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 目が醒めるとすでにトラヴィスの姿はなかった。  新年は明け儀式は始まっていた。今年大人になる全ての獣人は儀式を始めているはずだ。トラヴィスが特別なだけで、簡略化された儀式はあらゆる家で行われているはずだった。  人族は儀式が更に簡略化されている。お披露目しかないのだ。明日を迎える事はないけれど、トラヴィスが用意してくれた大人の儀式の衣装は部屋の端に飾っていた。  儀式のための衣装を結局着ることが出来なかったなと残念に思った。釦や編み込む紐が沢山あるので、試しに一人で着てみることも出来なかったのだ。 「これを着るの?」  アレンから手渡された服とも呼べないほど薄い布は、とても手が掛かっていた。金糸で花や模様が刺繍されていて触ると柔らかいのに重かった。 「そうです。これが生贄の正式な衣装なので」  そういえば絵本の女の人もこんな感じのものを着ていた。 「でも俺、狼族じゃないから、これだと身体がほとんど隠れないんだけど……」 「それで隠す必要などありません。神殿の中に入るまでこれを上に羽織ってもらうので、誰も淫らだなんて思いませんよ」  フードのついた真っ白なローブは足先まであった。しっかりとした分厚い生地で透けることもなく、暖かそうだった。 「先に渡してよ……」  わざとだとわかる笑みを浮かべ、アレンは部屋を出て行った。 「アレンって、何を考えているのかわかりにくい。いいな。アレンはトラヴィスと一緒に生きていくんだろうな……」  もし自分が人族でなく狼族として生まれていたらトラヴィスは友達になってくれただろうか。四つ脚で一緒に野原を駆けることもできたならトラヴィスの信頼を得て、友として一生側にいる。  それでもトラヴィスは、俺を選んでくれないような気がした。 「乗ってください」  アレンは狼族でも優秀なαだからか四つ脚になっても大きい。顔の位置はほとんど自分と変わらないくらいだ。 「え……」  乗れと言われても、獣人が四つ脚になるのは珍しいことだから戸惑う。俺は大人の獣人が獣形をとるのを見たことがなかった。さらに人を乗せることなんて、聞いたこともない。 「神殿は二本脚でいけるほど楽な場所ではないんです。そんな怖がらなくても傷つけたりしません。生贄なんですから」 「っ! そんなこと心配してない」 「妹も大人になる頃、私をみて震えていたのを思い出しました」 「……人族だったんだ。今は?」 「番が出来ればαを恐れることもなくなります。ただ、その過程で、精神を病む人族も少なくないんです」 「妹さんは大丈夫だった?」 「ええ、今は三人の子持ちです。元気に走り回ってますよ」 「良かったね」  うらやましいと思う気持ちもあったけれど素直に良かったと思えてホッとした。最期まで自分らしくありたかった。 「あなたは……」 「ん? 何」 「いいえ。本来は儀式の主役であるトラヴィス様が、あなたを背負って通る道だったんです。少し怖いかもしれませんが、目を瞑っていてください」  トラヴィスが生贄として自分を運んでくれたら、悲しさや未練があったかもしれないけれど幸せだっただろう。  アレンの背に跨がり乗り心地は悪くないと言ったら、呆れたようにため息を吐かれた。  街の方ではなく城の裏山を越え森を越えた先に尖った山がある。その山は岩で出来ていて確かに人族である俺の脚では無理があった。 「舌を噛まないように――」  アレンは身体の大きな狼族だけれど、その山を登るのは大変そうだった。岩を飛び越え続けてやっと神殿のほこらにたどり着いたとき、アレンの手からは血が出ていたし呼吸も粗く疲れ切っていた。 「……王になるわけでもないのにΩを乗せてこの山を越えたのは私だけじゃないですかね」  王になるための試練なのだろうと思っていたら、そうでもないらしい。 「普通の狼族である私には苦行ですが、王となるトラヴィス様だったら鼻歌を歌いながら越えられますよ」  自慢げなのにげっそりしていて、アレンを面白いと初めて思った。 「さぁ、行きますよ」 「トラヴィスにバレない?」  ここまで覚悟を決めてきたのに見つかって帰れと言われるのは嫌だ。  