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弐話
その日を境に秀圭と胡蝶は橋の上で逢瀬を重ねるようになった。
口はきけねど洞察に長けた聡明な娘で、意思疎通は首振りと目配せで事足りる。
胡蝶は決まって先に来て、欄干に腰掛け秀圭を待つ。秀圭が仕事を終え一息入れに来てみれば、必ずそこで待っている。
「お屋敷にいるのか?」
首を横に振る。
「塞翁さまに会ったことは?」
縦に頷く。
「縁談にきたんじゃないのか」
沈黙。
「その……すんが言えるなら頑張ればうんも言えないか?」
また、沈黙。
「……すまん」
秀圭はもとより口が重いたちで胡蝶は口がきけぬため話が弾んでるといえば嘘になるが、橋の上には妙に居心地のいい空気が流れていた。
どうしてここにいるのか尋ねてもはぐらかされるばかりで釈然としない。
胡蝶はきまって橋にくるまでの途中に靴の片方を落としていく。
秀圭が迷わぬためのめじるしのように。
そうして靴を落としておけば秀圭が必ずやってくると信じているのか。
秀圭は憮然とした顔で胡蝶に靴を履かせる。
胡蝶は欄干に腰掛け、屈む秀圭の肩に両手を添え、心もち抱きつくような格好でじっとしている。
畸形への違和感と嫌悪は逢瀬を重ねるにつれ薄れていった。
「どうしたの秀圭、妙にそわそわしちゃって。休憩のたびさっさと消えちゃうし、いい人でもできたの」
「……蝶が待ってるんだ。俺がいなきゃ靴も履けん」
遥淋の軽口にそう答え庭を横切る途中、むこうからやってくる人影に気付く。
立派な身なりと風貌の青年。
「塞翁さま」
片膝ついて礼をする。
彼こそ李家の総領息子、女中の噂の的、塞翁だった。
跪く秀圭に目をとめ、塞翁が誰何する。
「お前は……」
「この春からお屋敷に雇われた秀圭です。お見知りおきを」
「親父が新しく雇ったやつか。なるほど、くそがつくほどまじめそうな顔をしてる」
口の片端を釣り上げ笑う。違和感がひっかかる。
女中らの噂によると使用人にも親切な貴公子だというが、秀圭に対する態度にはどこか含みがある。
言葉に窮し話題を変える。
「散歩ですか」
「蝶と戯れていた」
「蝶と、ですか?」
「風流だろう?」
塞翁が笑い、戸惑う秀圭とすれ違いぎわ耳元で囁く。
「蝶には毒がある。お前も気をつけろ」
謎めいた言葉を残し意気揚々と立ち去っていく。
屋敷へ帰る塞翁を見送りいつもの橋へ向かう。
「胡蝶?」
姿が見当たらない。
今日はいないのだろうか。
置手紙の代わりに欄干の上にひとつ靴が。
「これを届けろと……?」
秀圭が胡蝶について知っている事はごくわずか、名前と年齢、それ位だ。
趣味は蝶の翅をむしること、秀圭をからかうこと。
時折戯れに翅を食べて茶目っ気を披露する。
どこから来てどこへ行くのかもさだかでない娘の存在がいつしか心の多くを占めていたことに姿が消えて初めて気付く。
『私を捜して』と欄干に残された靴が訴えている。
小さな靴を懐にしまいこみ、橋の上でひとりごちる。
ふと視線を下げれば、秀圭が立つ場所についさっきまで探し求める人物が居た証拠に蝶の翅がちらばっていた。
翌日も翌日も胡蝶は姿を見せなかった。
得体の知れぬ胸騒ぎを覚え、秀圭は使用人仲間に聞き込みを始めた。
「さあ、知らないねえ。いまお屋敷に泊まってる客人なんていないはずだけど」
「そんなはずはない、たしかに見たんだこの目で。池のほとりで美しい娘を。名前は胡蝶、見た目は十六・七」
「どっかの旅人のように蝶に化かされて夢でも見たんじゃないか?」
「んな別嬪ならぜひお目にかかりてえもんさ」
使用人は誰も胡蝶を知らなかった。
確かに見たと訴える秀圭の言葉は軽くいなされ、その必死ぶりはからかいのネタとなった。
「そんな別嬪が庭をぶらついてたら目立つはずだわ、なのに誰も知らないなんておかしいじゃないの。働きすぎて幻を見たのよ」
「違う。俺は触れた、この手で靴を履かせてやったんだ。あんなにはっきりした幻があるものか、あれは確かに生身の人間だった」
「はいはい、わかったから。息抜きに娼館でも行ってきたらどお?」
誰もまともに相手をしてくれなかった。
そのうち、秀圭は気付く。
秀圭の見たものを幻か思い込みと決めつけ嘲笑う使用人と違う、よそよそしい素振りを見せた使用人の存在に。彼等彼女らはいずれも古株の年配者、十年以上お屋敷で働く者たち。年の若い使用人がはなから相手にせず笑い飛ばした秀圭の訴えを、「なにをバカな」「気でも違ったか」「くだらぬことを言ってサボる気なら追い出すぞ」と執拗に否定し、秀圭を盗み見てこそこそと話し合う。
