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1
エッセリーグ国には、獣人と呼ばれる者と人族と呼ばれる者達が住んでいた。その頂点に立つのは、狼族のαだった。
獣人には、第一の性として男と女があり、成長期に現れる第二の性がα、β、Ωだ。αは、リーダーとして群れをひきいるための特性がある。優れた頭脳、大きな身体、そして覇気と呼ばれる気配。
トラヴィスは、バルコニーから眼下を眺め、眉を顰めた。身体はまだ子供といってもいいほどだが、纏う覇気は大人をも凌駕していた。
彼はエッセリーグ国の王の跡継ぎだった。
「あれは何だ?」
「王子殿下――。あれは人族の子供です。狼族の子供は、好きな相手に匂いをつけたがる習性があるのはご存じのはず。可愛いものです」
「身体の強さが違うんだ。あんな接し方をしていたら怪我をするぞ!」
トラヴィスに付き添っていた狼族の男は、孤児達を保護し育てている職員達を怒鳴りつけた。
「アレン様、あれは遊びです。虐めているわけでは……」
「人族の脆弱さをお前達は軽くみすぎている! 何のためにお前達に勉強をさせ、支援していると思っている!」
アレンの怒号に職員達の耳は伏せられ、尻尾が落ちた。
いつも寛容な男なだけにその怒り様は、意外であり恐ろしくもあった。
「アレン、行ってくる――」
「トラヴィス様! あなたが出て行っては……」
「駄目だ――、許せない」
金と黒の瞳が職員達を一瞥した。トラヴィスは決して怒りをぶちまけたわけではない。だが、彼の支配者たる覇気に、職員達は膝をついた。ガタガタと震えが止まらなくなった職員達を気にもせずトラヴィスは建物の二階にあるバルコニーから飛び降りた。
「……やっと見つかったんですね」
アレンの問いはトラヴィスの耳には届かなかった。
既にトラヴィスは、人族の少年に迫っていたからだ。
「お前なんか毛皮もないくせに!」
「よわっちー」
「うるさい! 噛みつくしか脳がないくせに!」
次々とぶつかってくる獣人の子供を相手に俺は小さな手を突きだした。
同じ十歳くらいと言っても獣人と人族では成長度合いが違った。三人目が身体を擦り付けてきたときに転んでしまって、あっという間にもみくちゃにされた。
強引に鼻面を押しつけたり身体を擦り付けてくる彼等に出来ることと言えば小さな拳を効いていないと知りながら、叩きつけるくらいだった。
狼の獣人である彼等と人族の俺では、元々持っている力に差がありすぎた。
口から白い歯が見えて身体が竦み上がる。
彼等は、興奮するとすぐに俺の身体に噛みついてくるのだ。大人達は甘噛みだからといって取り合ってくれない。
「やめろ――!」
子供時分は四つ脚で獣の形でいることの多い彼等に、人の形しかとれない俺は簡単に押さえつけれてしまう。
「お前はよわっちいんだ、おれたちの言うこと聞いてたらいいんだよ!」
「誰がお前らなんか!」
「お前がそんな形なのが悪いんだ」
「弱いんだから悪いんだよ」
「やめっ! 痛い痛い! 硬い毛のくせに擦り付けるな!」
わめいても逆らっても獣形のまま身体を擦り付けられ、顔をベロベロと舐められてしまう。その後でくる痛みを想像して、身体を硬直させた。
「汚い! や、め……」
「ギャンッ!」
目を瞑っていた俺は、叫び声に驚いた。
顔を舐めていたやつが蹴られて宙を舞った。身体を押しつけてきていた一人は、掴まれて放りなげられ転がされた。最後の一人は、突然の闖入者に前脚で押さえつけられて呻いた。
「だ、れ……?」
「大丈夫?」
彼も同じ狼獣人だった。黒い毛皮に陽光があたって、まるで模様が浮かんでいるようだ。彼だったら、身体を擦り付けられても汚れたりしないだろう。
「ウウゥゥゥ……!」
最初に飛ばされた一人が、立ちあがって威嚇するように唸る。彼は踏みつけた奴を抑え、金に黒という珍しい瞳で視線を送っただけのように見えた。
一瞬で三匹の戦意が消失し尾っぽは隠されるように股の間に挟み込まれた。
「行け――」
低い声は明らかに格の違いを見せつけた。
ゾクッと震えが走った。
狼族が支配する獣人の国で生まれたとはいえ、俺には声や匂いで強いものを識別出来る能力はないはずなのに。それなのに彼が他の狼族と違うことはわかった。
三人は、何度も俺を振り返りながら逃げていった。
彼の耳がピクピクと動いて、本当にその場から立ち去ったのか確認している。
「大丈夫?」
