白い花が香る家

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 そんな出来事もつい先日のことのようだ。同棲を始めたからといって、当然仕事量が変わるわけじゃない。夏は夏で入院患者は多いし、癌患者は季節関係なしにやってくるし。  俺も詩もバタバタ忙しなく働いていた。  数ヶ月後には、璃空さんちに招待され産まれたばかりの新生児をみた。抱っこしてもいいなんて言われて抱かせてもらった。  新生児を抱くのは研修医の時以来か。患児以外の健康な子供に触れるのは当然初めてのこと。  仕事中に子供に触れることはあっても、プライベートではない。穏やかな気持ちで赤ん坊を抱き上げるってこんな気分なのか。って、経験したことのないじんわりとした暖かみを感じた。  帰りの車内で詩が子供の話をしたりするから、俺もちょっと将来のことが頭を過った。あの広い庭に子供達がわらわら走り回って、「うろちょろすんな、おとなしくしてろ」なんて顔をしかめるのも悪くないな、なんて。  でも俺としてはまだ詩との同棲生活を満喫したかった。たった半年で子供ができたら、2人きりで過ごせるのも1年ない。子育てに追われた詩は今以上に忙しくなって、俺よりも子供優先になるんだ。  俺との子供を大切にしてくれたらそりゃ嬉しいし、俺だって父親として詩も子供も同じくらい大事にしなきゃいけない。  だけど、詩を独り占めできる時間が貴重だからこそ、満足できるまで2人でいたいとも思った。  直ぐに子供が欲しいか聞けば、詩も俺と同じようにまだ2人きりの時間を大切にしたいって言ってくれた。今の俺は、その言葉が聞けただけで十分。  ……幸せってこういうことなんだな。職場でも家でも詩がいて、仕事で嫌なことがあってもすぐに気持ちが落ち着く。  詩にいいところを見せたくて、常にいい医者でいようと張り切ったりするから、他の医者からも患者からも評価が上がったりもした。  公私共に充実した日々を送り、このまま何年かは何事もなく生活していきたい。  そう思っていた矢先だった。  俺が恐れていたことが現実となる。詩が異動を言い渡されたと夜中に言った。  わかってたことだ。いつかはこんな日がくるって。わかってたけど……実際そうなるとまだ心の準備ができない。  異動ってこんなにすぐに決まるんだな。1年後にどこにいきます。じゃなくて、来月から他の病棟にいってもらいます。なんて言われるらしい。
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