何かを隠している。
住みこみで働き始めて三ヶ月、その疑いはどんどん濃厚な気配を帯びて顕著になる。
たとえば食事。厨房を差配する料理人を釜戸に火をいれながらうかがう。ひとつ余分に用意された膳に気付く。
その膳は家族が住まう本宅とは別の場所へしずしず運ばれていく。
たとえば老いた女中の怪しい行動。風呂敷に衣類を包み、いそいそいずこかへ忍んでいく。
一体何を隠してる。
胡蝶の身上に関わることか。
知りたいという願望が膨れ上がる。欲求を抑えきれない。
どうして突然姿を消したのか、理由を知りたい。
ほんの数回顔を合わせ触れ合ったきりの一回りも下の娘にどうしてこんなに惹かれてしまうのか、自分でもわからない。
満月の晩、秀圭は尾行を開始する。
標的は最年長の女中頭、葉明。
抜き足差し足忍び足、可能な限り素早く後を追う。
靴をしまった懐に自然と触れる癖がつく。
庭を突っ切り奥へさらに奥へ……
蓮池を越えてしばらく行ったあたりにこぢんまりした離れがたたずむ。
「……ここは」
離れの存在を初めて知った。
老婆は離れに入る。
柳の木に隠れ様子を見守る。
ほどなく老婆が出てくる。
「葉明婆さん」
皺ばんだ顔に驚きと畏れが走る。
驚かせないようひそやかに詰め寄り、問う。
「どういうことだ、屋敷の人たちはみんなして何を隠してる。こんな夜更けにこそこそと庭を抜けて……離れの存在は今晩初めて知った、なんであんなものがあるんだ。それだけじゃない、旦那さまと奥方さまと若様と膳は三つでことたりるだろうにどうして四人分あつらえる?俺が橋の上で見かけた娘の話を大半の使用人は笑って流したが、年が上の使用人は妙にそわそわとした。誰があそこに住んでるんだ」
老婆を追い詰め間合いに踏み込む。
「頼む、教えてくれ。なかにいるのは誰だ」
離れに囚われてるのは秀圭が一目で心奪われた人じゃないかと。
あの不可思議な娘じゃないかと。
「……教えてくれないならこの目で確かめに行く」
「!待つんじゃ秀圭、いけない、それだけは」
制止の手を振り切り足早に、次第に駆け足に、最後は疾走し入り口をくぐる。
「真実を知ったら後悔するぞ!」
背を鞭打つ老婆の声を振り払う。
目が暗闇に慣れるのを待ち、息遣いを抑えて人の気配を手繰り寄せる。
こっちの方から声が……
「あっ、あっ、あ」
切ない声。
戦慄に立ち竦む。
「あっ、ああっ、ひ、あ、ああっ………」
「いい声で啼け。どうせ誰もいない、召使いの婆さんは今さっき出ていった、遠慮はいらない。ああ、その声、その顔だ……たまらない。お前がそうしてしゃにむに抱きついてくるとさんざん撃ち尽くして萎えたものもほら、この通り」
盗み見を咎める良心は物狂おしい背徳の誘惑に負け、紅格子の隙間を覗く。
そこは閨房だった。
寝台の上に胡蝶がいた。
着物は半ば脱がされて薄く貧弱な胸と素肌が露出している。
しどけなく寝乱れた胡蝶の上に尻をむき出してのしかかっているのは塞翁。
胡蝶を組み敷いた塞翁は、愛憎せめぎあう目で呟く。
「尻を上げろ、腰を振れ、もっともっと啼け。しこたま子種を注いでやる」
塞翁が狂ったように腰を打ちつけるごと体が撓う。
淫猥にのたうち絡み合うふたつの体。
「表に出したのは失敗だったな、ちょっと目をはなした隙に男をくわえこむ。手の早さは母親譲りか」
蜜壷にさしこまれた肉棒がぐちゃりと音をたてる。
「ばれてないと思ったか。はは、この屋敷で起きる事を俺が知らないと思ったか!俺の元には色んな情報が集まる、使用人はみな俺の味方だ、俺に気に入られる為に大なり小なりご注進する。橋の上で誰と逢瀬してた?新しく雇った下男と?名前はたしか秀圭……」
胡蝶がびくんとする。
甘美な締めつけに塞翁が毒々しく嘲笑う。
「淫売が。恥を知れ。何の為に生かしてやってると思ってる、俺を悦ばせるためだろう」
「あっ、ひあ、ひっひっひっあ!」
こめかみを一筋涙が伝う。
「いいかよく聞け胡蝶、お前の存在価値は俺を悦ばせることに尽きる。他の男に目を向けるな、外に出たいなんて死んでも考えるな。折檻は嫌いだろう?言う事を聞けば優しくしてやる、気持ちよくしてやる。友達が欲しいというなら同じ年頃の娘を差し向けてやる、だからそれで我慢しろ。秀圭とはなにして遊んだ?小さな口でしゃぶってやったか、頬張ってやったか、腹の上にのってやったか」
塞翁の手がむき出しのふくらはぎをなでさすり、律動に乗じて腰を抉りこむ。