「あいつら……絶対に許さない……」
昨日配給してもらったばかりの服なのに、もうボロとかわらなくなってしまった。新しく服や靴が配られる度に、こんな目に遭わされ、いくら訴えても大人達は笑うだけなのだ。
毛皮をもつ彼等は服などなくてもいいのだろう。けれど俺は人型にしかなれないのだから、これは酷い嫌がらせだ。
「大丈夫」
虚勢と知られても良かった。パンパンと服から砂を落としながら立ちあがって助けてくれた彼をみると、思っていたよりも大きくはない。大人のように感じたのは威圧感が凄かったせいだと気付いた。
「うそ、顔も泥だらけだよ」
「どうせ、毛も生えてない顔だ。どんなのでもお前達には変わらないだろ」
この国は、狼族の獣人の支配する国なのだ。色んな種族の獣人がいるのに、俺のような人族は少ない。俺はこの施設しか知らないから他に自分と同じ形をみたことがなかった。
少年は少し困ったように目をそらした。あちこちに穴が開いていて、みっともないからだろう。
「これ羽織って――」
自分の着ている極上の上着を惜しげもなく差し出してくる。この獣人の国で服は階級の象徴といってもよかった。貧乏なほど服にお金を掛けることが出来ないから。少年が身につけているものはどれも見たことがないほど美しかった。
「汚れるから……いい、です」
視線を上げて、今更ながら言葉を改めた。
彼は四つ脚で戦った時も服を乱したりしなかった。施設にいる子供達は四つ脚で戦うとなるとすぐに服を脱ぐが、それはお行儀が良くないと大人達が言っていた。躾の行き届いている獣人は総じて名家の出だとも言っていた。
今日、国から視察の偉い人が来るはずだ。その誰かが連れてきた子供なのだろう。この施設は親がいない子供達を育てる国の機関だから、時折偉い人が視察にくる。それに合わせて服などが配給されるから俺にとってはありがたかった。
「傷はないようだけど」
「えっ……」
血を確かめるためにか鼻を突き出して匂われると、汚れている自分が恥ずかしかった。
「傷はないから、離れてください」
「どうして?」
「だって、俺、汚い……」
髪の毛には土がついているし服は破れている。ゴロゴロと身体を擦り付け興奮して出た爪が引っかかったらしく破れている。縫わなければいけないのかと少し憂鬱になる。
「ごめんね」
彼は何故か謝った。
何が? と不思議に思って首を傾げるとの同時に、破れてはいるけれどまだ着られる服を爪の先で引っ掻かれた。
「なっ! 何するんだ――」
改めたはずの殊勝な態度はどこへやら、我を忘れて怒鳴りつけてしまった。彼にとってはボロに見えたかもしれないが、俺にとっては大事でしばらく着なければいけないものだというのに。細かくリボンのようになったそれが地面に落ちて、本当のゴミに見えた。
「そんな服、着なくていいよ」
笑っているのに反射的に怯えが走った。
星のない夜よりも真っ黒で優雅な獣は、理知的な姿に反してとても恐ろしく思えた。初めて自分に毛皮がないことを心細くなった。身を護るものがないという不安で涙がこみ上げた。
「これを着て――」
宥めるように涙を舐められても、震えが止まらなかった。
彼は、そっと服を掛けてくれた。少し大きかったけれど肌に気持ちよくて、少しだけ気持ちが紛れたような気がした。
「似合ってる」
何故だろう。狼族の中で育ってきてこれほど怖い人を初めてみたというのに、彼が微笑むと嬉しくなるのは。
もう彼から恐ろしい気配はなくなっていた。
「ありがとう……ございま、す」
文句を言ってもいいはずなのに嬉しくてお礼を言っていた。花とも果実とも違うけれど、とてもいい匂いがした。お金持ちの子息はこんな服を着ているのかと思うとうらやましかった。安心を匂いにしたら、こういう匂いのような気がした。
「無理に敬語使わなくていいのに」
穏やかに笑う彼は今まで会ったどの狼族より美しくて、華をもっていた。大きな黒い尾っぽが楽しげに揺れている。
「でも、怒られるから……」
「私のことはトラヴィスと呼んで。君の名前は……?」
「俺、シリンです。トラヴィス様」
「トラヴィスだけでいいよ」
「呼び捨てにしたら俺が怒られる」
「……仕方ない。いつか呼んでもらうよ。楽しみにしてる。私には友達がいないんだ。シリン、友達になってくれないか?」
握られた手を引かれる。やんごとないところの令息だろう彼は、俺と友達になりたいと言った。
施設育ちで狼族の群れにも入れない人族の自分を――?
