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3・花明かり
記憶に残る桜の影は退院してからも消える事はなく、それは僕の脳裏にしっかりと焼き付いた刻印のように鮮明によみがえる。
ちょうどこんな桜の大木の下で、時を忘れて語り合い見詰め合ったあの瞬間。桃色の着物と長い黒髪を揺らす風に翻弄され、老いた桜が僕らを祝福するようにその小さな花びらを乱舞させる。
見覚えのない彼女。けれどその微笑みは僕の胸を激しく急きたて、息も出来ないほど強く締め付けてくる。
すべてが生々しく、感触さえこの手に残るその夢は、ただひとつ彼女の声だけを僕から奪い去っていた。
今より少し古めかしい時代。
控えめな薄桃色の着物を身に纏い、儚げに微笑む彼女を抱き締めた僕の腕。
彼女を感じた瞬間、押し寄せる津波のように高鳴った胸の鼓動。
この腕に残る彼女のぬくもりは未だ消える事なく、僕の心の奥で静かに息づいている。
『朔夜さん』
僕はただ、夢を見ていた。
儚くせつない桜の夢を。
そして今でも、僕はその夢から醒める事が出来ずにいる。
遠く、はるか遠くにいる彼女の幻影に捕われたまま、息をしない現実を生きていくしか出来なかった。
夢の彼女は僕を知り、僕は彼女の名前を知らない。
あの雪のように舞い散った桜の向こうで、変わらず僕を待っていてくれた彼女は一体誰だったのだろう。
僕を抱き締め、愛してくれた君は。
それは何よりも大切で、誰よりも愛しい人の名前だったのかもしれない。
そしてそれを、僕は決して忘れてはならなかったのだ。
「……あの、大丈夫ですか?」
桜の下で蹲ったまま夢の残り香に溺れていた僕の耳に、控えめな少女の声が静かに届いた。微睡みから醒めるようにゆっくりと振り返った先、制服を着たひとりの少女が立っている。
どことなく夢の彼女に似た少女は、僕を見て驚いたように目を見開いた。
「もしかして……朔夜さん?」
おさげ髪の少女は、夢の彼女と似た微笑みを浮かべて僕を見つめていた。
僕はまだ夢を見ているのかもしれない。曖昧な現実と確かな夢の狭間で、出口を見つけられずにひとりで彷徨っているのかもしれない。そうでなければ、この目の前の少女は一体何者だと言うのだろう。僕の夢から逃げ出した人形なのだろうか。
答えは彼女の指先にあった。
震えるその手が差し出したのは、一枚の色褪せた写真。
薄桃色の着物を着た儚げな少女と、その横ではにかむように微笑んでいる僕が映っていた。
夢で、僕の名前を呼んでいた彼女だった。
「それ、お母さんの……お姉さんの写真です」
おさげ髪の少女が、掠れた声で呟く。
僕の鼓動は痛いくらいに早く鳴り響き、呼吸はそのまま止まってしまいそうだった。指先の凍る感覚に反し、体の奥はじわりじわりと熱を持つ。
遠い意識下で、もうひとりの僕が記憶の彼女を愛しく抱き締めたような気がする。手足を捕えていた枷を取り外し、心の感じる方へただひたすら走り続けていく。その先に自分の求める答えがある事を、僕は心のどこかで感じていた。
「伯母さんは一生結婚しなかったって、お母さんが言ってました。心に決めた人がいるからって……最期までその思いを貫き通したって」
せつない色に褪せた写真の裏には、僕の名前と――そして「明」と記されていた。
『朔夜さん』
ざあっと音を立てて、桜の花びらが一斉に空へ舞い上がった。青い空を侵食する白い桜の花びらは夢と同じように僕の視界を埋め尽くし、胸に抱いた大切な思いまで連れ去ってしまうかのようだった。
乱舞する桜。
それを掻き抱く青い空。
ただそこに、彼女がいないだけ。
僕の頬にかすかな熱を伝えた涙は、セピア色の過去へ戻る事を望むように写真の彼女へと零れ落ちた。
あぁ……君は、ここにいたんだね。
君をひとり残し帰ってきてしまった僕を、君は最期まで待ち続けて、逝ってしまったんだね。伸ばした指先に二度目の奇跡を掴まえる事が出来ずに。
けれど、あの時。
あの桜の花びらが空に舞い上がったあの瞬間に重なり合ったぬくもりは、決して嘘ではなかった。はるか遠い時を超え、奇跡的に触れ合えた過去と未来は、叶わなかったとしても僕らの永遠だったはずだ。
僕を愛し、君を愛した……夢のような遠い現実。
桜が見せた、泡沫の白い夢。
そこに確かに存在した君のぬくもりを、僕はきっと忘れはしないだろう。
雪のように降り注ぐ白い花びらの向こう側で、かすかに頬を染めた君が微笑んだような気がした。
君の名を呼ぼう。
君が僕を待ち続けてくれた、この桜の下で。
愛しい君の名前を、もう一度呼ばせてくれないか。
遠い過去、君が僕を呼んでくれたように……。
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