「俺にやるように、土踏まずで挟んですり鉢のようにこすってやったか」
今すぐ殴りこんで塞翁を引き剥がしたい。
胡蝶を救いたい。
が、動かない。
忌まわしい言葉ひとつひとつに呪縛され、淫らに喘ぐ胡蝶の姿態から目をはなせず立ち尽くす。
ぐちゃぐちゃと卑猥な水音が立つ。肝心の結合部は着物の裾に隠され見えない。
嗚咽する胡蝶を無慈悲に責め立て、憎しみ煮えたぎる形相で囁く。
「お前の足は俺の魔羅にちょうどいい、ぴったり合うよう時間をかけ調整したんだから当たり前だ。他の男に乗り換えるなよ」
これがあの塞翁か。
これがあの胡蝶か。
今見ているものははたして現実か。
嬲られ辱められどうして抵抗しない、どうして塞翁のいうなりなのだ。
全身の血が沸き立ち、塞翁を殴り倒そうと戸を開け放ちかけ
すっ、と手が伸びる。
胡蝶がしなやかに手をさしのべ、自分を犯す男の首ったまにかじりつく。
「あっ、ああっ、あ―………」
快感に濁った虚ろな瞳、白痴の表情。
弛緩しきった口から涎が糸引く。細腰が上擦る。もっともっとと交接をねだり、夢中で局部にすりつける。
抱き合うふたりを目の当たりにし、逃げるように閨をあとにする。
懐から靴がおちたのにも気付かない。
右も左も区別がつかず、離れから飛び出すなりふらついて、十歩も行かずに崩れてしまう。
「どうして………」
胡蝶は塞翁の愛人だったのか。
塞翁は夜毎離れを訪れ足の不自由な胡蝶を抱いていたのか。
絶望に目がくらむ。
悲憤が血を沸かす。
「胡蝶は、あいつは塞翁さまの何だ。恋人なのか。じゃああの纏足はなんだ、愛してるなら何故酷いことをする、惚れた女を性玩具として扱える?塞翁さまは何を考えてらっしゃる、胡蝶は口がきけないのに……」
「仕方ないんじゃよ」
振り向けば老婆がいた。
うちひしがれた秀圭に対し、徒労じみた緩慢さで首を振る。
「蝶々を手に入れたくば纏足するしかないんじゃよ」
旦那さまには愛人がいた。
奥様とはもともと政略結婚で愛がなかった。いや、旦那さまなりに愛してはいたのじゃろう。問題は奥様のほうにあったのかもしれぬ。しかし夫婦仲のこと、一概にどちらが悪いとは言い切れん。奥様はさる由緒ある商家のご令嬢で、なにぶん気位の高い方じゃった。若い頃の旦那さまはさぞ窮屈な思いをしたろう。安らぎを求め愛人に走ったとしても責められぬ。
旦那さまは妾を寵愛し、風光明媚な庭に離れを建てそこに住まわせた。
さすがに屋敷に同居させるほど無神経じゃなかった。あるいは奥方の嫉妬を恐れたのか、今となっては真偽はわからん。お妾は若く美しく人だった。もともと旦那さまが借金のかたにお買いなさった娘だ。
先に子を産んだのは奥様じゃ。玉のような男の子じゃった。跡継ぎを産んだ奥様へといったん関心は移ったものの、やはり夫婦仲は上手くいかず、じきに旦那さまは離れに入り浸るようになった。
その頃からじゃ、奥様が心を病み始めたのは。
広い屋敷に赤子とふたり残され、気位の高さゆえ高慢な無関心を装って夫を見送るしかない奥様の心情は、考えるだにおいたわしい。
旦那さまは足繁く離れに通う。
奥様は旦那さまの帰りを待つ。
そんな日々が何年か過ぎた頃、妾の妊娠が発覚した。
産まれてくる子が男ならば家督を奪われるかもしれない。
なにせ旦那さまは妾にお熱、妾の子の方を可愛がる可能性は十分ある。
最悪、正妻の座さえも奪われ子供ともども追い出されてしまう。
被害妄想の虜となりはてた奥様は厨房の料理人に指図し、妾の食事に少量ずつ毒を混ぜた。
妾の子を下ろそうと企てたのじゃ。
母子ともども命を落としてくれれば正妻の座は安寧、旦那さまの寵愛を取り戻せると期待して。
さても運命は皮肉なものじゃ。
人を呪わば穴ふたつ。
奥様の企みに気づいた下男が厨房の料理人と通じ料理を取り替えた。
下男は妾に懸想し、意中の人を亡き者にせんとする奥様を憎んでいた。
毒を混ぜた食事をそうと知らず食べ続けたのは奥様の方。
やがて奥様は体調を崩し、床から起き上がれぬまで衰弱した。もう暗殺どころじゃあない。
人の口に戸は立てられぬ。
下男の企ては妾の知るところなった。
妾は悩んだ。彼女もまた自分に尽くしてくれる下男を憎からず思っていたのじゃろう。
父親ほど年の離れた旦那さまより、年頃の似た下男を慕わしく思うのは自然なならいじゃ。
ふたりは強い絆で結ばれていた。
なんて恐ろしい事をと妾は責めた。
下男は奥様を殺したのだ。
だが元をただせばそれも妾のためを思ってのこと。
妾は悩みに悩んだ末、下男の罪を赦し、手に手を取り合って出奔を図った。