心配しながら訊ねると、グイッと顔に頭を押しつけられた。昔はこれが嫌だった。小突き回されているようだからだ。  これが親愛の仕草だと今の俺はわかる。 「どうして?」  アレンは俺のことが好きではないはずだ。  トラヴィスの側近は俺を王となるトラヴィスの邪魔になると思っている節があって、こんな風に接する意味がわからなかった。 「私はトラヴィス様を主と認めています。あなたはあの人に相応しくないと思っていましたが……。二週間一緒にいて考えが変わりました。出来はよくないですけど、一生懸命だ。人を思いやる優しさもある。そしてトラヴィス様を想って自分を投げ出す勇気もある――」  思いがけない言葉に、目頭が熱くなった。 「アレン……」 「最初は妹が人族のΩであったから王様に命じられてあなたに教えていましたが、今はあなたのことが嫌いじゃないですよ」 「ククッ、アレン、そこは好きですよって言わなきゃ」  アレンらしい口調に笑いがこみ上げた。頬が上がって流れた涙を、そっとアレンが自分の頭の毛で拭ってくれた。 「四つ脚は不便だ」  文句を忘れないのもアレンらしくてしばらく笑っていた。 「行こう――」  いつまでもここで泣いているわけにもいかない。どんな最期になるのか不安はあったけれど、アレンなら苦しませずに逝かせてくれるだろう。  無骨な洞窟に見える神殿は中に入ると美しい彫刻が施されていて、王宮に比べてもひけをとらなかった。キラキラと光るのは光苔の一種で火は灯されていないようだ。  いくつか部屋を抜けて、絵本にあった祭壇の間へ着いた。 「トラヴィスがここに来るのは?」 「潔斎が終わってからですからもう一刻もしないうちです」  祭壇の上の天井に彫刻されているのは狼族の始祖だろうか。 「なんだかここは、怖い……」  爽やかないい匂いがしているし暗いわけでもないのに、何故かゾクゾク寒気がした。 「これを飲んでください」  杯に半分ほど入った赤い飲み物を渡された。 「これは?」 「これであなたは生贄になれます。そこの祭壇に寝ている間に終わりますよ」 「……まるで祭壇というより寝台だね。気持ち良さそうだ」  真っ白の寝台に見える祭壇は、とても広くて俺がどれだけ寝相が悪くても大丈夫そうだ。できれば綺麗な生贄に見えるようにと寝台に座り、まるで血のような色の液体を飲んだ。半分ほど飲んだところで力が抜けて、寝台に倒れ込んでしまう。 「全部……のめな……」 「大丈夫です。効いていますよ。いい匂いがしています。私が番をもたないαだったら、きっと自制出来ないでしょう。あなたは、立派なトラヴィス様の……」  アレンの声が遠く霞んで聞こえなくなっていった。  ドクドクと身体中を巡る血の音が耳の奥から聞こえた。早鐘のように心臓が激しく打つ。これが止まる時、生贄としてトラヴィスの役に立てるのだ。  何故か身体が熱くなるばかりで、途切れそうにならない鼓動に戸惑っていた時だった。突然言いようのない不安感に襲われた。  酷く恐ろしい何かがやってくる。  嵐や雷の時に感じるそれをもっと顕著にしたようなそれが何なのかわからないけれど、段々と近づいてくるのがわかった。心臓がその恐怖にすくみ上がり、腹部が鈍痛を訴えた。それでも何故か心臓は止まる気配がない。 「アレン……」  失敗した――、生贄になれなかったのだ。  全部飲めなかったからだろうか。それともトラヴィスに相応しくないから神様が死ぬことを許してくれなかったのだろうか。神が認めた(成長が遅くなる)王の後継者に相応しくないから……。  扉が開いて見慣れた黒い毛皮の獣人が、四つ脚で入ってくるのを見て絶望した。 「シリン。何故、ここに? アレンの匂いがしている――。どうしてアレンの名を呼ぶ――?」  俺の側にきたトラヴィスは四つ脚ではなく立ち上がり眉間に皺を寄せた。  苛立つトラヴィスの声に失敗してしまった申し訳なさと、もう一度会えた喜びで涙が頬に流れていく。  「トラヴィスの生贄になりたかったのに死ねなかった――」  やっと息があがりはじめる。これから少しずつ弱っていくのだろうか。 「死ぬ――?」 「あ……息、できな……。死ぬところを……みせる……つもりはなか……」  息が苦しいせいか思考がまとまらなかった。