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小学三年生
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド……
その不慣れなピアノの指使いが、すべてのはじまりだった。午後の15時55分だった。
「……なぁ、みお、どうやったら滑らかに音が出せるの?」
「指は五本しかないから、途中で指をくぐらせるの。」
「くぐらせる?」
「ミを押さえている中指の下に、親指を伸ばしてファを押さえるの。その勢いでソを人差し指で、ラを中指でって感じで指を動かすの。」
彼の右手に私の右手を重ねて、鍵盤と彼の指を一緒に鳴らして手本を見せた。
「そうそう。じゃあ内浜一人でやってみて。」
ポーン……
こうして放課後、誰もいない教室でピアノの指使いを教えたのは、一人で寂しく電子オルガンを鳴らしていた内浜に同情したからでは決してなかった。
たまたま教室に忘れ物を取りに来てそこに居合わせた人がピアノを習っている私だった、ただそれだけだったのだ。
ふざけてボールをぶつけて叱られたクラスの男子が、その欠けた鍵盤を見つめていたら誰だって足を止めるはずだ。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド……
割れた鍵盤のカケラをそっと撫でてから、不器用に震える指で、だけれども丁寧に、彼は教えたとおり一人で指を滑らせた。
「んー。ピアノ弾くのって難しい。みおってすごいんだな。」
「いや別に、習ってたらこれぐらい基本だし……」
「……俺どうしよう。ゆかりも先生もカンカンだったな……」
内浜はうちの3年2組のクラスでもふざけるのが大好きな男子の一人だ。
雨が降っていたその昼休み、鬱憤が溜まった男子達は教室でボールの投げ合いをして時間を潰して過ごしていた。
そう。他にも仲間の男子が居たのだ。だけれど間が悪く、彼が放ったボールが、壁に跳ね返って教室の隅の電子オルガンの端に直撃した。
電子オルガンの椅子にきちんと座り、踊るように音を奏でていたゆかりちゃん。彼女のわずか横をかすめたボールは、昼休みの教室の空気を一変させた。
雨の日のどんよりした教室の空気をかろうじて和やかにしていたモーツァルトのピアノソナタが途中で終わり、演奏者のゆかりちゃんが叫んで泣き出したのだ。
電子オルガンを囲んでいた女子達が内浜を許すはずがなかった。
5人もの女子に1人で囲まれてしまった内浜は
「なんだよ、ここは男子の使うスペースなんだからー、固まって弾いてるお前らが悪いんだぜ」
と言ってしまい、事態が急転した。
女子達の金切り声を聞いて駆けつけた先生が、「誰が悪い」と尋ねたとき、他の男子はしれっと外野に下がり、彼1人が濡れ衣を着せられてしまったのだ。
「そんなにしょげなくても、ゆかりちゃん良い子だし、謝ったら許してくれるよ」
「……そうかな」
「大丈夫だよ。今度の県大会に向けてピアノのの個人レッスン通うので忙しくしてるし、内浜のちょっとした不注意なんて気にしないと思うよ。それにゆかりちゃん、電子オルガンよりもっと大きくて高いピアノおうちに持ってるもん」
「はぁ……?」
そんないたずら男子の彼が怒られて一人ぼっちになってしまい、センチメンタルな顔をして放課後たたずんでいるのが似合わないと思ったのだろうか。
私は、彼に元気になってほしくてわざと話をそらせようとばかりしていた。
「みおは、なんでそんなにゆかりに詳しいの?」
「同じ先生にピアノ習ってるんだ。実は習う曜日も一緒なんだよ。」
「それは知らなかったな。」
「ゆかりちゃんは上手いから。それに比べて私は下手っぴだし、普段は内緒にしてるんだ。」
実際、ゆかりちゃんは町内コンクールで入賞するレベルの実力者だ。校内合唱コンクールのクラス合唱の伴奏者に選ばれるのも当然だと思う。
昼休み、教室でピアノソナタを演奏していたのは、仲良しの友達にお願いされたからだ。
小学生だけが過ごす教室で、クラシックのモーツァルトの旋律はかなり浮いていた。それを分かっていて恥ずかしそうにしながらも、「すごいすごい」と持て囃されたゆかりちゃんは複雑ながらも嬉しそうだった。
そんなゆかりちゃんと同じピアノの先生に個人レッスンをしてもらっていても、ステージに上がってなんとか弾きこなすだけでいっぱいいっぱいの私が、
……なんでクラスの男子にピアノを教えているのだろう。
「ほら、私が味方になってあげるから。内浜だけが悪いんじゃないって言ってあげる。」
そのときの私は妙に強気だった。
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