ここにいればいずれ罪がばれる。二人は引き裂かれ、下男は処刑される。
身分差は堅固に絶対。
下男が奥方に毒を盛れば謀反の大罪として裁かれる。
下手人が判明する前にと逃避行した妾に、旦那様は追っ手をさしむけた。
共謀の容疑もさることながら姦通を疑って怒り狂ったのじゃ。
妾と下男は逃げた。
が、産み月の女とそれを気遣う男とでは遠くへ行けん。
妾と下男は裏山に逃げ込んだ。
下男は観念し切々と説いた。
あなたは人質として無理矢理連れてこられた、そうすれば旦那さまもきっと赦してくださる。
妾は首を縦に振らなかった。どこまでも下男と行くつもりだった。
やがて陣痛が襲った。追っ手はすぐそこまで迫っている。
産声が上がる。
木々の枝を薙ぎ払い現れた追っ手が発見したのはへその緒の付いた赤子。
妾と下男は首を吊って死んでいた。
かくして妾は下男と心中、奥様は病床から起き上がれなくなり屋敷には偽りの平穏が戻ったのじゃ……
「妾が産み落とした子は離れで育てられた。ワシの役目は日に三度、お召し物と食事を運ぶこと」
「旦那さまが会いに来られた事は……」
「ワシが知る限り一度も。お嬢様はいないものとして扱われている。存在を知る使用人も皆口を閉ざす」
「どうしてだ、妾とはいえ自分の子だろう!妾の子といえば塞翁さまの腹違いの妹になるじゃないか、塞翁さまは腹違いの妹を離れに閉じ込め辱めてるのか、遠くへ行けぬよう悪趣味な纏足まで施して!」
老婆は押し黙る。
彼女を責めても仕方ないとわかっていながら言葉の洪水がとまらない。
それでは、胡蝶があまりに不憫じゃないか。
「そんな理不尽な話あってたまるか……!」
「行くな、つらくなるだけじゃ」
「見て見ぬふりなどできぬ!胡蝶は……お嬢様はなにも悪くない、親の罪を子が引き受ける謂れはない!塞翁様がなさってるのはただのやつあたりだ、何も知らない胡蝶に当たり散らしてるだけではないか!」
「仕方ないのじゃよ」
「仕方なくなどない!」
「二の舞になる気か」
諦念に充ち満ちた予言の声音にすっと血が冷える。
老婆がひたと秀圭を見据え、顔の皺ひとつひとつに歳月が培う辛苦を滲ませ、呟く。
「あの下男の二の舞になるか。妾を道づれに非業の死をとげた下男とおなじ轍を踏むか」
「俺は……」
「あいつも同じ事を言っとったよ。あの人が不憫だ、自由にしてやりたいと」
かつての悲劇を知る老婆はしげしげ秀圭を見つめ、そこに宿る面影に懐かしげに目を細める。
「お前はあいつによく似とるよ、秀圭」
胡蝶は妾の子。
李家の隠された第二子、塞翁の腹違いの妹。
生い立ち故に父に疎まれ、庭に隔離されて育った。一部の使用人以外その存在を知ることすらない。
それからも秀圭はひょっとしたら胡蝶がきてるかもと期待して橋に通うのをやめられなかった。
どんな顔をして会えばいい。情事を盗み見してしまった。
塞翁に抱かれ喘ぐ淫らな姿を、塞翁に抱きつき乱れる姿を見てしまった。
兄と妹で肉を繋げ情を通じるなどあってはならぬこと。
そのあってはならぬことが、ここでは行われている。
近親相姦。
離れを直接訪ねる勇気はどうしてもなく、遠くから仰ぐのが精一杯。
橋での再会を夢見て通うのが不器用な男の精一杯。
毎日毎日時間を見つけては橋を訪れ、欄干に凭れて胡蝶を待つ。
待ち人きたらず時間だけが残酷に過ぎていく。
知らないふりをするのが賢いとわかっている。内内の事情に首を突っ込み、せっかく得た職を失いたくない。
保身を求める利己欲に胡蝶を不憫に思う気持ちが勝る。
初めて橋の上で会ったとき、蝶の翅を無心にちぎって撒いていた娘の面影が幾度も瞼の裏に甦り、夜毎秀圭を悩ませる。
親に見捨てられ兄に虐げられる娘を、自分まで見捨てていいものか。
責任感、使命感、義務感。
そのどれとも近くどれとも違う感情に支配され、今日も秀圭は橋に通う。
そして、決定的な場面に出くわした。
「胡蝶……さま」
夢かと思った。
胡蝶がいた。出会った時の姿のままに欄干に腰掛け、どこか思い詰めた眼差しで水面をのぞきこんでいる。
今日は両方とも靴を履いている。
靴の爪先が水面にふれ、ちゃぷんと波紋を広げる。
元気になったのか。体はいいのか。
勝手に出歩いてるところを塞翁に見られて叱られないか。
様々な想いが錯綜し、声が喉に詰まって出てこない。
橋の欄干に腰掛けた胡蝶は絶句したきりの秀圭に気付かず、おもむろに身を乗り出し―
水柱と同時に水音が上がる。
「!!」
池に落ちた。
否、身を投げた?
