白い花が香る家

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ーー昴side 「岩崎さーん!」  俺は苗字を呼ばれ、思わず患者カルテに記載する文字を打つ手を止めた。 「はーい!」  後ろで明るい声が聞こえ、ああそうか……と思いながらまたキーボードをなぞる。  病棟内で詩が「岩崎さん」と呼ばれていることにまだ慣れない。  院内にいれば先生と呼ばれ、岩崎さんなんて呼ばれた経験はない。それなのに体が反応するのは未だに詩の苗字が河野であるという認識が消えないから。  結婚するって決めたのは自分だし、苗字が変わった時には嬉しくて、浮かれたのにな。こうも一々反応するのは煩わしい。  詩とは詩の誕生日である12月11日と俺の誕生日である1月1日の間をとって12月21日に籍を入れた。  詩の異動の話が出てからもう3ヶ月近く経つか。やっぱり思いきって入籍してよかったな。 「お疲れー」  隣の椅子をザーッと引いて、乱暴に座った男。キィっと回転椅子を回して体をこちらに向けた。 「ねぇねぇ、奥さんが職場にいるってどんな気分?」  にたぁと気色悪い笑みを浮かべる幼なじみ。 「うるせぇ、別に前と変わんねぇよ」 「またまた。岩崎さんなんて呼ばれちゃって」 「うるせぇってば。お前、仕事しろよ」  顔をしかめて言えば、いつまでもにたにたと口元を緩めている保。結婚決まった時も、祝福よりも先にからかってきやがって。 「やっぱ結婚はいいよね。家にいれば愛しの詩ちゃんがいて。んで、出勤してもいるんでしょ。天国か」 「おい、話聞いてたか?」 「ああ、もう。仕事仕事って、オペない日くらいゆっくりしようよ」 「カルテ書いてる」 「どうせすぐ終わるでしょ。あ……詩ちゃんと一緒に帰るつもりでしょ」 「一緒には帰んねぇよ。バラバラに来てんだから」 「ふーん。詩ちゃん、病棟残ってくれてよかったね」 「うるせぇ」  そう言いながらずっとパソコン画面を見つめる俺。そんなことを言いながら、詩が病棟に残って嬉しいのは当然だ。  全然知らない病棟に飛ばされて、またイジメみたいな扱い受けてたら仕事に集中できねぇし。  あと1年は一緒に働ける。そう思えば、医師と看護師としての間柄で過ごせる残りの時間をしっかり記憶に刻んでおこうと思った。  結婚なんていいもんじゃないと思ってたんだけどな。母さんは毅然としてたけどどこか寂しそうだったし。  俺も子供の頃は他の子供達と違う家庭環境に疑問を抱いていた。もし自分の子供ができたら同じように寂しい思いはさせたくなった。ただ、医者になった以上それは無理そうで、俺自身が子供をもつことを諦めていた。  詩と出会ってなにもかも変わった。こんなに人を好きになることがあるなんて思ってもみなかった。結婚を考えるようになることも……。
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