このまま呼吸出来ずに、死んでいくのだろうか。それでも生贄になれるのだろうか。 「今日、いつもの薬は飲んだ?」 「飲んだ……。それで死ねなかった……?」 「そうか。この零れているのは強力な発情誘発剤だ。死ぬことはないよ。効いているようなのに、意識があるから驚いた。そういう効果になるんだね。なら、余計にシリンは辛いだろう? 私のαの気配に怯えている……」  トラヴィスが生贄の服をめくり、俺の小さな男の証しに触れた。 「や……」 「あの薬が効いていたのなら、ここはパンパンに張っているはずなんだ……」  ゆるく勃ち上がったそこは漏らしてしまったように濡れていた。恐怖や恐ろしさはあったけれど、漏らした自覚はない。  あの飲み物は、死ぬためのものじゃなかったのか。 「どうして……? アレンが嘘を……?」  生贄なんて本当は必要なかったのか。優しい言葉を掛けられたせいか、アレンに裏切られたような気がした。 「アレンが連れてきたのか。しかも生贄だなんて……。シリンを乗せて、匂いまでつけて――」 「ヒッ!」  トラヴィスの毛が逆立ち、怒りのために充満するαの威圧感で焼かれるようだ。 「ごめん、怖がらせたいわけじゃない。Ωを自覚してからのシリンはとてもいい匂いがして、気が狂いそうだった。これほど私を惹きつけながら、人族である君の精神は私を恐れるのだから、厄介だよ人族のΩというものは」   責めるような声音は普段の優しいトラヴィスが表にはあらわさない苛立ちそのもので、俺は困惑するしかなかった。 「怒ってる――?」 「私が……?」  寝台に横たわる俺を抱き上げて、トラヴィスはアレンが顔や頭を押しつけていた辺りを舐めた。 「あっ……!」 「アレンの匂いがついているから気にいらない」 「そうじゃなくて……。友達なのにトラヴィスを誘うようなことを言ったから……」  あれから、トラヴィスは一緒に眠ってくれなくなった。今も怒っているように感じるのは、そのせいだとしか思えない。 「嬉しかったよ。でももっとシリンが成熟するのを待つつもりだったから辛かったんだ。人族は、本能で狼族のαを恐れる。時に精神が崩壊してしまうほど……」  人族のΩが番う時に味わう恐怖は今の比ではないのだろう。カタカタと鳴る歯を知られたくなくて、口を手で覆った。 「好き、だ……。友達としてトラヴィスが他の人と番うのをみるくらいなら、生贄になってお前の役に立ちたかった」 「嬉しいが、好きになったのは私の方が先だよ。子供の時はフェロモンだって気付かないはずなのに、シリンはいい匂いがした。いつも私はシリンが欲しかった……」  そんな素振りを見せたこともないくせに、トラヴィスは勝手だ。  恨めしげに見上げると、トラヴィスの金と黒の瞳に上気して誘うような顔をした俺が映っていた。  今だって逃げだそうする身体を留めるためにシーツを掴んでいるほど怖いのに、身体の熱は留まることを知らなくて相反する状態が辛かった。 「身体が熱い――。どうすればいい?」  いつも優しく導いてくれるトラヴィスならきっと何とかしてくれるはずだと、抱きついて願った。 「もう発情は止まらない。シリン、私の番になってくれる?」 「トラヴィスと一緒にいられるなら、なんだっていい――」  一層強くなった自分の匂いと、今にも殺されてしまうような恐怖に目眩がする。  トラヴィスは俺を四つ這いにして背中を舐めた。 「――っ! あ、はっ!」  狼族の舌は滑らかだった。 「先に番ってしまったほうがいいんだそうだ。辛いかもしれないけど、私を信じて――」  番うためには発情したΩの項うなじをαの牙で噛まなければならない。 「嫌だ。怖いっ、トラヴィス! あ、ああっ! あ……」  恐怖から逃げようとする身体を押さえつけられ身動き出来なくなった項に、少しずつ食い込んでいく硬質な感覚。痛みは、噛まれている場所だけでなく、全身に及んだ。 「ぐぅ……っ!」  鈍器で頭を殴りつけられたような痛みと内臓をかき回されるような感覚に、全身から冷や汗が噴きだした。身体の火照りは一瞬で凍り付くような冷たさに変化した。流れる冷たい汗は、細胞の一つ一つが悲鳴を上げながら流す涙のようだった。  