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東の空から夜が来ている。
海に沈もうとする日が名残り、藍と橙がまじりあう。昼と夜との曖昧な境目を、「たまご」たちが飛びかっている。
秋の海風が、びゅうびゅう吹きつけていた。夜を背後にしながら、少女は立っていた。浜辺に面した崖ぎりぎりに、彼女は「たまご」たちを見つめていた。
「ひぐれ」
彼女は脇に抱えた、ちいさなうさぎのぬいぐるみを見やった。
「ひぐれ」。それが彼女の、今の名前だった。
目深にかぶった帽子のつばからは、沈む夕日に似た色の瞳がのぞいている。
「わかってるって」
ぬいぐるみを大きな肩掛けカバンにしまいこみ、「ひぐれ」は身の丈よりも長さのあるほうきにまたがった。ブナの小枝をサクラの柄にまとめた、「ひぐれ」のご自慢のほうきだ。
よし、と小さく、けれど潔くつぶやいて、「ひぐれ」は一歩を踏み出した。二歩、三歩、左右の足を交互に前へ出す。崖の終わりが、ぐいぐい「ひぐれ」に近づいてくる。
いける、と「ひぐれ」は唇を噛んだ。左足が崖のふちから離れる瞬間、胸が高鳴った。
どくどくと、心音が耳に響いている。
こわい? 緊張してる? 「ひぐれ」は胸のうちに問いかけた。もちろん。「ひぐれ」は胸のうちに答えた。
けれどそれ以上に、感じたことのない気持ちを感じていた。頭のてっぺんからつま先まで、燃えるような熱い気持ち。数秒後にはとびきりいいことが待っていると全身が感じている。そんな気持ちだ。
「ひぐれ」の靴の裏が、地面を蹴った。目の前にはもう、海と空しかない。
このまま、落ちるか。いいや――
「飛ぶんだよ、くそったれ!」
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