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2・花霞
目を覚ますと、白い部屋にいた。
飾り気のない無機質な部屋。
体に繋がれた幾つものチューブと、室内に満ちる消毒液の匂い。
緩慢に動いた指先に、少し固い感触のシーツが触れる。
覚醒した意識下で呼吸をすると、胸を襲う鈍痛に自然と声が漏れた。
「柏木さん?」
視界に飛び込んできた看護師の姿を見て、ここが病院だという事を知る。
目覚めた思考は追いつかないまま周りだけが慌ただしく過ぎていき、号泣する母親から自分の状況を聞かされたのはそれから三日後のことだった。
正月を実家で過ごそうと車を走らせていた僕は、通り慣れた山道の途中で事故に遭い、そのまま崖下へと転落した。
例年よりも早く雪が降り積もった寒冬。思いのほか降り積もっていた雪に滑って起きた事故だった。
ローンの残った車は廃車。
大破した車から弾き出された僕の体は、事故から一週間が過ぎようとする頃になって漸く離れた大木の下に倒れているところを発見された。
こんこんと降り続く深雪の中、誰にも穢されていないまっさらな白い雪の上。
横たわる僕の周りには、季節外れの桜が雪のように舞い散っていたと言う。
あれだけの大事故だったにもかかわらず、不思議なことに僕はたいした怪我もなかったらしい。けれど意識は戻らず、脈拍も微弱で、心臓はいつ止まってもおかしくないと判断されていた。
三ヶ月の入院中意識があったのはほんの僅かで、その時にはいつも決まって誰かの名前を呼んでいるようだったと医師が教えてくれた。
「気分はどうだい?」
目が覚めてから五日後。日数の分だけ、同じ言葉が降り積もっていく。
「よく、分かりません」
曖昧な意識のまま、視線が揺れる。窓の外には澄んだ青空が広がっていた。
最後に見た空は灰色にくすんでいて、視界を埋め尽くすほどの雪が吹雪いていた。寝ている間に冬を通り過ぎたようで、見上げた青空に凍える雪の名残はもうどこにもない。
カーテンを柔らかく揺らす風に、微かなぬくもりが紛れ込んでいた。
もうすぐ春が一斉に芽吹く。
穏やかな陽光に包まれて、壊れそうなほどに優しい笑顔が綻ぶのだろう。
「……」
春を呼ぶ風に、記憶の片隅で薄桃色の花弁が舞う。
あぁ、そうだ。
僕はずっと、夢を見ていた。
曖昧で、ひどく虚ろな刹那の夢。
天気は快晴。
夏よりはやわらかな青空がどこまでも広がっていて、その青を侵食するように小さな花びらが舞い上がっていた。空に流れる花びらはそのまま風に流されて、空の青を淡く色付く白に変えていく。
狂ったように乱れ舞う、桜。
その下で、翻弄されるように流れた長い黒髪。
桃色の着物に身を包み、白い頬をくすぐる髪を押えながら、彼女は乱舞する桜の花びらを見上げて微笑んでいる。儚げに微笑んでいる。
小さな手のひらに受け止めた花びらを嬉しそうに見つめて、彼女はその白い手のひらを僕の方へゆっくりと差し出した。
桜色の薄い唇がわずかに動いて、言葉を紡ぐ。彼女の唇が、僕の名前を紡いでいく。
音は聞こえなかった。
届かない声を覆い隠すように、桜がさざめく。風に揺れ、花びらを散らせながら、その白い雨の向こうへ彼女を連れ去っていく。
消えていく君に手を伸ばして必死に名前を呼ぼうとするけれど、僕の声はいつも喉の奥で押し留められ彼女に届く事はない。
舞い散る桜に伸ばした指先。そのせつない指に触れるものは何もなくて、僕はあの美しく儚い夢の世界へひとり取り残されていた。
あの時、僕の胸を埋め尽くした……崩れそうなほど脆い悲しみを今でもはっきりと覚えている。
誰を呼ぼうとしていたのだろう。
その名前を僕は知っているのだろうか。
彼女は誰なのだろう。
散りゆく桜のように儚げな彼女は。
渦巻く桜の花びらに舞う、遠い夢の君の名は……。
『咲哉さん』
名を呼ばれたような気がして顔を上げると、ざぁっと一層強い風がカーテンを揺らした。
開け放たれた窓の向こう。やわらかな青空を彩る淡い白の桜が、短い命を終わらせようとしていた。
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