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駒場 匠
今日も今日とて老若男女大勢の人間を運ぶ電車が駅に到着した。ドアが開いた途端、乗客は溢れる水のようにホームへと流れ出していく。
先を急ぐ人々と対照的に、俺はのんびりと電車を降りる。ホームの自動販売機でカフェオレを買い、ベンチに座って暫し物思いに耽るのがこのところの日課だ。
この駅から学校まで歩いて10分。これより一本遅い電車でもホームルームにはじゅうぶん間に合うし、実際3ヶ月前まではそっちを利用していた。だが今はこの電車じゃないと駄目な理由がある。
──今日も可愛かったな。癒された。
朝陽を受けて光る綺麗な黒髪。色白な肌とのコントラストは清らかなのにどこか色っぽい。小さく可愛らしい耳に入れたイヤホンで何を聴いているのだろう。本のページを捲るその細い指先に触れてみたい。
初めて彼を見たのは3ヶ月前だ。
その日たまたま早く目が覚めた俺は、いつもより一本早い電車に乗ってみる事にした。
身動きが取れない程ぎゅうぎゅう詰めになるいつもの電車と比べれば混雑はいくらかマシで、乗客同士が密着せずに済むくらいの余裕はある。
早く起きられた日はこっちの方が良いかもな。欠伸をかみ殺しながら考えていると、ふと俺の前に立つ男子高校生の旋毛が目に入った。
俯いたり斜め上を見上げてみたり、ちょこちょこと動くたびサラリと揺れる髪はツヤツヤで天使の輪ができている。俺のゴワゴワ硬い髪とは大違いだ。
頭一つ下にある触り心地の良さそうな黒髪をまじまじと見ていたその時、ガタンと電車が大きく揺れた。
「わ、」
聞こえた小さな声。それから胸元に軽い衝撃があり、今の今まで見つめていたその頭が俺の顎下へすぽっと嵌まった。
「おぉ」
驚いて思わず声が出てしまったが、無駄にガタイの良い俺はそれを難なく受け止める。
その体勢のまま頭だけぐりんと振り返り真ん丸な目で俺を見上げた彼は、頬を赤くしてパッと離れた。
「すっ、すみません!ごめんなさいっ」
「・・・や、大丈夫」
眼鏡越しでもわかる長い睫毛に澄んだ瞳、白くすべすべな肌、柔らかそうなピンクの唇。耳まで赤くして俯き、ずれた眼鏡を直す仕草は小動物のように愛らしい。
・・・可愛い。
なんだこれ。可愛いぞ。
俺は一瞬でズドンと恋に落ちてしまった。
それからというもの、電車で彼を見たいが為に毎朝早起きしている。
同じ駅で降りるということ以外、彼については何も知らない。県内トップの進学校の制服を着ているからとても頭が良いのだろう。顔立ちや雰囲気からするとたぶん年下だ。
彼とお近づきになれたらとは思うが、実際に声をかけるつもりはなかった。
俺は背が高くゴツい上に目つきも悪くて、初対面の人からよく怖がられる。この形でいきなり声をかけようもんならきっと彼は驚き恐れ慄いてしまうだろう。カツアゲと勘違いされて逃げられでもしたら、ショックで二度と立ち直れない。
だから見てるだけでいいんだ。
心の中で想うだけなら誰にも迷惑はかけないし、フラれて傷つくこともない。
改札へ向かい階段を上って行く彼をそっと見送る。細い背中は人混みに紛れて遠ざかり、すぐに見えなくなってしまった。
──そんなある日の朝。
珍しく電車内で彼の姿を見つける事ができなかった俺は酷く落胆していた。
ダメだ、今日はもう頑張れない。俺の一日の活力が・・・。
ガックリと肩を落としながら電車を降り、いつもの自動販売機までノロノロと歩く。
溜息混じりにカフェオレのボタンを押そうとした時、靴の爪先にコツンと何かが当たった。
「ん?」
足元を見下ろせば、小さな紺色の冊子のようなものが落ちている。
・・・手帳?
屈んで拾ってみると、それは彼が通う高校の生徒手帳だった。思わず裏表紙を捲って学生証を確認する。
「え」
驚きのあまり手帳を取り落としそうになった。
そこには今より少し髪が長い彼の顔写真と、名前。
「辻 佳輝・・・」
・・・・・・こんな事ある?
俺は学生証を見つめたまま金縛りにあったように固まっていた。暫くしてハッと我に返り、慌てて周囲を見回す。ホームに彼らしき人物は見当たらない。
俺は弾かれたように走り出した。
今日は別の電車だったのかもしれないとか、駅員に落とし物だと届けた方が良いんじゃないかとか。そんな事は頭からすっ飛んで、とにかくこれを彼に渡さなくては、ただそれだけで頭がいっぱいだった。
学生証に記された名前。
ひとつ彼のことを知った途端、今まで胸の内に抑えつけていた欲望が次々と溢れ出す。
──見ているだけでいいなんて大嘘だ。
本当は話をしてみたい。
笑った顔が見てみたい。
彼のことを、もっと知りたい。
きっとこれは、弱気な俺に神様がくれたチャンスだ。
辺りに視線を走らせながら階段を駆け上がる。行き交う人を避け、改札を抜けて出口へ。
駅前通りに出てすぐの信号が赤で足止めをくらう。そわそわしながら横断歩道の先を見やれば、鮮やかな黄色に染まる銀杏並木を歩いて行くツヤツヤの黒髪が見えた。
──いた!
ようやく信号が青に変わり、俺はまた走り出す。
ふと彼が歩みを止めたのがわかった。その華奢な背中との距離がどんどん縮まっていく。
びゅうっと強い向かい風が吹いて、彼の髪が靡いた。
──何て声をかけよう。
ヘタレな俺はこの期に及んでもなお躊躇する。
駄目だ、怯むな。このチャンスを逃したら絶対絶対後悔する。
さっき知ったばかりの君の名前を、呼んでもいいだろうか。
「・・・辻くん!」
突然の声にビクンと彼の肩が揺れた。少しだけ首を竦めたまま振り返り、走ってくる俺を見て目を丸くする。驚かせてしまったみたいだ。
俺は彼の前に立った。久しぶりにダッシュしたから息が切れててなんかカッコ悪い。心臓もあり得ないほどバクバクしている。
ふぅっと一息吐くと、真ん丸のまま俺を見上げる澄んだ瞳を覗き込んだ。
まずは顔と名前を知って貰うのが第一歩。
彼を怖がらせないように、俺は細心の注意を払って口を開いた。
「・・・突然ごめん。あの、これ──」
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