体が傾ぐのをそのままに、まるで吸い込まれるように……
「馬鹿、何を考えてるっ!!」
秀圭の行動は早い。
即座に上着を脱ぎ捨て池にとびこむ。
纏足では泳げない。
纏足では抗えない。
沈もうとした胡蝶の腕をつかみ、衣装と髪とが藻の如くまとわりつく体をしっかり抱え、池のほとりへと泳ぎ着く。
息をしてない。
死んだ?まさか。
肺活量一杯息を吸い、口移しで吹き込む。
人工呼吸と交互に力強く胸元を押し心臓に衝撃を与える、手のひらに違和感を感じるも振り払い蘇生に集中する。
「だから言っただろう、欄干に座るのは危ないからよせって!言うことを聞かない嬢やだ、池で溺れ死んだりしたらお前が殺した蝶々どもが笑うぞ、蝶々の祟りで死にたいのか!!」
何度もくちづけ息を吹き込み、胸を強く押して心臓をどやしつければ、瞼がぴくりと動く。
目を覚ます。
「―っ、がほげほがほっ」
体をふたつに折って苦悶する。激しく咳き込んで水を嘔吐する胡蝶に安堵の笑みを浮かべ、額の汗を拭う。
「手の焼けるお嬢様だ……」
待て。
何かがおかしい。
ぜいぜい間延びした喘鳴をもらす。濡れそぼった髪が肌にまとわりつくさまが色っぽい。
さっきの違和感はなんだ。無我夢中で胸を押した。十四・五の娘にしては平坦な……
「お前は……」
どうして気付かなかったのか。
化粧と衣装にごまかされたか。
纏足は女性の風習だという先入観に騙されたか。
おそるおそる手をのばし、胡蝶が首に巻いた布に触れる。
水を吸ってぐっしょり濡れそぼったそれを掴み、力を込める。
かちゃん。
金属音をたて枷が外れる。
喉仏があった。
「男、だったのか」
布に鉄枷を裏打ちし、埋め込んだ突起で声帯を圧迫し、同時に喉仏を隠し。
長いこと布でしばられていた首には痛々しい痣ができていた。
塞翁との結合部は着物の裾に隠れ見えなかった。
普段は着物に隠されわからねど胸は平たく、実際に触れてみれば体全体が女性らしい丸みに欠けていた。
衝撃の事実に取り乱し、手にした布を握り締め頭を下げる。
ようやく胡蝶が、否、目の前の「少年」が自分より格上の存在だと思い出したのだ。
「―…………ご無礼をお許しください胡蝶さま」
「『僕』に様なんか付けるなよ、秀圭」
くすくす。
変声期を迎えた少年独特の掠れた声で囁き、恐縮する秀圭へと腕をさしのべ、首を抱き寄せる。
体格の違う秀圭に凭れ、首元に顔を埋め、抱きつく手に縋りつくような力をこめていく。
「お前が余計なことしなきゃ………ねる、はずだったのに」
すん、すん。
続きは涙声に紛れて消えた。
なにか勘違いしてないかい。
塞翁は僕の家来だ。
まったく鈍いね、お前は。僕がどうやってここまで来たと思ってたんだい?この足で遠出ができるとでも?
