辻 佳輝

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辻 佳輝

 あ、今日も会えた。  嬉しくてつい口元が緩んでしまう。  いつもの電車、いつもの車輌。こんなにたくさん人がいてもすぐにわかる。  僕は手摺りに寄りかかって小説を読むフリをしながら、そーっと彼を見つめた。  清潔そうな短髪にキリッとした眉。少し目を細めて窓の外を眺める表情が大人っぽい。  彼はどんなふうに笑うんだろう。あの腕でギュッとされてみたい。    彼と初めて出会ったのは3ヶ月前のこと。  一限から英語の小テストがあるのに前の晩うっかり寝落ちしてしまった僕は、電車の中で参考書を片手にあわあわしていた。  英文や慣用句を頭の中で復唱するが、慌てているせいかなかなか頭に入ってこない。  それでも必死にページを捲っていたその時、突然電車が大きく揺れ、僕の体はバランスを崩し後ろに向かって傾いた。  「わ、」  ヤバい!と思った次の瞬間、頭から背中までをポスっと誰かに支えられる。  「おぉ」  頭の上で低い声がして後ろの人物を振り仰ぐと、背の高い高校生が驚いたように僕を見下ろしていた。  ふぁぁぁ!  「すっ、すみません!ごめんなさいっ」  「・・・や、大丈夫」  僕は慌てて体を戻した。顔が熱い。    切れ長の凛々しい目。スッと通った鼻筋に少し薄い唇。逞しい体躯。低くて心地よい声は僕の背中から心臓まで響いた。  すごくカッコいいお兄さん。ああいう人、僕の学校にはいない。  僕はこの時、生まれて初めて『恋に落ちる』っていう体験をした。こんなにいとも容易く、スコーンと落ちてしまうものだなんて。  降って湧いたような恋心は何だかムズムズとくすぐったくて、ほわほわと嬉しくて、電車を降り駅を出てからも僕のドキドキはずっと治まらなかった。ふわふわした気持ちのまま受けた小テストが散々だった事は言わずもがな。  それからというもの、電車で彼に会えることが僕の一番の楽しみになっている。  会えると言っても離れた所からただ見ているだけ。本を読んでるフリをしたり、イヤホンで音楽を聴いてみたりしながら、バレないようにこっそりと。  彼のことは何も知らない。制服で高校はわかるけど、そこの高校には知り合いがいないから彼の情報を得る術もなく。  かといって自分から話しかけるとか絶対無理だ。緊張のあまりパニックになること確実。それに僕は人見知りで話し下手だし、見るからに地味で暗そうだし、僕みたいなのが突然話しかけたらきっと気持ち悪いって思われるに違いない。  でも、ずっとこのままなのかな・・・。  いつものベンチに座ってカフェオレを飲む彼の背中はすごく遠い。  ・・・このままじゃ嫌だな、とは思う。思うけど、じゃあどうすれば・・・。何か、何かきっかけがあればいいのに。  それから一週間後。  僕は電車に揺られながらあらためて決意を固め、頭の中で駅に着いてからの行動をシュミレーションする。  ──よし、今日こそ。今日こそ実行だ。  今朝はいつもと違う車輌に乗った。この車輌は、彼がいつもカフェオレを買う自動販売機の一番近くに停まる。  ドアが開くと同時に電車を飛び降りて自動販売機へ駆け寄り、お茶のボタンを押してスマホを翳す。  そして取り出し口へ向かって屈んだところで、胸ポケットから自分の生徒手帳をわざと地面に落とした。  急げ急げ。彼が来る前にここを立ち去らなければ。僕は買ったお茶をサッと手に取ると足早に階段を上がって改札を抜けた。  はぁー。心臓がバクバクしてる。手汗すごい。    彼と接触する方法は何かないかと考え続けて思いついた作戦。それを今日ついに実行した。  ──彼が僕の生徒手帳を拾ってくれたら。  彼の目の前でポトッと落としそれを拾ってもらったとしても、その場でお礼を言って終わりな気がした。  でも彼が駅員さんや交番なんかへ手帳を届けてくれたなら、お礼を口実に彼の名前を聞いたり、あわよくば連絡先を聞いたりできるかもしれない。そう思ったのだ。  外へ出ると冷たい風がひゅうっと頬に触れる。そろそろマフラーが必要かも。  作戦を実行した興奮からずんずんと歩みを進めていた僕だけど、駅前通りの横断歩道を渡って銀杏並木に差し掛かる頃には少しずつ頭が冷えてきて、足取りはみるみる重くなっていった。後ろから歩いて来た人達が次々と僕を追い越して行く。  ・・・やっぱり戻って拾って来ようかな。  ホントはわかってる。すごく浅はかな事をしてるって。  あんなにたくさんの人が行き交う場所で、そんな都合よく事が運ぶわけがない。駅員さんが見つけてくれるのが関の山ってところか。いやいや、誰にも気づかれずあのまま放置されてるかも。    彼の名前が知りたい。  話をしてみたい。  笑った顔が見たい。  彼のことを知りたい。たくさん、たくさん知りたい。    綺麗な黄色に染まる銀杏の木を見上げた。   もし彼が手帳を拾ってくれなかったら、僕はどうするんだろう。また他の作戦を考えるのかな。こんな、どうなるかわからないような事を何度も何度も繰り返すのかな。  ──彼が気づいてくれるまでずーっと?  僕は立ち止まり、胸ポケットに手を当てた。いつも生徒手帳を入れているそこは、今は空っぽだ。  ・・・戻ろう。  初めて出会った大切な恋を、こんな賭けに任せてちゃいけない。  見てるだけが嫌なんだったら、彼に近づきたいなら、もっと勇気を出さなきゃだめだ。運任せにしてただ待っていても何も変わらない。  目標に向かって堅実に頑張れるのが辻くんの良いところだよ、って中学のときの先生が言ってた。  そうだ。こんな不確かな賭けじゃなくて、少しずつ、でも確実に、彼に近づけるよう努力する方が僕には合ってる。    びゅうっと吹いてきた強い向かい風に前髪が舞い上がり、僕は目を瞑った。  まずは彼の名前を聞く。それが第一目標だ。  それをクリアしたら、今度は毎朝挨拶してみよう。  顔見知りになれたら何でもいいからちょっとずつ世間話とかして、  それから、  それから──   end.
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