友達だとか言ってもきっと今だけの話だろう。
獣人は、人族よりも成長が早く、少年だって今は十歳のシリンと同じくらいの大きさだけど三年もすれば、大人になる。
いや、大人達が見ればきっとすぐに引き離される。
けれど、今だけ。友達がいないという彼が飽きるまで……、彼と友達になりたい。
結局どうしていいかわからないまま、彼の素性を知ることとなる。
獣人の国、エッセリーグ国の王子トラヴィス殿下。
俺は生まれて初めて目を回して、トラヴィスを驚かせた。
それが俺とトラヴィスの出会いだった。
『私には友達がいないんだ。シリン、友達になってくれないか?』
トラヴィスは俺の手をとってそう言った。真面目に頷いた俺は何も知らない本当の子供だった。
そりゃあそうだと、昔を思い出して笑った。
獣人達の王国エッセリーグ国の王子であるトラヴィスは、統率者としての資質を幼い頃から顕現させていた。立っているだけで周りがひれ伏すというのは誇張ではない。彼の兄弟は普通の狼の獣人なのでトラヴィスがやはり特別なのだろう。彼を友達と呼べるほど厚顔なものがいない、もしくは崇拝してしまってそれどころじゃないというのが本当のところだ。
「シリン、このプランターはここでいいのか?」
「うん。ついでに下にあるプランターは、その上にお願い」
土が沢山入ったプランターを動かすのはいつもトラヴィスの役目だ。自分でやって腰を痛めてから、トラヴィスはうるさくなった。時間があるときにこの温室に寄って手伝ってくれる。
お供は付けず一人で。大事な跡継ぎであるトラヴィスに荷物を運ばせているなんてことを知られたら、きっと俺は殺された方がマシだという目に遭うだろう。
「こんなに少しの水で大丈夫なのか?」
「大丈夫かどうかを今確かめてるんだよ」
俺はこの温室でイチゴを育てていた。実がつき始めてから水を減らしたもの、赤くなりはじめてから減らしたもの、減らさなかったもの。それらを比べないと違いなんてわからない。
「ご褒美だよ」
熟している実を一つとってトラヴィスの口元に運ぶと、器用に歯で挟みヘタだけ残して食べた。
「やっぱりシリンのイチゴは美味しい」
「へへっ、そうだろ」
獣人の食事は果物だ。種族によって好みの果実は違うが、トラヴィス達狼族は赤いものを好む傾向にある。
狼に限らないことだが、神の意志によって四つ脚から二本脚に変化したとき、彼等の身体は変わったのだという。
「こんな甘いイチゴは、知らない……」
褒められると嬉しくなって、ついついもう一つどうぞと実を摘まんでしまう。
「ほら」
「いいのか」
今度は、ヘタまで口に入れたトラヴィスは、俺の指先にもペロリと舌を這わせた。
「あ、ちょっ……」
「果汁がついたから」
「舐めなくていいのに……」
トラヴィスに触れただけで背中がゾクリとすることがある。 昔から時折感じていた違和感が最近になって頻繁になり、病気かと心配になってトラヴィスに相談した。彼の主治医が診てくれて『若い子にはよくあることです』と苦い薬を渡された。毎日飲んでいるのに治らなくて効いていないんじゃないかと思うけれど、とりあえず重篤な病気じゃないというので安心した。トラヴィスが毎日朝ご飯の時に用意してくれるので、仕方なく飲んでいる。
「父上がシリンにイチゴを用意してくれないかって」
「王様が――?」
「シリンにも会いたいって」
「うん。いつもお世話になってるしお礼を言いたい」
「別にそんなの言わなくていいよ」
俺が王宮に来て六年近くたった。友達が欲しいと言ったトラヴィスは施設から俺を連れ出し、父であるエッセリーグ国王のもとに連れて行った。
「父上、私の友達です」
周りの者達は皆、俺を見下しているのを隠さなかった。トラヴィスの願いにどよめき、声高に反対するものもいた。人族など側に置く価値もない。王の子の友達としてふさわしくないと言った。繋いだトラヴィスの手がなければ、狼族の獣人が威圧しているという状況に恐れおののいただろう。
トラヴィスが握る手はとても温かくて大人の威嚇音にも耐えられた。
「友達、か」
「今は……」
大人達はその声を聞いた瞬間に黙り込んだ。シンっと静まりかえる中、王様の声だけが響いた。
「人ならば、お前とずっと一緒にいられるだろう……。名は何という?」
王様は椅子から立ちあがり俺の前にやってきた。見上げるほどの巨躯でありながら、人好きのする顔で笑い、大きな身体を屈めて視線を合わせて訊ねた。
「シリン」
「そうか、シリンか。トラヴィスをよろしく頼む」
