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壱話
むかしあるところに胡蝶と名はつけど飛べぬ蝶と、その蝶を恋い慕う愚かな下男がいた。
男が蝶を見つけたのは麗らかな春の日。きっかけは靴であった。
寸法は幼女のそれと大差ない。金糸で蝶を刺繍した華奢な靴だ。
どうしてこんなものが落ちてるのか見当つかず、秀圭は困惑する。
秀圭が春から下働きとして雇われたのは豪商、李家の屋敷。
寝たきりの奥方の物ではないだろう。
使用人仲間の顔をひとつひとつ思い浮かべていくもやはりそぐわない。
飯炊きの下女や侍女がよそ行きの靴をもってないのは百も承知だ。
腰痛持ちの老庭師を気の毒に思い、代わりに芝刈りを申し出た秀圭はゆるりと見回す。
州随一の繁栄を誇る豪商の屋敷とあって、千坪はあろう庭園は離宮に匹敵する規模。
「お転婆娘が忍び込んだか……にしちゃあ上等な靴だが」
奇異な感じを与える原因が判明した。対となる靴が見当たらないのは不自然だ。
靴を片方なくしたら普通気付かぬはずがない、すぐ取りに戻るだろう。秀圭とて靴がすっぽ抜ければさすがに気付く。
今ごろ靴の主はどうしてるのか。
片方裸足のままどこぞをうろついてるのか。
「……困ったな」
持ち主は女の子だろう。
靴をなくした子供が独り迎えを待つ姿を思い浮かべ決断を下す。
手のひらにのせた靴はひどく軽い。鳥の羽一枚分ほどの重さしかない。
指先でつまむようにして靴をぶらさげ、苦笑がちに呟く。
「まるで人形の靴だな」
なにげなく足元を見下ろす。
粗末な布を雑に巻いただけの靴。
下男は皆秀圭とおなじような靴を履いているから特に意識した事はなかったが、世の中に確かに存在する貴賎の別と貧富の差とをしみじみ噛み締め、羞恥の念が焼きつく。
「だれかいるのか。いるなら返事をしろ」
秀圭の顔に懸念の色が射す。
もしや、何かあったのでは。
足をくじいて立てないとか転んでどこかを打ったとか、返事をできない事情があるのか。
秀圭とて暇ではない。身ひとつでぶらついてるところを見咎められれば叱責が待ち受ける。
が、どこかに泣いている子供がいると知りながら放っておけない。
「おい、聞こえているならうんとかすんとか」
「すん」
耳を疑う。
返事がした方向を反射的に仰ぐ。
すん、すん、すん。甘えるように鼻を鳴らす。
泣いている?
「さあ、一緒に帰」
言葉が途切れる。
しなだれた柳の大木のむこう、蓮池に架かる朱塗りの橋の欄干に腰掛ける一人の娘。
優しげななで肩。丁寧に結い上げた髪に蝶の簪を挿している。
たおやかな後ろ姿に一瞬見とれる。
背中だけでも十分麗姿とよんで差し支えない。
子供ではない。
背格好から推定した年齢は十六、七。
裸足の爪先を水面に浸し、同心円状の波紋を投じる。
娘の足は畸形だった。体格に比して異様に小さい。
指は親指を除き四本とも内側に折り曲げられている。
全体が窮屈そうに窄まった足は忌まわしい因習の産物。
「すん、すん、すん」
裸足の親指でつつくや水面がさざなみだつ。
怖気づく。近づくのを躊躇う。
話には聞いた事がある。実際見るのは初めてだ。
貞節を重んじる名家の子女にはいまだ施術が行われているという風聞だが……
指が未発達のまま折り曲げられ萎縮した足は悲愴な残虐美を醸していた。
娘の手元に目を凝らし、秀圭は、見た。
蝶の翅をむしっている。
「な」
波紋を広げる水面に散乱する蝶の翅。
俯き加減で顔の造作はさだかではない。
妄念に取り憑かれ。
静かなる狂気漂う手つきで。
繰り返し繰り返し、儀式めいた繰り返しで蝶の翅をちぎり捨てる。
なんだこいつは。
狂ってるのか。
どうしてこんな惨いまねを。
繊手がひらつく。髪がぱらつく。鬢にまとわりつくおくれ毛がふわりとそよぐ。
