1章 野狐という屋号のおっさん

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「成金趣味か……」  後ろから落ちこんでるとわかる低い声がして、あ、と声を出して振り返った。  紺色のジャージ姿をしたじいちゃんが敷居をまたいで入ってきて、慧を恨めしげに見た。  やばい、小遣いないかも。  こういう点は、史乃さん同様、じいちゃんも容赦がない。似た者夫婦なんてろくでもない、と思うのはこういう時だったりする。  だから慌てて「ごめん、じいちゃん」と両手をあわせた。  じいちゃんがこれ見よがしにため息をついた時、 「孫にまでそう言われておるとはな」 と、中川のじいさんが空気成分の多い笑い声をあげた。 「うるさい。蓮次郎こそ、そこの若いもん相手にいやらしいやり方するじゃないか」  そう言ってじいちゃんは痛ましげにおっさんの方をちらりと見た。おっさんは状況についていけないのか、じいちゃんに会釈だけして、なんとなくオレを見た。 「うちのじいちゃん」と声をあまり出さずに口を動かして教えた。 「別にいやらしくもあるかね。ちょっとした冗談につきあってもらっただけよ」  中川のじいさんがふん、と鼻を鳴らした。 「だいたいな、泰治。ここに呼びつけといたのはお前さんだろう。なのにその張本人が留守。空いた時間を有意義かつ楽しく過ごさせてもらった。それだけのこと、ですな、支倉さん」  さっきまでは戸惑っていたように見えていたけれど、おっさんは「そうですね」とあっさり同意した。 「将棋の世界は奥が深いですからねえ……。今回は貴重な体験をさせてもらってます」  平然とそう言ったおっさんを、じいちゃんが改めて見た。 「おじいさん、極楽寺の野狐さん。便利屋さんなんですよ。ほら、最近あたしがいろいろとお願いすることがあるって前話したでしょう」  史乃さんの言葉に中川のじいさんが首を傾げた。 「ん? 古道具屋じゃあ?」 「ああ、どっちでもいいですよ。要はよろずお引き受けしております。御縁がすべてですからね」  おっさんはそう言って改めてじいちゃんに挨拶をした。 「こちらこそ、この将棋を見つけてくださって、改めて礼を申し上げます。どこに置いたか困ったものです、歳のせいかあっという間に忘れてしまってね」 「史乃さんからは、納戸の整理も、ということでした。ちらっと見ただけですが、よいもの珍しいものたくさんあるようです。どうでしょう、今度鑑定の人間も連れてきてよろしいでしょうか?」 「泰治んとこのもんは一貫性がない。がらくたばっかにならんとよいが」  中川のじいさんの嫌味にじいちゃんがムッとしているのを見て、慧は立ち上がった。  とりあえず母さんの忘れ物を見つけておかないとならないし、なにより変に緊張していて喉が渇いていた。大人の邪魔をしないよう静かに座敷を出て台所に入り、冷蔵庫をあけた。  じいちゃんが好きなゼロコーラのペットボトルが並んでいる。その中の一本をとりだして飲んでいると、史乃さんが入ってきた。 「まったく将棋1つでああも話が尽きないもんかしらね」  呆れたように言うと、急須の中の茶葉を捨て、新しいお茶の用意をはじめた。 「ああ忘れるところだった。中川さんから力餅の手土産いただいたのよ、慧は?」 「食べる。このテーブルに置いてあるやつ? いいの?」  抹茶よりも濃い地色に白抜きの太い楷書体で「力餅家(ちからもちや)」と大きく書かれた包み紙の、15センチもない長方形の小箱をとりあげた。 「そう、開けてちょうだい。向こうの3人にもお出しするから」  手早く包みを破いて「鎌倉名物 権五郎力餅」と書かれた白い箱を開けた。  ちょうど10個、こしあんが厚くのせられた白い餅が行儀良く並んでいる。  鎌倉の中でも長谷寺や鎌倉大仏といった観光地の1つ、長谷の地域に300年も続くという「力餅家」の和菓子だ。よけいなものが入っていないため、当日しか日持ちしないけれど、週末の店の前には人が並ぶこともあるくらい知られている。  付属している黒文字で1つとりだして、口にほおばった。 「うまっ」  体の芯から解けていくような素朴な甘さがたまらない。  混じりけのない、ちょうど人肌の柔らかさのような餅と、甘さを控えた素朴なこしあん。女の子なら2口か3口だろうけど、男の慧はひと口でいけてしまう大きさだ。 「そういや慧がまだ幼稚園年長さんくらいだったかね、よく一緒に力餅食べてた子がいたねえ」 「ええ? そうだっけ?」  9個残っている。史乃さんと座敷の3人の分をのぞいても余る。  もう1つはいいだろうと、史乃さんの問いかけに生返事をしつつ、また黒文字でさして口にほおばった。 「女の子、なんて名前だったっけね」 「女の子?」 「そう。力餅が好きだって、ほら、慧、あんたとよくうちに遊びに来てたでしょ。確か長谷あたりに住んでて……」  もぐもぐ口を動かしながら、はるか昔の記憶を引っ張りだす。  そういや、まだ5歳か6歳くらいの小さな頃によく遊んでいた子がいた。  幼なじみというには家が少し離れていたけれど、ほかに友達がいるとかではなく、本当に2人でよくこの扇ガ谷の家に来て畳の上で図鑑を読んだり、ゲームをしたり、ままごとをしたり。疲れると昼寝をして、起きて麦茶を飲んで、力餅やスイカを食べて。  仲がよかったはずなのに、なんて名前だったろう。 「おいしいね」って、いつも幸せそうな笑みを浮かべて力餅を食べていたあの子。黒い髪が長くて――。 「お、うまそうなの食ってんな」  記憶をたぐり寄せていたのが、ぶつんと途切れた。  振り返ると、おっさんが史乃さんに頭を下げながら台所に入ってくるところだった。 「2人の相手は疲れたでしょう。今、お茶を持っていこうと思っていたのよ」 「いやもう、興味深いですね。2人ともさすが博識でおられます。正直、浅学のオレにはついていけなくなりました」  笑いながらおっさんは断りもなく、隣のイスに座った。でかいせいか、イスがかすかに鳴った。 「力餅か、うまいんだよなあ……」 「中川さんの手土産なんですよ。野狐さんもどうぞ」  史乃さんが黒い塗り皿を出してきて、慧に渡した。箱から1つとりだして皿にのせると、楊枝をそえて隣にすべらせる。 「いただきます!」  両手をぱん! と合わせると、おっさんは慧と同じように力餅を口にまるごと放りこんだ。 「うまいなあ」  心底ホッとしたような声のおっさんに史乃さんが笑いながらお茶を差し出した。 「あ、すんません」 「いえいえ、あの人たちはまだやりあってるのかしらね」 「あー……」と顔を天井の方に向けて、それから首に巻いていた手ぬぐいで顔をごしごしと拭いた。  それだけで史乃さんは納得したらしく、にっこり笑った。  嫌な予感がして「ごちそうさまー」とつぶやいて席を立った。  やりあってるじいちゃん達の間に割りこむなんて想像するだけで面倒だし、気力を奪われる。そう思った矢先だった。 「慧、力餅もっていってあげなさい」  史乃さんの空気成分が多いくせに威圧的な声で白羽の矢がオレに立ち、「うあー……」とがっくりうなだれた。
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