よく見なよ。こんな足じゃまともに歩けやしない。ちょっと歩いただけで激痛が走る。いいこと教えてあげよう、僕を毎日この橋に運んできたのは誰か……もう予想はついてるんだろう?そう、塞翁だ。腹違いの兄上様だよ。
物心ついたころから離れに閉じ込められて育った。身のまわりの世話はばあやがやってくれる。外界との接触は殆どなかった。ほらご覧、ちょうどこの蝶たちみたいに……生まれてからずっと籠の中だったわけさ。
僕の話は聞いた?……そうか、お節介なばあやが教えちゃったか。
母上は売女だった。兄上からはそう聞かされている。父上を誑かして奥様に毒を盛って正妻の座を奪おうとした悪女だって。挙げ句に下男と手に手をとりあって駆け落ち、逃げ切れないと悲観して心中ときた。商家に醜聞は命取り。ましてやそんな女が末期に産み落とした穢れた子の存在なんて隠されて当たり前。間引かれず生かしてもらっただけ感謝しなきゃ。
母上は売女だった。だから母上の子も売女さ。血は争えない。僕は母上の淫乱な性質を受け継いでるんだって。だから悦んで腰を振る、兄上にいじめられて泣いて悦ぶ。兄上は僕を憎んでいる。そりゃそうだろう、僕は憎い妾の落とし子、自分の母親を殺そうとした女に生き写しの子。毒を盛られた後遺症で奥様は十数年間ずっと床に伏したまま、もう起き上がれぬほど衰弱しきってる。いつ召されてもおかしくない状態で。
僕に纏足が施されたのはみっつのころ。
纏足の作り方を知ってるか?幼児の柔らかい足に何重にもきつく布を巻き、寝る時もそのままにしておく。
施術は激痛を伴う。痛くて眠れない夜が何日も続いた。
たまりかねてはずそうとしたらひどく折檻され、ほどけないようさらに厳重に縛られた。
命じたのは兄上だ。
『これから女になるんだから纏足するのはあたりまえだろう』って。
どうして僕が女の姿をしてるのかって?
どうして声を封じられていたのかって?
兄上の希望さ。
お会いした事ない父上の指示でもある。
李家に男児は二人いらない、家督争いの混乱を避けるためお前は女になれ、と。
僕は生まれたその瞬間から女として生きよと宿命づけられた。
理不尽を感じたか、だって?はは、残酷な質問だね。その頃は何もわからなかった。どうしてこんな痛い目にあうのか、酷いことをされるのか、ばあやに聞いてもさめざめ泣くばかりで何も教えちゃくれなかった。
ただぼんやりと、母上が悪いことをしたからだってのは飲み込めた。
僕は母上の代わりに罰せられてるんだって。
纏足の処置を受けてから数年後、兄上が離れにやってきた。
来た時から様子がおかしかった。
必死で逃げた。
だけど纏足では上手く走れず逃げ切れない。
やがて押し倒され、灼熱の痛みが襲った。
知識がなくて何をされてるかもわからなかった。
ただただ兄上の豹変が恐ろしくて、体を抉り貫く痛みに気が狂ったように泣き喚いた。
兄上は僕の中に母上の幻を見てるのか。
母上の面影を重ね復讐してるのか。
男の身でありながら女の着物を着せられ奉仕する日々。
夜は怖い兄上だけど昼は甘い。
僕がねだれば大抵の言うことは聞いてくれる。甘やかし放題さ。兄上の胸にしなだれかかって囁けば大抵の願いは叶えられた。綺麗な着物も靴も本も玩具も望めばすぐ与えられた。贅沢な暮らしだった。
散歩に行きたいとおねだりしたら兄上は渋った。事情を知らない使用人に見られるのがいやだったのだろう。
だけどじきに折れた。その代わり奉仕を命じられたけどね。ウブな秀圭にはとても言えないような……ね。
兄上は僕を抱いて橋の上に連れて行く。
時間になれば迎えに来る。
それが散歩。
自分で歩けない僕に許された唯一の。
一日のうちの限られた時間、ほんの一刻だけ橋の欄干に腰掛け日光浴をする。
外の空気を吸えるのはその間だけ、橋に腰掛け池を眺めている間だけ。
人形を虫干しする感覚に近かったんだと思う。
ねだってねだってやっとの事叶えられた外出の時間。
一日で一番待ち遠しい時間。
待ち焦がれた時がくるまでどんなにかそわそわしたか、自分で歩いて好きなところへ行ける秀圭にはわからないだろうね。
この通り、僕は足萎えだ。自力で歩くのは不可能だ。人の支えなしじゃ立つことさえできない。
誰かにおぶわれるか抱かれるかしなきゃ移動もできない不自由な身の上。
お前が拾った靴は兄上の都土産。僕を着飾るのが兄上の楽しみ。僕は兄上の着せ替え人形。
おかしいね、人の手を借りなきゃ出歩けない奴に靴なんて意味ないのにさ。
お前は面白いやつだね、秀圭。
うぶで真面目でからかい甲斐があった。僕の事をまるきり娘と思い込んで疑いやしない。