さらに恐慌に陥った俺は、腕を押さえているトラヴィスの手に噛みついた。牙はないが成人となる男の噛む力は弱くないはずだ。抑える力は容赦ないのに、それでもトラヴィスの尾っぽは俺の身体を優しく撫でていた。 「う……あ……」  トラヴィスの牙が抜けていく。  耐えられないと胃からせり上がった物が口から溢れ、涙で前が見えなくなった。 「シリン……。愛してる――。シリン、シリンっ」  枯れた声がトラヴィスのものだと気付いたのはしばらくたってから。ずっと呼んでいたのだろう――。口元は拭われ、吐いたものも何もなかった。祭壇のはずだった寝台の上でトラヴィスに抱きしめられていた。 「トラヴィス……?」  恐怖は既に去っていた。 「シリン、気付いたんだね。苦しくない?」 「俺、もうトラヴィスのものになったの?」  俺の髪を掻き上げトラヴィスが額に口付けた。 「シリン……。愛しい、私の番――。やっと言えた」  トラヴィスの右手の甲には俺が噛んだ痕が残っていた。それを寄せて顔を擦り付けた。 「ごめん、痛かった?」 「私がシリンの項に徴をつけたようにシリンも私に痕を残してくれたのなら、嬉しいよ」  傷を愛しげに見つめてトラヴィスは笑った。 「あの、あのさ……番ってことは、俺がトラヴィスの子供を産んでいいって事?」 「シリン以外の誰も私の子供の親にはなれないよ。だって、シリン以外いらないからね――」  身体の奥底に熾火のように静かに燃えていたものが身体を巡りはじめた。頬が火照り、さわさわと触れるトラヴィスの毛の触れているところ全てがくすぐったい。 「トラヴィス……」  心配してくれているトラヴィスにどう言えばいいのかわからなくて名前を呼んだ。 「シリン――、愛してる」  聡いトラヴィスは、俺の身体の異変に気付いている。そう思うと羞恥で顔を上げていられない。 「愛してる、トラヴィス」  つむじに口付けてからトラヴィスは俺を寝台に横たえた。  怖くないと言ったら嘘だ。これほど身体のつくりの違う俺達だから、きっと受け入れるのは大変だと思っていた。 そう、確かにそう思っていた。 「あっ、あ……ああ――!」  トラヴィスのモノを受け入れるためには、大きく脚を広げ、恥ずかしい体勢をとらなければいけなかった。トラヴィスの舌は、俺の身体のいたる部分の蕩かせ、もう何が何だかわからなくなった頃俺の中に挿ってきた。 「シリン、達ったの?」 「あ……うぅん」  身動いだ些細な動きにさえ、達ったばかりの身体は反応する。 「トラヴィ……。あ。あ、やだっ抜かないで……」 「シリン……?」 「気持ちいい――っ、もっと、もっとちょうだい?」 「シリン、嬉しいけど、飛んでる?」 「飛ぶってどうやって? 羽根が生えてる? だからこんなに気持ちがいいのかなぁ」  トラヴィスが、ウッと呻く声が聞こえた。 「気持ちいいの?」  訊ねる声が嬉しそうで、トラヴィスも気持ちがいいのかもしれない。 「うん……。もっと奥までちょうだい? あれ、トラヴィス息苦しいの? 何だか息が荒くなって……あ、ああっ!」  お腹の中にいるのがトラヴィスだなんて少し前まで想像もしてなかったのに、まるで生まれる前から決められていたことのように馴染んでいく。  トラヴィスの苦しげな顔、精悍でいいなぁと思って手を伸ばすと口付けをくれた。 「あ……、トラヴィスの舌、長い……」  この前、無理矢理キスしたときも息ができなくなったけれどあれは恐怖で喉が狭くなっていたのだろう。トラヴィスの舌は人族の舌よりも長くて絡めたまま奥まで入ってくる。苦しくて朦朧とするのに、怖いとは思わなかった。 「シリン、怖くないのに、舌が震えてるね」 「だって……気持ちい……」 「ここ、尖ってるよ」 「ふぁ……駄目。グルグルしてくる。胸ばっかり弄っちゃやだ……」  トラヴィスが触るとどこも気持ちよくて、身体が跳ねた。口付けのせいで閉じられない唇からは、飲み込めない唾液が混ざって身体を伝っていく。その感触すら震えるほど心地いい。 「トラヴィス……。苦しいっ、身体の中が爆発しそう――」 「何回でも達っていいよ。シリンは、前でも中でも達けるはずだ。ここ、擦って上げるから」  トラヴィスの指は毛が生えている以外は同じようなものなのに、触られるとそこが痺れるように感じた。 