが、この木目の模様を見ると、このつくり手は美しく見えるということを意識していますね。ならば、薩摩より御蔵島、つまり島つげのものです。飴色の濃さからするとだいぶ使いこまれたんでしょうが、模様がよりきれいに浮かび上がっていますから100年くらいと考えても問題なさそうです。それから、この駒に書かれた字と技法。字は楷書体ではなく草書体によるものです。技法は……」  将棋なんて文字が書かれている木でつくられた駒や台で、最近ちょっと流行してるもの。どれも同じだとばかり思っていた。  なのに、目の前で、おっさんは慧には見えないものを読みとっている。  おっさんが少し言い淀んで、駒の1つをとった。  文字が書かれている表面を確かめるように太い指で撫でて、かすかに眉をひそめている。その指でつぶされてしまうんじゃないかと思うくらい、3センチくらいの大きさだ。  いったいなにを確認しているんだろう。オレにはわからない。 「……おそらく、文字は天然の漆を直接駒に書きつける、いわゆる書き駒の技法だと思うんですが」 「迷っておられる」 「ええ、盛り上げ駒かもしれない、という気もしています」  そう言ってからおっさんは駒に目を落とした。そして何度も指で駒を撫でた。というより、字を撫でているらしい。 「やはり書き駒、と思います。草書体の書き駒となれば、山形の天童将棋駒の特徴。今は書き駒も下火のようですが、古い駒であれば、書き駒が主流だった時代のものとも考えられます」  わずかに顔をあげてひげをしごきながら聴いていた中川のじいさんは、少しの沈黙のあとに「ふむ」というような声を出した。  史乃さんはしれっとした顔でお茶をすすっている。  おっさんの顔は少し強張っているようにも見えて、なんとなく張りつめた空気に、気づいたら自然と肩に力が入っていた。  黙っていると、中川のじいさんは「どれ」と言いながら手近に置いてあった手提げの袋から大きなルーペをとりだした。それで将棋の駒をじっくり眺めたり、おっさんのように指でなぞったりした。 「野狐の、なかなかいい目をしておられる」 「では」と、おっさんがいそいそと身を乗り出させた。 「古道具屋と名乗られるだけある。確かにこれは御蔵島のつげ材。見てみなさい、この木目の表情。たまりませんなあ。これをちゃんと分かるというのは、そうそうおるもんでもない。勘所がいいと言いますかな、いや、これはなかなか、なかなか」  中川のじいさんが目を細めておっさんを褒めるから、おっさんはそわそわと落ち着かないみたいだった。まるで小学生の子どもみたいだ。  でも中川のじいさんは、どこか楽しそうに笑っている。  その長いひげに隠れた笑いがあざとく見えるのはオレだけなんだろうか。  疑っているわけじゃないけどいまいち信用しきれないまま2人を見ていると、中川のじいさんは慧の視線に気づいて、唇の端を軽くあげてみせた。  うわ、やっぱり。にやりと笑ってみせる仙人なんてろくなもんじゃない。だいたいあのじいちゃんの知り合いに、こんなふうに誰かをべた褒めするようないい人なんていると思えない。 「ま、こんくらい野狐にはどうってことないけどな」  おっさんがほくほくとほおを緩ませながら隣のオレに耳打ちするように言った。そしてまた中川のじいさんが将棋駒をじっくり確かめている様子に目を戻した。  いや、さっきの中川のじいさんの笑みからすると、どうってことあるんだろうけどね。  そうは口にせず、憐れみに満ちた目だけで隣を見た。 「ほうほう、どうですかな、史乃さん」 「あたしは、そういうものは全然わかりません」  史乃さんがやんわりと笑い、中川のじいさんが将棋駒を元の木箱に戻した。 「野狐の、支倉さんとおっしゃったか」  さすが、という言葉を待っているんだろうとわかる顔でおっさんがうなずいた。。 「この将棋だが、私が見たところによると、支倉さんの見たて、半分当たりで半分外れ、というところかな」 「えっ……え?」  おっさんの顔がかたまった。 「まあ完璧に当たっていたらおもしろくもなんともない」  中川のじいさんが顔をあげて心底楽しそうに笑った。  おっさんががっくりと肩を落とした。  そんな甘いもんじゃないよ、おっさん。じいちゃんの知り合いに、他人に厳しくない人がいないわけがない。 「まあまあ、そんなに落ちこまんでよいよい。むしろ、そこまでの知識と分析力はたいしたもの」 「はあ、ありがとうございます」  動揺しながらも、おっさんが膝に手を置いて深く頭を下げた。  そして頭をあげると同時に真剣な顔で中川のじいさんに、どういうものかと聞いた。 「伊豆七島が御蔵島産の、いわゆる島つげと言われる木地は間違いない。しかも根からとった根杢だろう。  問題は、技法。書き駒の方ではなくてな、盛り上げ駒の方よ。漆で字が表面から盛り上がるように立体的かつ均一に書く技法だが、使いこまれておるせいか、盛り上げのぽっちゃり感も少ない。そのせいで書き駒と判別がつきにくかったんだろうな。なにより、技法の中でも手間、時間、高度な技術が必要なだけあって、今は盛り上げ駒が最高級品とされておる。  確かに天童は草書体の書き駒が伝統だが、これは東京のものと見る。天童が今の将棋駒の一大産地、一流ブランドになったのも、もとは東京の名人たちの手になる駒が源流と言われておるしな」 「そうでしたか。でもその将棋駒、書き駒と盛り上げ駒をどうやって見分けられたんですかね。後学のためにもご教示願いたく」 「そこが難しい。だが」  中川のじいさんが目を閉じてうなずいた。 「あの最高級品といやあなんでも飛びつく泰治が、盛り上げ駒に飛びつかんわけがない」 「……え、じいちゃんの成金趣味で判断したの?」  思わずそう言った時だった。
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