正直、不安もあった。
声変わりを迎えてから首枷の着用を義務付けられた。うっかりしゃべりでもしたら男だと見抜かれてしまう。
しゃべらない限りは安全だった。現に秀圭、お前は疑いもしなかった。僕の正体を見抜けずにいた。
馬鹿だね。
男なのに。
僕に女のまねをさせるのは兄上の自己満足、征服欲を満たすためのお遊び。
纏足とおなじさ。裾の長い着物をずるずるひきずっては遠くへ逃げられないだろうって。
兄上は狂ってる。
僕の体に溺れている。
あの人は……可哀想な人だ。歪んだ物しか愛せない。
歪んだ足、歪んだ形。
兄上が執着するのは常人が目を背けたがる歪んだものばかり。
兄上が賛美するこの足だってほら、こんなにも醜い。指は縮こまり骨格は歪み、ひとりじゃ立つことだってできやしない。
兄上は畸形しか愛せない。
僕の畸形は生まれつきじゃない。僕は兄上の最高傑作だ。
笑えばいいだろう、うぬぼれだって。
お前に見せてやりたいよ秀圭、兄上がどんな顔で僕の足の指ひとつひとつにくちづけるのか。
ひとつひとつを口に含んでうっとり陶酔するのか、恍惚とした顔で僕を
「やめろ」
長い回想を遮る。
蓮池に架かる橋の上、胡蝶は女の姿で水面に足をたらす。
「どうしたの、おっかない顔して」
「自虐は好かん」
「自虐じゃないよ、事実を言ったまでさ」
胡蝶が蓮池に身を投げた数日後、橋の上で邂逅を果たした二人の間に剣呑な空気がたちこめる。
「聞きたかったんだろう、僕と兄上の閨ごとを」
欄干に腰掛けた胡蝶がゆっくりと向き直る。
秀圭の膂力によって首枷が破壊され声を取り戻し、今では達者にしゃべれるようになった。
「口を開くと可愛げなくてがっかりしたかい?」
「口を閉ざしていた頃もそんなものはなかった。お高くとまったイヤな小娘だった」
胡蝶はまだ女物の服を着ている。ぬばたまの黒髪は丁寧に結い上げ簪を挿し、色っぽい鬢を見せる。
化粧は入念、女装は完璧。
ぎりぎりまで近付いても男とはわからない。しぐさもたおやかで女らしい。
「……俺にはわからん。お前も塞翁さまも旦那さまも頭がおかしいんじゃないか」
「どうして」
「男に女の服を着せ女として偽り育てるなど正気じゃない、ましてや自分の子を……塞翁さまに至っては自分の弟を」
「僕に言われたって困る、本人に直接言ってよ。……ああ、首が飛ぶのが怖くて言えないかな?所詮は下働きだもんね、上には絶対服従だ。僕が靴を投げればとってくるし兄上が土下座しろといえば地を舐める、それがお前の正体だ」
肩ひくつかせ笑いつつ、膝の上においた柳の籠のふたを開け、蝶を一羽つまみだす。
ぐったりした蝶に息を吹きかけ、遠い目をして続ける。
「なにも知らない馬鹿な使用人をからかうのは楽しかったよ。ちょっと流し目くれるだけでどぎまぎして、退屈しなかった」
「………性悪め」
「男って単純。見目のよさにころりと騙される。僕が綺麗なのは当たり前じゃないか、それしか価値がないんだから」
飛べない翅に価値があるとしたら、鑑賞に足る美しさだけ。
ならいっそ、そんな役立たずの翅は摘んでしまおう。
そうすれば諦めがつく。
「いい退屈しのぎになったよ。お前ときたら馬鹿で単純で、僕が足を突き出したら文句を言いつつ靴を履かせてくれた。触り方が変にいやらしくないのも気に入った。お前は僕のお気に入りだった」
どうして過去形で語るのか。
どうしてさっきから一度も振り返らないのか。
「これからもここに来るだろう」
今日ここに来たときから様子がおかしかった。ぼんやりと池面を見詰めるばかりで秀圭と目を合わせようとしない。
「これからも会えるだろう?」
切迫した秀圭の問いには答えず、振袖をたぐって目の上に蝶をかざす。
「蝶の性別の見分け方を知ってる?」
「…………さあ」
「僕もわからない。こいつらはきっとオスでもメスでもない生き物なんだ」
長い睫毛が縁取る切れ長の目がスッと細まり、繊手を一閃。
「気持ち悪いね」
翅と胴体をばらばらに引き裂いて池に放り、冷たく吐き捨てる。
「やめろ、胡蝶」
「名前で呼ぶな。嫌いなんだ」
「蝶にあたるな」
柳の籠に手を入れ新たな犠牲を掴み出す。
翅をちぎろうとした手をとらえ叱責すれば、見開いた目に激情の火花が爆ぜる。
「命令するな下男風情が!」
秀圭めがけ柳で編んだ虫籠を投げつける。咄嗟の事でよけきれず、虫籠が頬を掠って切り裂く。
後方に落下した虫籠をあとじさった拍子に踏みつけ、ひしゃげたそこから一斉に蝶が飛び立つ。