「あっ! だめっ、怖い」  あまりに強い快感は、未知の領域で怖かった。トラヴィスの手を握って止めようとしても、びくともしなくて、爪を立ててしまった。カサッとした感覚は、意識を失う前に引っ掻いたり噛んで出来た傷の跡だった。 「どうしたの?」  トラヴィスは傷ができても怒ったりしなかったのに、俺は自分勝手だと落ち込む。 「俺ばっかりトラヴィスにしてもらって……ごめん」  トラヴィスは顔に鼻先を擦り付けた。 「可愛いことばっかり言ってたら、どうなるか知らないぞ」 「え? あっ、なんで大きくなるの?」  ググッと容積を増やしたトラヴィスに文句を言わないと決めたはずなのに、責めるような目で見上げてしまった。いくらΩの身体がαを受け入れるのに最適だとしても限度がある。 「煽るからだよ、シリン。一緒に……」 「あっあっん……。そんな、激しいっ」  トラヴィスの筋肉質の胴を挟むと股関節がおかしなるんじゃないかと心配になった。でもΩの身体は本当に柔らかくて、自分で驚くほどだった。これほど使わない筋肉を使えば、筋肉痛でのたうち回る羽目になりそうだと不安になった。ゴツゴツと当たるトラヴィスの身体は筋肉の塊のようだ。俺の中身は大丈夫なんだろうかと心配になるほどの衝撃だった。 「あんぁ……あ、んっ! ああっ!」  こんな声しかでないのだからトラヴィスに伝わるはずもなく。 「やだ、奥っ、奥に――」 「沢山注いで上げるね」  違う――、当たるのが怖いんだ! という声は出なかった。  トラヴィスは溢れるほどの愛を俺に注いだ。  注がれる熱い飛沫に絶頂を極め堪らず意識を失った。 「何か挟まってる……」  そんな感覚に首を捻りながら目覚めた俺を抱きしめたまま、トラヴィスは穏やかに微笑んでいた。だから、たまたま抜き忘れたのだと思った俺にαの頂点に立つ男は言った。 「まだ終わってないよ。待ってたんだ」  待たなくていいですから! と言おうとした俺の唇をうっとりとトラヴィスが塞ぐ。トラヴィスは俺が想像していたよりも情熱的だった。無理だと首を振っても許されず、声にならない悲鳴は嬌声にしか聞こえないようだ。トラヴィスが落ち着くまで出来ることといえば気を失うように眠ることくらいだった。  ずっと続くのかと思うような甘い責め苦は、やがて収まりをみせた。発情期といえどもずっと盛っているわけではないようで、緩やかな情動の時や、饑餓きがのように全てを貪りつくしたいという欲望が顕著なときが交互にやってくる。ヤっている以外の時間はずっと寝ていたせいだろうか、三日というのは意外に早い。 「大人になる儀式、やってないんじゃ……?」  あと数時間で帰らなければいけないという時になって気付いてしまった。俺がここに来てから、したことといえば、交尾のみだ。 「ずっとヤってたじゃないか」 「まさか……」  大人の儀式とはそういうことなのだそうだ。だから、アレンが俺をここに連れてきたのだそうだ。 「王になるための儀式は?」 「ここに来るときに済ませた。とはいえ、今はもう私に刃向かうものはいなかったから……」  王に不服があるものは王となるものがこの神殿に入るまでに、それを阻止する。王となるものは相手をしなければいけない。 「逃げちゃ駄目って事?」 「そう四つ脚で戦うんだ。剣は駄目で勝ったものが王となる資格を得る」 「沢山で囲まれたら?」 「それはこちらも守るために護衛があちこちで目を光らせているよ。ただ、決闘は確実に一対一だ」 「でも生贄というか番候補を乗せているんでしょ?」 「正式な決闘なら番には手を出さないよ。番に手を出そうとしたら格段に戦闘能力が上がるから、そんな危険なことはしない」  ここに来た時点で王となるための儀式は終わっていたのだ。 「大人になるっていうことは、子供を作るってことなんだ。私は、シリンが壊れてしまうんじゃないかと心配だった。もっと時間をかけて寄り添いたいと思っていたから……、生贄はいらないと言ったんだ。それを心配するものや歯がゆく思う者もいただろうね。それを危惧してアレンか、父上が一芝居打ったんだろう」  トラヴィスを心配してというのなら、もう怒る気はなかった。 「生贄は、嘘じゃないの?」 「昔はね、王となるものに、沢山の番候補が捧げられたんだ。