「殺生はよせ、可哀想じゃないか。蝶になんの恨みがある」
光沢ある白緞子の着物を纏う娘に歩み寄る。
ゆるやかに広がる裾が襞をつくる。
蓮池の水面には泥からすらり茎を伸ばし睡蓮が咲き乱れる。
蓮の花に蝶々が羽ばたき戯れる。
「聞こえてるのか。生き物をいじめるのはやめると言ってる、そいつらがお前になにをしたと言うんだ」
娘は耳を貸さない。
透かしを入れた薄紙細工のような翅がはらはらと舞い、渦を巻いて水面に浮遊する様は圧巻だ。
日頃温厚な秀圭もさすがにいらだち、どこか浮世離れした娘に対し声を荒げる。
「蝶に祟られても知らんぞ!」
しゃらり。
衣装に薫き染めた伽羅の芳香が匂いたつ。
黒髪が揺れ、手を止めて振り向く娘と目が合う。
息を呑む。
物憂く被さる長い睫毛、濡れ濡れと輝く切れ長の瞳、秀でた鼻梁と慎ましやかに結ぶ唇。
秀麗な面差しは小揺るぎもせず石英質の美をとじこめている。
ほんのりと血の色を透かし色づく白皙の肌。
脆くちぎれた翅がはらはらと舞う。
一刹那、視線が絡み合う。
魂を吸い取られるような清廉な美しさにしばし身動きを忘れ見とれる。
秀圭とは生まれ育ちからして違う。同じ生き物とさえも思えない。
睡蓮の精だと言われれば容易く信じてしまいそうだ。
娘は瞬きもせずじっと秀圭を見つめる。
手は蝶の燐粉に塗れ黄色く変色している。
ついと視線が動く。つられてそれを追う。
「……お前の靴か」
胡散臭げに確認をとれば、首肯の代わりにおとがいをしゃくる。
ひとに傅かれるのに慣れた驕慢な表情は、自分では指一本動かすのさえ厭う貴族のそれ。
すなわち、「お前が履かせろ」と言っているのだ。
むっとする。
「ひとりで歩いてきたんなら自分で履けるだろう、甘えるんじゃない」
お高くとまった態度と無邪気な残虐性に嫌悪を催し、自然言い方がきつくなる。
柳眉が逆立つ。相手も腹を立てたのだろう。
「言いたいことがあるなら口で言え、俺にどうしてほし」
おもむろに裾をはだけ、じれたようにを足を突き出す。
生まれてから一度も日に晒した事のないようなおみ足の白さ、不健康なまでの細さにたじろぐ。
痛々しい素足を見るに耐えかね、かすかに上気した顔を背ける。
「……わかったからしまえ。嫁入り前の娘がはしたないまねをするな。旦那といいなづけ以外にみだりに肌を見せるな」
艶やかな唇が勝ち誇った弧を描く。
感情は顔にださぬよう努め、傅いておみ足をすくう。
踵を支えて靴を履かせる。
骨格の歪曲は手で触れればなおくっきりわかってしまうが、軽口で後ろめたさを散らす。
「わがままな嬢やだな。据え膳上げ膳の暮らしをしてると自分で靴ひとつ履けなくなるのか」
爪がささくれ皮は固く、あかぎれだらけの手で触れるのは冒涜に近しい抵抗が働く。
甲斐甲斐しい手つきで靴を履かせ終え一息つく。
秀圭が作業を終えるまで置き人形さながら娘はじっとしていた。
面白そうな様子でしげしげと秀圭の手が動くさまを観察、足首をなでさする。
「……物珍しいのはわかるがよそんちの庭に我が物顔で居座るのは感心せんな。付き人が待ってるんだろう、早く帰れ」
身なりからして裕福な商家の令嬢だろう。
親についてきたものの退屈して抜け出した、そんなところか。いかにも世間知らずな娘の振る舞いだ。
いつまでも立ち上がらぬ娘を気遣う。
「足をくじいたか?」
再び屈みこみ、真剣な目つきで足首を検分する。
小娘といえど女、身分は上。無礼にあたらぬよう触診には細心の注意を払う。
異常なし。
医者の真似事では詳細まではわからねど、捻った形跡やくじいた痕跡は皆無。
怪我をしているなら痛みに顔を顰めくらいするだろう。
純粋な疑問を口にする。
「なんで蝶を殺した」
かたくなに沈黙を守る。裾をおろして萎えた足を覆う。秀圭はひとつため息をつく。
「胡蝶の夢という話を知ってるか」