軽く頭を撫でられて驚いた。こんな偉い人がなんて気さくで優しいんだろうと感動していると、トラヴィスが抱きついてきて、周りが見えなくなった。
「トラヴィス様!」
「嬉しい」
トラヴィスは、俺をフワフワの毛に埋もれるくらい抱きしめた。余程友達が欲しかったんだなと同じように抱きしめた。
家族のいない俺にはこんな風に抱きつける相手などいなかったから、涙が出そうになった。顔をトラヴィスに押しつけるとお日様の匂いがした。
温かなトラヴィスの毛は俺のお気に入りになった。
トラヴィスが同い年ではなく、十二も上であることを知ったのは王宮に慣れた頃だった。
トラヴィスのように優秀な個体は普通の狼の獣人よりも成長が遅く、寿命も長いのだという。だから王様は俺を友達として認めてくれたのだろう。
長命であるが故に、孤独となる王は多いのだそうだ。元々人族の寿命は長い。狼族の獣人の寿命は、五十年くらいだ。
トラヴィスの兄弟は、もうすでに大人の儀式をすませ、子供もいる。見た目で言えば兄弟には見えないだろう。
新年に大人の儀式を迎えるトラヴィスだが、見た目は俺と同じくらいにしか見えない。その成長の遅さは狼族の中でも異様なのだろう。それだけ優秀という証しで、誰も彼も彼に心酔している。
トラヴィスは大人の儀式を済ませると父親の跡を継ぎ、王となることが定められている。
俺といえば、同じく大人の儀式を迎えるけれど、特筆することなど何もなかった。大人の儀式は狼族としての大人であって、人族にはあまり関係がないのだ。子供時代のように四つ脚で過ごし、相手がいる者は番を申し込むとかそんなことらしい。関係がないからといって教えてもらえないのは少し寂しいけれど、トラヴィスが新しい服を用意してくれているのが楽しみだった。
俺はトラヴィスが少しでも元気でいられるようにと、彼の好きなイチゴを栽培している。それくらいしかしてやれることはないというのが一番の悩みだった。
年始に行われる儀式の準備が忙しいからか、トラヴィスが部屋に戻ってくるのは日を跨ぐことが多くなった。俺は日中は果物の栽培をしたり出来た果実でお菓子などを作っているので、あまり遅くまで起きていることが出来ない。
俺の部屋はトラヴィスに与えられた居住区の中にある。居間を抜けないと、外から帰ってきても部屋には入れないから、自然と顔を合わせていたのに今は一人でいることが多い。
寂しいと思うけれど慣れなければいけない。大人になれば人族である俺はともかく、獣人達の王となるトラヴィスは番を定め家庭をもたなければいけないのだ。
いつもなら食事を終えた後はトラヴィスとゲームをしたり、本を読む彼の尾っぽを抱きながらうたた寝しているというのに、最近は勉強をしなければいけなくなってしまった。教えてくれるトラヴィスの補佐官であるアレンも忙しいから、夜の食事の後になってしまい眠気と戦うはめになった。残念ながら敗色は濃かった。
「聞いてますか?」
「聞いてる……」
ウトウトとしてしまった自分のせいだがトラヴィスの補佐官であるアレンの声は苛立ち紛れで居心地が悪かった。
彼は非情に優秀だというが滲み出る圧は三人分くらいあって、広い部屋なのに息苦しい。洗練された立ち居振る舞いから生まれの良さが見て取れるし、モテているんだろうなと思うタイミングで微笑むこともある。が、勉強に集中出来ない時は凍えそうな冷気が流れてきて寒い。
「儀式の前でトラヴィス様は忙しいんですから。ほら、いじけてないで」
「いじけてない……。どうしてこんな勉強をしないといけないの?」
昨日から始まったエッセリーグ国王の歴代の王様の話が、実に眠気を誘うのだ。英雄な王様、勤勉な王様、好色な王様、戦い好きな王様、王様も色々いるんだなと思ったけれど名前まで覚えろというのだから無理がある。
「あなたも幼そうな顔ですが、大人になるんでしょう。ちゃんと勉強してないとトラヴィス様が恥をかくんですよ」
「トラヴィスが……。でも大人になったらここを出ないといけないんだろうし、トラヴィス……様の迷惑にはならないよ」
トラヴィスは優しいから、王宮の端っこにでも部屋をくれるといいなと呟いた俺にアレンは凍えるような視線を寄越し、小さな声でボソボソと何かを言っている。雰囲気的に嫌味のようだ。
「……全く。トラヴィス様が友達友達だと言うから全然自覚していない……」
「何? 俺、狼族じゃないから耳そんなによくないんだけど」