それを生贄と言ったんだ」 「番候補……。トラヴィスにも沢山いたって聞いた……」  もう穏やかになっている性衝動のお陰で寄り添っていても刺激しないようだ。俺はトラヴィスに抱かれるのも好きだけど、尻尾を抱きしめてとりとめない話をしているほうが好きみたいだ。 「やきもち、焼いてくれたの?」  訊ねるトラヴィスの耳がピクピク動いている。とても嬉しそうだ。尾っぽも俺が抱きついているのに揺れている。 「……そうだよ」 「すねた顔も可愛い」  チュッと俺の唇に鼻をあてて唇の上の部分を上げると甘噛みされた。 「んぅ……もう」 「シリンに出会って番だと決めたから皆嫁いでいったはずだ」  そういえばそう言っていた。 「アレンの妹は人族のΩだって言ってたのに……」 「私はシリンが人族のΩだったから好きになったわけじゃない。もしβの男だったとしても番にした。でもそうしたらシリンは大変だっただろうね」  勉強したからその大変さは想像できた。  多分、死ぬ――。  発情中のトラヴィスを思い出して汗が出た。 「とりあえず帰ったら、アレンは転がす」  甘い雰囲気だったのに突然トラヴィスは宣言した。 「え、でも、トラヴィスのために嘘をついたんでしょう?」 「嘘をついたことは許すがシリンに匂いをつけたことは許せない」  ゾワァと鳥肌が立った。人族の呪いはもうないはずなのに震えがはしった。 「だって、乗らないとここには来られ……」 「シリンはαの執着を知らなさすぎる。許せることと許せないことがあるとしたら、何が理由でも絶対に許せないことだ」  王者の風格でありながら言ってることは子供のようだ。  アレンには色々言いたいことはあるけれど、それでも血を流しながらこの山を登って連れてきてくれたことには感謝している。  何とかならないかとあまり優秀でない脳みそをフル回転で動かした。 「トラヴィス、俺は争い事はあまり……。アレンもトラヴィスのことを思ってやったんだし。そうだ、俺がトラヴィスのお願い事をきくから今回だけ許せないかな……?」  あまりアレンを庇うのもあらぬ想像をさせそうだと心配しながら提案してみた。  尾っぽがいつもと違う振りをしている。上下運動だ。 「わかった――。どんな願い事でもいいんだね?」  駄目な気がした――。  トラヴィスの瞳の奥が情欲に濡れているときと同じ煌めきを映している。  逃げた方がいいんじゃないの? と声がした。これは俺の理性だろう。 「いいよ――。トラヴィスの好きにしていい……」  結局俺はトラヴィスが好きで、この場所が心地いいんだ。命を失うと思っていた生贄より酷いことはないだろうとフカフカしているトラヴィスの胸にもたれかかった。  首筋の痛みはもうない。Ωは発情中にすごい回復力を発揮するらしい。傷はうっすらと見えるかどうか。けれどトラヴィスは丹念に舐める。大事な番の証しなのだそうだ。  帰りはトラヴィスの背に乗って山を下った。一気に駆け下りても息を切らしていないトラヴィスは、やはり普通の狼族ではないのだろう。  王となったトラヴィスは『聖王陛下』と呼ばれた。その隣へ並ぶと、満足げな笑みを浮かべ手を差し伸べてくれた。大きな手だ。俺の番はやはり格好いい。  大人の儀式の服に身を包んだ俺を皆は祝福してくれた。  きっと反対されると思っていたと、アレンにだけ告げた。 「王の匂いを纏うあなたに、誰が反対するんですか」  呆れたようなアレンの声が、たった三日しか経っていないのに懐かしかった。 「聖王陛下の番、シリン様に祝福を――」  アレンの言葉で皆が俺に拝礼するのを不思議な気持ちで見つめた。 「ありがとう」  トラヴィスが手を握ってくれれば、怖いものなどなかった。  その日はまだ冬の最中だというのに、山々の木々がピンク色の花を咲かせた。その花は『優美な番』という花言葉があるためか、王の番を神が祝福しているという噂が広まった。  王として長い時をトラヴィスは生きた。その傍らには、人族である王の番が常に寄り添っていたという。                     〈Fin〉
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