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詩はそっと枝に触れる。
「じゃああと半年待たずに咲くね」
そう振り返った瞬間、母さんの笑顔と重なった。ありもしないクチナシの花が香った気がした。
柔らかくて優しい笑顔。俺は、小さく丸まったその体に覆い被さるようにして抱き締めた。
「……昴?」
「……夏になったら一緒に見よう」
言えた。怖かった言葉。
「うん! こんなに広い庭があるならここでご飯食べるのもいいね」
俺の背中を優しく擦る手。
ティーカップを持って優雅に椅子に座る母さんの姿が記憶を駆け抜けた。クチナシを眺めながらお茶をするのが好きだったっけ。
パラソルを立てて、そこで宿題をした記憶もある。あの時のテーブルも椅子もパラソルもない。きっとそれは年月と共に朽ちて廃棄したんだろう。
でも変わらないものだってある。変わらない場所で、新しい思い出を作ることもできる。
「いつか詩が言ってたお花見ってやつ……してみたい」
「そうだね。バーベキューもできるね」
「バーベキューか……」
大学時代、保と和泉と共通の友達ともやったな……。もう遠い昔みたいだ。
「お父さんも武内先生とか奥さんも呼んで皆でワイワイするのも楽しいと思いますよ」
ちょうど保と和泉のことを考えてたところにそんなことを言われ、ふふっと笑みが溢れた。
もう過去に捕らわれる必要なんかない。これからいくらでも詩と楽しい未来を築けるんだから。
「そうだな。……中、入ってみようか」
詩の手を引いて、中に入る。外と同じくらい冷えている。けれど、完備されているエアコンは全て新しいものだった。
さすが毎月ハウスクリーニング入れてるだけあって、古いものはなくどこもかしこも綺麗にされている。
ダイニングテーブルやリビングのソファーはそのままだった。1階をぐるっと回る。生活に必要な洗濯機だとか冷蔵庫なんかはもう残っていない。
当然だ。あれからもう20年以上経ってんだから。
2階に続く階段を昇る。足を踏み出す1歩1歩が懐かしい。父さんが帰ってくると、慌ててここを駆けていったっけ。
見覚えのある部屋の前。ドアには小さなコルクボードにプラスチックのアルファベットが並んでいた。
『SUBARU』の文字は今でも忘れない。まだ英語なんて習っていない年の頃なのに、自分の名前はローマ字で書けるようになってたな……。それから、簡単な単語も。
「名前書いてある! 可愛い!」
しんみりする暇もなく、詩が嬉しそうにドアを開けた。埃っぽさはない。勉強机も本棚もそのままだった。
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