「いいえ独り言です。あなただっていきなり寝台に組み敷かれて妊娠しましたじゃ困るでしょう? 王様の名前を覚えるだけじゃなくて性の知識も覚えるんですよ」
「……馬鹿だなぁ。アレン、知らないの? 俺、男だから」
「馬鹿はあなたでしょう。ていうか、まさかαとかΩを知らないわけじゃ……」
耳がピクピクと動いていてアレンが動揺している。
それくらいは俺だって。
「知ってるよ。俺がαのわけがないしΩだって希少種だよ。それに俺には発情とかきてないしβだよ。βの男は妊娠出来ないって聞いたよ」
何故かアレンの耳が逆立ち尻尾が落ちる。とてもショックなことがあった時の狼族の仕草に、俺は首を傾げた。
「まさかそこから……」
唸った声は俺には聞き取れない声だった。
「エッセリーグ国は狼族の獣人が作った国です。ですが狼族以外の獣人のほうが多いのは、ご存じの通りです。狼族だからといってαだけではなく半分以上がβであることもわかっていますか?」
「う、うん」
「うんじゃなくて、はいです」
アレンのことをそれほど知っているわけではないけれど言葉遣いには気をつけないといけないようだ。紛れもなく、彼は狼族のαだ。
「はい」
「よろしい。で、αとβの違いはわかりますか?」
「αは偉そうで、βの男は妊娠しない」
「わかりました。あなたはあまり頭が良くないのか、あまり他人が興味がないか」
「……」
馬鹿にされていることだけはわかったと無言で訴えたが、無視された。
「αは一般的に優れた知能、並外れた身体能力があるとされているので、あなたが自分をαでないと思ったのは正しいでしょう」
アレンが俺のことをよく思っていないのが言葉の端から伝わってきた。
「α同士やβ同士の結婚が多いのは、お互いに負担が少ないからです」
「そうなの?」
「αはいわゆる絶倫……ゴホッ。時間が長いんです。だから、どうしてもβが相手だと制御しないと相手が身体を壊すことになったりするのです。αは男も女も丈夫なので、気にしませんが。特に狼族は唯一決めた番のみを愛する性質があるので伴侶は慎重に決めます。愛する相手を傷つけたくないので諦めることもあります」
「そうなんだ。トラヴィスは狼族のαの女性と結婚するんだね……」
「ところがΩというのは、男でも女でも子を産むことができるし、身体が柔軟で見た目は華奢なものが多いわりにしなやかで、発情期であればそれほど頑健でもなくてもαと番えます」
「へぇ、でも少ないって聞いたよ」
「そうですね。私もあまり沢山知りません。私の妹もΩですが。トラヴィス様の婚約者候補でもありましたね」
アレンの言葉に、胸の辺りがチクンと痛んだ。
「トラヴィスに……」
「ええ。あなたが来る前までは、婚約者候補は沢山いましたよ。殿下は乗り気でなかったですけど」
「そうなんだ……」
沢山いた候補の人達は、どこに行ったのだろうと訊ねると、皆結婚してしまったという。なるほど、成長が遅いとそういうことがあるのかと納得した。
「Ωは、発情期にαの正気を失わせるので、隠されて育てられることが多いんです」
「正気を失わせるの?」
「ええ、今は薬で抑えることができますが、昔は本能を呼び起こさせてしまい、狂ったように相手を求めてしまったと言います。そのお陰で人族は滅んだくらいですから……」
滅んだ……? なら俺はなんなのだろう。
「俺、人族だよ」
「あなたは、純血ではありません。あの施設にいたということは両親は狼族のはずです。獣人の特徴をもたないで生まれてきた者は人族と呼ばれますが、実際は昔に人族の血が入っただけ。人族は……」
自分の両親については何も知らなかった俺はアレンの言葉に驚いた。
「人族は?」
「全てΩなんですよ」
まさかと、自分の頬を触ってみる。
「あなたはΩですよ」
知らなかった自分の性を突きつけられて、驚くよりも笑いそうになった。
「アレンは冗談がうまいな。本当のことかと思った――」
アレンの目は笑っていなかった。ただ静かに俺を見つめていた。
「本当の人族は初めて獣人である狼族と出会った時、妊婦、子供と老人を除いて全てが発情しました。人族は全てがΩであり、第一の性である男と女が番って子をなしていたのです。自分達に第二の性があることも知らなかった。出会った狼族は、全てαだった。酷い有様だったようです。とくに人族は、獣人を知らなかった。獣に襲われ孕まされたと思った人族、特に男は正気を失ったそうです。沢山死んでしまった」
想像するだけで地獄絵図のような有様だ。
「人族は……」