「どうして僕に構う?僕はこの屋敷にいない子だ、いない子を相手にしたらお前の立場が悪くなる、わかったらさっさと行け、こんなとこでさぼってないで仕事にもどれ。それともご褒美がほしいのか、靴を拾ってやったお礼めあてか」
「そうだ、蝶の代わりに俺にあたれ。目の前の俺を見ろ、好きなだけ言いがかりをつけろ」
「言いがかりじゃない。僕が女じゃないってわかったろ、下心で近付いたならお生憎様だな、尽くすふりして接吻までして泣きっ面だ!僕が『お嬢様』じゃなくてがっかりしたろ、ははっ、お前が恋したお嬢様なんて本当はどこにもいなかったんだ!」
哄笑を上げる姿はあまりに痛々しく小さく。
虚勢を張ってるのが透けて見えて。
「犬じゃあるまいに毎回靴を咥えてきてよしよしして貰いたかったのか。わかっただろう秀圭、僕はお嬢様じゃない、れっきとした男だ、喉仏だって張ってきた、声変わりだってそろそろ終わる、背だって伸びてどんどん男になっていく!そうなったらきっと」
激情に髪振り乱し、華奢なこぶしで秀圭の胸を殴りつける。
「用済みだ………!」
大人になるのが怖い。
美しいだけがとりえの蝶からその価値さえも剥奪されたら、
生かしておいて貰えない。
「胡蝶」
「よぶな」
「胡蝶」
「女の名前じゃないか」
「坊ず」
「ばかにしてるの?」
「わがままめ」
秀圭の胸元を握り、厚く逞しい胸板に顔をこすりつけ熱い息を吐く。
「蝶を食べれば成長が止まるかもとおもって、沢山捕まえた。燐粉の毒が体中に回って背が伸びなくなるって本で読んでそれで……でもダメだ、嘘だった。腹が立って蝶を殺した、たくさんたくさん殺した、そしたら気持ちがスッとした。どこにでも好きに飛んでいける翅があるくせに僕から逃れられないなんて」
「胡蝶」
だからいつもいつも翅をむしっていたのか。
無力で非力な自分と脆く儚い蝶を重ね、翅をちぎっていたのか。
「ひらひら目ざわりな蝶々に纏足してやったんだ………!」
かつて塞翁にされた事を仕返し傷心を慰めたのか。
蝶々の亡骸と一緒に外に恋い焦がれる自らの気持ちも沈めたのか。
「どこにでも好きなところに行けるくせにどうしてまとわりつく、僕を嘲笑ってるのか、こんなみっともない足みっともない格好、男でも女でもない僕をからかってるのか!だからばらばらにしてやったんだ、ざまあみろ、いい気味だ、沈んでしまえ永遠に!」
「蝶は沈まない。軽すぎて水に浮く。何度やっても浮き上がってしまう」
連続で胸を殴りつける手をそっと握り、燐粉にまみれた指を吸う。
「お前の心とおなじだ」
胡蝶は自由を求めてる。
生まれてから十四年幽閉されて育った少年に、外の世界を見せてやりたい。
衣擦れに紛れ消え入りそうな声音で呟く。
「……うらやましくなんか……」
「ないと言い切れるか」
「塞翁は僕の家来だ、なんでも言う事を聞いてくれる、欲しいものはなんでも与えてくれる、珍しい外国のお香だって鼈甲の櫛だって綺麗な着物だって」
「お前に纏足したのは?お前の体を夜毎奪うのは?」
「―っ、僕は……塞翁が、兄上がそう望むなら。だって仕方ないじゃないか、蝶のように蜜を吸って暮らせない、歩けない僕の代わりに身のまわりの世話をしてくれる人が必要だ……誰かに依存しなきゃ生きてけない役立たずなんだ、僕は」
自信と卑下の間を行き来、情緒不安定な胡蝶を強く強くかき抱く。
「世話なら俺がする」
胡蝶が愛しい。
初めて出会い、一目で心奪われた。
橋の欄干に座り無心に蝶の翅をちぎる姿に魅せられた。
「お前を外へ連れていく」
「秀圭………?」
秀圭の腕の中で胡蝶が目を見開く。
怪訝な表情。秀圭の正気を疑うような。
「塞翁さまなど知らん。お前が不憫でたまらない」
「同情してくれるの」
「最初はそうだった。同情だと思った。今は……よくわからん。わからんが、放っておいたら必ず後悔することだけはわかる」
守りたいという衝動が湧く。
恋より強く狂おしく、捻くれた足と捻くれた性格の少年を愛しく思う。
「ありのままのお前でいい、性を偽る事などない。塞翁さまに尽くす義務などない、親の罪を子が引き受けるのは間違ってる。歩けないなら俺がおぶう。お前をつれてどこまでも逃げる」
小さな顔を手挟み、戸惑う瞳をまっすぐに見据え、不器用に微笑む。
「もう二度と蝶をあやめなくていい。お前はただ蝶を見て笑っていればいい」
折から吹いた風が橋上の翅を舞い上げ、水面に運ぶ。
軽さのあまり浮いてしまう蝶の翅を一瞥、断言する。
「蝶々の水葬はこれで最後だ」
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