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1章 野狐という屋号のおっさん
なんだよ、なんなんだよ、これ。なんでオレ、こんなとこで猫探してんの。
顔にクモの巣はひっかかる。制服のワイシャツの半袖から伸びた腕はもう、細い枝先で切り傷だらけだ。地面についた手のひらも膝小僧もざらついた砂や石に当たれば痛い。
口の中でぐにぐにと噛んでいたグミを飲みこんだ。クエン酸の酸っぱさだけがなけなしの涙のようにわずかに舌先をしびれさせた。また2個めを口に放りこむ。
「文句言ってねえで、這いつくばって探せ」
「うるさいな、命令すんな。だいたいあんただって、たいして探してないだろ」
隣から響いた声に反射的に返すと、舌打ちする音が聞こえた。
舌打ちしたいのはこっちだ。
そう言いたいのをぐっと抑え、頭を地面すれすれにつけるようにして、慧は常緑の茂みの奥をのぞきこんだ。
わずかに光が届く地面には、枯れ枝や葉っぱ、石ころ、歩き回るアリ。それからどこかから吹き寄せられてきたらしい、破れたビニル袋やひもの残骸。
さっと撫でるように視線を走らせたところで、探し人ならぬ探し猫の、求める姿はない。茂みに突っこんでいた頭を抜いて、軽く振った。
最悪だ。ワックスで整えた髪がよけいに葉っぱや小枝を巻きこんでいる。
その時、「何してるんだろうねー」「落とし物じゃない?」と、忍び笑いが聞こえて振り返った。
大学生らしき2人の女性がちらりと慧を見やりながら通り過ぎていった。
さっとほおが熱くなった。流行りのファッションでも歩きやすそうなスタイルをしていたから、たぶん地元の人間じゃない。
地面を這いつくばってる、こんなダサい姿なんて見られたくなかった。せめて同じ学校の生徒じゃなくてよかったかと、不満と安心のないまぜになった気分で顔をまた茂みの方に戻しかけ。
目の前に、でかい四角があった。
「うっわ!」
思わず飛び退くように体を後ろにそらした。
違う、四角の輪郭をした男の顔だ。引き締まっていながら、その男の体つきは山のようにでかい。
そのせいか至近距離にあると見慣れなさすぎて、いちいちビビる。
「なに、サボって女子大生みてんだ。まだお前にははえーぞ」
「は? 見てないし。だいたいさ、もうこんなとこいないんじゃないの。それにあんたみたいなのがいたら、出てくるもんも出てこない」
「はあ? 何言ってんだ。探せ。よく探せ。白黒。ハチワレ。目の上の矢の形の傷。太ってる。おじいちゃん、底なしの食いしん坊、だ」
はたから聞けば何言ってんだこいつ、とか思う。
でも探し猫の特徴がまさにそれだった。
スマホ画面に呼び出した猫の写真をもう一度見た。
そこには、江ノ電と呼ばれて親しまれるローカル電車の線路が横切り、その先に拝殿を切り取るように建つ石造りの鳥居がある。鎌倉の権五郎神社だ。江ノ電の遮断機越しに写されたその鳥居の根本には、堂々とした猫が1匹座っている。ふくふくと、とにかく大きい。慧が住むこの鎌倉では今や有名人ならぬ有名猫なごんごろだ。
彼こそが、権五郎神社に住み着く福猫。慧と隣にいる男が探している相手ならぬ猫だった。その猫を、慧と男は権五郎神社の参道沿いに並ぶ民家の軒先や庭、茂みをのぞいては探し回っているのだ。
慧はため息をつきながらスマホを尻ポケットにしまった。
今度は別の茂みにあたるか。
立ち上がって後ろを振り向いた。
「……おっさん!」
「ぅおっ!?」
慧がおっさんと呼ぶ男が、民家の壁の陰で缶コーヒーを飲んでいる。角の自販機で買ってきたのだろう。こっちは飲まずで探しているというのに、その余裕ぶった姿にイラッとして大声を出した。