「純粋な人族はもういません。大昔のことです」
想像だけで身体が震えた。指先が冷たくなって、側にあったトラヴィスのブランケットを引き寄せた。
「その記憶が遺伝子に残っているのか人族で生まれてきたものは、狼族のαを無意識に怖がるんです。特に、成長してきて発情期が近くなれば」
トラヴィスに触れたときに感じる違和感を思い出した。
「俺は発情期が近いのか……」
今までβだと思って生きてきた俺には発情期なんてものは他人事でしかなかった。根底から覆された事実に困惑しながら、耳から耳へ授業内容は抜けていく。アレンが呆れて帰ってしまっても、中々動くことができなかった。
眠ろうと目を閉じても無駄だった。
何度目かの寝返りを打っていると、寝室の扉が開いた。
「トラヴィス……」
どんな顔をすればいいのか迷った。会えて嬉しいのに気恥ずかしいような。
「シリン、まだ起きていたのか」
「遅かったね。一緒に寝る?」
曖昧に笑うトラヴィスに、シーツを少し開けて促した。
時折、トラヴィスは寝台に忍び込んでくる。俺にはわからないけれど、将来の君主として大変なのだろう。そういう時は、俺は友達として慰めになればと寄り添って眠っていた。ここに来るまで知らなかったけれど自分以外の温もりというのは、疲れた心を癒やしてくれる。
「ああ、最近忙しくて一緒にいられないから……」
俺が仕事を始めるまではよく夜を通してお喋りをしたものだった。
「あったかい」
冬は特にトラヴィスが一緒に寝ると暖かくて嬉しかった。
アレンに教わったことを考えていると心細くなって、トラヴィスの尻尾を無意識に弄っていた。
「シリンは、尻尾が好きだよね」
「うん。フワフワでサラサラで気持ちいいし、暖かい」
「そっか」
トラヴィスは大きな尻尾でコチョコチョと俺の頬を撫でた。
うっとりと尻尾を抱きしめていると、囁く声が聞こえたような気がした。
『トラヴィスと番になれば、この大好きな尻尾が手に入る』
誰よりも大事な友達であるトラヴィスに、そんな欲深い気持ちを持つことはいけないことだ。絶対に駄目だと思うのにあらがえない誘惑が、ジワリと身体をむしばんでいく。
「どうしたの?」
ギュウと無意識に尻尾を掴んでいた。
「……俺、Ωなんだって……」
俺には精一杯の告白だった。
トラヴィスの唯一になれるなんて思っていなかったけれど、想像してみれば、それはとても甘美な蜜のようだった。
だからトラヴィスが身体を硬直させ背を向けた時、砕けてしまったのは恋心というよりは俺という存在自体に思えた。
「人族なんだからΩに決まっているだろう」
硬い声はトラヴィスの拒否にしか思えなかった。
頭のいいトラヴィスが知らないわけがなかったのだと気付いた。
友達だと言っているのにそれ以上を欲しいと願った俺を軽蔑してしまったのだろうか。
狼族は仲間をとても大切にする。半端な自分をこれだけ大事にしてくれたのに恩を仇で返してしまったのだと思うと、その夜は眠れないまま過ぎていった。
「なんて顔をしているんです」
「ちょっと考え事していて眠れなかっただけ」
隈の出来た顔を見て、アレンはため息を吐いた。
「俺、トラヴィス様が王様になったら王宮を出たほうがいいよね。外に知り合いがいないから、仕事先紹介してくれないかな?」
イチゴの手入れをしながら考えていたことを口に出すと、少しだけすっきりした。
「何を言ってるんですか?」
「できればイチゴの栽培を続けたいけど……」
初恋は温める間もなく一瞬で終わってしまった。
トラヴィスが番と一緒になれば、友達としてずっとそれを見ていなければいけないと気付いた時の衝撃は、昼ご飯を食べ忘れるほどだった。
気付かなければ良かったのにと思っても、俺はもう自分の気持ちを知ってしまった。
「あなたはΩだと言ったでしょう?」
「うん……じゃなくて、はい。俺が薬を飲み忘れて発情してしまったら大変じゃないか。だからお願い」
これは脅迫だ。大切な次期王様を守りたいなら、願いを聞いて欲しいと狼族のαであるアレンを脅しているのだ。
「あなたがいなくなれば、トラヴィス様は悲しみます。ただでさえ生け贄の儀式もしないというから、不安をもつものがいるというのに――」
アレンはいつもの嫌みぽい目でなく、哀れむように俺を見つめていた。
「だからって、俺は……。トラヴィスに不安? 生贄?」
敬称を忘れるくらいに、言葉のもつ不穏な空気に驚いた。
アレンの言葉は理解出来なかった。ただ、トラヴィスが大事な儀式をしないせいで何か問題があるということだけがわかった。
「王の大人の儀式に必要な生贄をトラヴィス様は、『必要ない』とおっしゃって、皆困っているんですよ」
「生贄って昔話にあるような……?」
「そうです。神に捧げるんですよ」
「イチゴじゃ駄目なの?」
「最悪イチゴ……希代の王の誕生にイチゴ……。それでは、誰も納得しないでしょう。リーダーとしての資質をとわれることになりかねません」
アレンが机に置いたのは、『儀式について』という絵本だった。
パラパラとめくって後悔した。また今夜も眠れないような気がした。
狼族の女性が神への祭壇に捧げられていた。
「何故あなたがここに迎えられたと思いますか?」
アレンは意味深に笑い、部屋を出て行った。『そんな顔色では、勉強は無理でしょう』と言葉を添えて。
トラヴィスが友達だと王様に紹介してくれたとき『友達か』と聞かれた。
トラヴィスは『今は……』と返した。
俺は生贄だったのだろうか。
ではどうして今、儀式をしないと言っているのか。
本を遠ざけ、机に突っ伏して目を瞑るとトラヴィスの困ったような顔が浮かんだ。
「友達だと思っていてくれているから……?」
トラヴィスは友達である俺を失うことを恐れているのかもしれない。そんな自分が、昨日トラヴィスに願ったことは、酷い裏切りではなかったかと自問する。
向けられた背中を思い出すととてつもなく心細くなる。
トラヴィスがくれた優しい時間と想いを返すにはこれしかないのだと、本を握りしめた。
朝、トラヴィスは普通だった。一緒にご飯を食べて、プランターの移動を手伝ってくれる。
けれど、あの日からどんなに寒くても俺の寝室を訪れることはなくなった。
「もうすぐ新年です。よく頑張りましたね」
二週間の勉強が終わりアレンは珍しく褒めてくれた。新年とともに儀式はおこなわれ、俺は生贄となる。
「生贄になるなら、勉強なんてしても意味がないのに……」
生贄として、トラヴィスの役に立ちたいと言った俺にアレンは驚かなかった。もう勉強をする必要がないんじゃないかと提案してみたが、トラヴィスに気付かれないようにするには必要だと言われた。
イチゴの栽培はアレンに紹介してもらった獣人に手伝ってもらうことにした。
俺が死んでしまってもトラヴィスに美味しいイチゴを食べて欲しい。特別甘いイチゴを食べている間だけでもトラヴィスの意識の片隅に俺が残っているといい。そんなことを思った。
「当日はしっかり禊ぎをしてください。前日からトラヴィス様は潔斎に入られますから」
「お風呂に入ればいいんだよね?」
『儀式について』にも、そう書いていた。
「そうです」
「あの儀式についてって本、途中から破れてたんだけど」
「ああ、生贄として捧げられた後のことをしらなくていいから必要ないでしょう」
それはそうかもしれないが、本を読むのが好きな俺としては続きが気になった。
「トラヴィス様は潔斎の後三日間、儀式の間に留まられます。その後身繕いをして王としてお披露目されます」
「三日も……。それなのにすぐにお披露目って忙しいね」
「まぁαですからそれくらいは問題ありません」
同じαのアレンがいうのだから、心配はないのだろう。
「トラヴィス様にバレていないのですか?」
「うん、じゃなくて……はい。トラヴィスは大人になるからかな。友達はもう必要ないみたいだ」
トラヴィスは、必要以上に俺に近づかないようにしているようだった。いつも触れていた大きな尻尾は遠く、耳は忙しなく動いていて時折苛立つように音を立てて俺を驚かせたりはするものの、嫌っている素振りは見せない。
気を遣ってくれているからこそ時折意識しないまま漏れるため息は辛かった。友達の枠から外れようとしたことが気にいらなかったのだろう。
言われても困るとわかっている愚痴が口をついてしまうほど、俺は落ち込んでいた。
「そんなわけが……」
生贄になると告げてからアレンの態度が少しだけ軟化した。それでも高い位置から見下ろされる気配は恐ろしいくらい居丈高だが、これはアレンが元からもつものなのだろう。
アレンは鼻で笑って杞憂だと言った。実際に俺と一緒にいるトラヴィスを見ていないからだが、見れば憐れだなとでも慰めてくれるかもしれない。それくらい仲良くなった獣人は珍しいから気が緩んでいた。
「生贄にならなかったとしても。俺は必要ないんだ……」
言葉に出すと唇が震えた。眦が熱いと思ったら、溢れ出たのは涙だった。トラヴィスの前でも泣いたりしないのに。
「あなたが悪いわけではありません」