「なに、サボってんすか」
「サボってない、一服と言え。一服と」
「なんでもいいから探してくださいよ、もとはといえばあんたが引き受けた仕事でしょ」
「言われなくてもわーってるよ。少しくらいいいだろうが。ま、高校生にゃあこのうまさはわかんねぇからなぁ」
わかんなくていいよ。
そう思った時、すぐそばの民家の玄関ドアが開いて、主婦らしき女性が訝しげに顔をのぞかせた。
「あの……なにか?」
「あ、どうも、お騒がせして申し訳ありません。ちょっと飼い猫を探してまして」
男は缶コーヒーをさりげなく置くと、はきはきと愛想よく女性に説明をはじめた。近隣住人との折衝は慧の役割にはない。
また茂みの下をのぞこきんだ。背後で女性が男の言葉にか、笑い声をたてた。
「じゃあ、こちらも気を配ってみますねー」
「ありがとうございます! これも何かの御縁です。どんなことでも御用がありましたらその連絡先までぜひ。ではご面倒をおかけします!」
玄関ドアが閉まる音がして、男がいる方からがさがさ葉がこすれあうような音が聞こえてきた。
とりあえず住人から許可は得たらしい。というか、探す前に断っておいてくれと内心で文句を言いながら、慧は目の前の低木の下をのぞきこんだ。
やっぱりいない。
ため息をついた。いつまでこんなことをしなくてはならないんだろう。
ふと静かになった隣の方が気になった。なんとなしに四角顔の男のでかい背中を見る。
やっぱり。茂みの手前をさらってるだけじゃん。
「もっと真面目に探してくださいよ……」
背後に立ってそう声をかけると、びくりと小山のような背中が反応した。
「いや、探してんぞ?」
どうして振り返って、オレの顔を見て言わないんだろう。
「全然でしょ。探すってのはー……」
こうだ、と言わんばかりに丸太みたいな腕をつかんだ。慧のふくらはぎくらいはあるんじゃないかと思う。
「やめ……っ」
けっこうな力を動員して、そのまま一緒に茂みに手を突っこませた。
その瞬間、男が雨に濡れた猫さえもあげないような哀れな悲鳴をあげた。そして体つきの割に俊敏に飛び退いて、男がどっかの寺にあるような仁王像みたいな顔になった。
「おま、お前、……っ」
「おっさん、虫だめでしょ」
赤い顔が青くなって、それから白くなって。
これは百面相だなと思いながら、慧は男の隣の潅木の茂みの前にしゃがみこんだ。そして体を折り曲げ、低木と低木の隙間に少し身を乗り出させた。
さっき探した場所とたいしてかわりばえしない光景が目に入った。
「ここも全然いないんすけど」
振り返ると慧の背中を蹴ろうとでもしていたのか、男がちょうど足をあげかけていた。
「なにしてんすか?」
「ん、んん?」
濁った音のわざとらしい咳払いとともに、男はそのまま後ろを向いて別の民家の軒先をのぞいたりしはじめている。
なんなんだ、このおっさんは。大人のくせに。
慧は呆れてため息をついた。
「どうせ高校生なんざ暇だろ」
そう慧を決めつけてこんな民家の軒先の茂みをのぞきこんでは「ごんごろー」と呼んで探すはめに陥らせた相手。でかい体をもそもそと縮こめるようにしながら猫を探しまわる、頭にタオルを巻いたスキンヘッドの男を見た。
カタギには見えない。
見えないからついビビって、はい、なんてうなずいてしまったのだ。
支倉実篤。
鎌倉武将みたいな名前をしてるくせに、その正体は、鎌倉は極楽寺で古道具屋兼便利屋「野狐」を営む店長、いや店主(とわざわざ言い直された)だという。
でもその実、やってることはなんでも屋だ。
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