零れて落ちた涙は二粒だけ。俺は見られないようにそれを拭った。アレンは見ない振りをしてくれた。
「二週間、ありがとうございました」
「意外に物覚えが悪いわけではありませんでしたね」
自分の頑張りを見てくれて、口は悪いものの褒めてくれるのは嬉しかった。
アレンが帰った後一人でポツンと座っていると、色々なことが思い出された。風邪をひいて看病してもらったときの事。侍女たちにお菓子のお礼だと帽子をもらったときのこと。あの時はトラヴィスが帽子をグチャグチャにしてしまって、怒って三日も口をきかなかった。
いつもトラヴィスは一緒にいてくれた。ここに来てから寂しいと思ったことがないくらい。
明日から潔斎に入るトラヴィスに、一緒に寝てくれるように頼むつもりだ。嫌がられるかもしれないけれど最期の思い出が欲しかった。
「シリン、明日から潔斎に入るから。明日の朝は一緒に食事が出来ないんだ」
トラヴィスはイチゴについての記録を整理しているときに帰ってきた。
「お疲れ様」
「ただいま。イチゴの記録?」
沢山ある記録は大半はいらなくなったものばかりだったから、廃棄する箱に入れていた。
「うん。手伝いに来てくれているから整理してるんだ」
もうイチゴの栽培は出来ないから、アレンが連れてきた狼獣人にやり方を全て教えた。その人は、俺と同じようにΩなのだそうだ。細かいこだわりも面倒くさがらずに覚えてくれたから、きっと今と同じイチゴの味は保てるだろう。
「温室に他の人を入れているの?」
アレンは教えていなかったようだ。そしてあまり喋る時間もなかったから、俺も言っていなかった。
「うん、フェイっていう狼獣人でね」
「フェイ? 白くて可愛い左の目の上に傷のある?」
「うん。トラヴィスも知っている?」
可愛い……。そうか、フェイのような姿がトラヴィスの好みなんだ。
「フェイなら、まぁ……。アレンの番だからいいか。でもこれからは、私に内緒にしないでね」
話したくても話せなかったのは俺のせいではないのに。
「トラヴィスが……」
これからは、ないのだ――。
最後の日に喧嘩などしたくない。
「私が?」
「一緒に眠ろう? 沢山話したいことがあるんだ」
おかしな流れではないはずだと、トラヴィスの手をとった。
振り払われるとは思っていなかった。
「……ごめん、傷つけなかった?」
呆然と払われた手を握りこんだ。
心配そうにトラヴィスが顔を覗きこむ。怪我がないかと聞かれているのはわかっていたけれど、気がついたら怒鳴っていた。
「傷つかないわけないっ!」
Ωなのも人族なのも俺のせいじゃないのに……と、泣きたくなった。
側にある口の先にキスをするとトラヴィスは硬直した。鼻の先をペロッと舐めたところで、突き飛ばされた。
やわらかく毛足の長いラグの上だったから痛みもなかった。
「……っあ」
ガリッと音がして、顔の横のラグが散った。トラヴィスの爪がラグを握っただけなのに、それはまるで鳥の羽毛のように舞った。
上から覆い被さるようにして見下ろす金と黒の瞳はいつものような表情をのぞかせず、俺はトラヴィスが怒っているのだと思った。
「胸がザワザワする。Ωはαの正気を失わすって本当なんだな。最低だ……」
トラヴィスの口から出た言葉が俺の恋心を打ちのめした。
失望させたのだと痛む胸の上にトラヴィスの手が下ろされて、身動きができなくなった。耳に温かい吐息がかかり、トラヴィスの長い舌が首筋を辿る。押さえつけられるようにして絡んだもう一つの手の先から冷えていくのを感じた。
「俺は――……」
開けた口にトラヴィスの舌が入ってきて『愛してる』という言葉は紡げなかった。
「んぅ……っあ……」
「シリン――」
息が出来なくなって背けた顔を何度も戻された。いくら呼吸しても苦しさはおさまらない。
明日、生贄になる前に死んでしまうような気がした。
「やっぱりシリンは人族だ――」
口付けが深まるにつれ、身体が自分のものじゃないように震えていった。カタカタと音がなるほどに強張る身体をトラヴィスがギュッと抱きしめてくれた。
凍える程に冷えてしまった身体を温めるように。
「人族は狼族のαを無意識に怖がるんだ。身体が拒否されているのにこれほど愛おしいなんて、酷い呪いだ……」
トラヴィスの悲しげな声が聞こえた。慰めようと思うのに、もう身体は指の先ですら動かなかった。
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