少女が目を上げる。
「ある旅人が夢で蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして旅人が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て旅人になったのか……って話だ。妙な話だと思って寓意を考えた」
わざと声音を低め、さもおそろしげに言う。
「もし嬢やが蝶が見てる夢の中の存在だとしたら、そいつを殺した途端嬢やは消えちまうかもしれないんだ。うたかたの如く」
少し脅かしてやろう。
そうすれば無益な殺生を慎むはず。
「蝶と心中する気か?跡形もなく消えたくなけりゃ生き物をいじめるのは」
懇々と繰り返す戒めを遮り、娘が動く。
おもむろに繊手をかざし、秀圭の頬に添える。
「な」
匂やかな指。
眼前に迫る秀麗な顔。
指が触れた場所がじんと熱を持つ。
甘美な余韻に脳髄が痺れ、睫毛が縺れ合う。
頬に燐粉をなすり、満足した指があっさり離れていく。
ふっくらした唇に悪戯げな微笑がちらつく。
「…………っ、大人をからかうんじゃない」
娘の笑みから目を逸らす。ばつが悪い。
妙な娘だ、構うのはよそう。
「俺は行く。お前も早く帰れ。自力で池の端まで来れたなら歩けないわけじゃあるまい」
三十歩ほど行って振り返れば娘はまだそこにいた。
日が暮れるまで居直る気か。
「………おかしなやつだ」
付き合いきれん。帰りたくない理由でもあるのか。
いずれにしろ自分には関係ないと断ち切り、大股にその場を去った。
李家の長男にして跡継ぎ、塞翁は齢二十三。
縁談の話が持ち上がっていい頃合だ。
眉目秀麗な貴公子と名高い塞翁は同格の商家はもとよりさらにその上、高級官吏の入り婿としても待望される優秀な若者だった。
「塞翁さまはしばらく都にいってらしたの」
秀圭と懇意にしている女中の遥淋が夢見るような表情で言う。
細腕から水桶を借り受け、代わりに汲んでやりながら、さしたる興味はないが礼儀として聞き返す。
「都に?遊楽か」
「商いの取り引きよ。綺麗な反物や外国産の珍しいお土産を沢山持って帰ってらしたわ、女中たちも大喜びよ」
蓮っ葉な口調に悪意はなくかえって親しみを感じさせる。
働き者の秀圭は、このようにしてよく力仕事を代わってやるため他の使用人から頼りにされていた。
とくに明朗闊達な遥淋は、秀圭とほんの一年違いで奉公に上がった経緯もあってか、彼の朴訥とした人柄に甘え色んな相談ごとを持ちかけていた。
あばたが目立つ日焼け顔はお世辞にも美人とは言えないが、溌剌とした笑みになんともいえない愛嬌があって、屋敷の皆に愛されていた。
秀圭もまた、気立てがよく裏表のない遥淋を好ましく思っていた。
秀圭の世間知らずをけらけら笑いながら、耳年増な女中は話す。
「子供の頃から利発で有名だったのよ。官吏の家に生まれてれば科挙を受けて今頃登第の進士さまだったかもね。こう言っちゃなんだけど、旦那様も近頃めっきり老け込んじゃったし……塞翁さまがお嫁さんをもらって李家を牛耳る日も近いって噂よ」
「子供の頃からって……その頃から奉公に?」
「葉明婆の受け売り」
桶を置いて問う秀圭の肩をふざけてはたき女中が笑う。秀圭もつられて笑う。
「お屋敷の生き字引だな」
葉明は最年長の使用人、李家で六十年働く老婆。
使用人ひとりひとりの顔と名前のほか、李家とゆかりある商い先の事情も知悉した長老である。
「今が玉の輿のねらい目だってみんなはりきってるわ」
「どうりで浮ついてるわけだ」
「女中は浮き足立ってるわよ、若様のお手つきになればいい思いができるって」
両手で桶を持ち、野望を語る遥淋の目は生き生き輝く。
一生を働き詰めで終える奉公人にしてみれば若様の愛人になるのは夢だろう、身分違いで正妻にはなれずとも贅沢三昧の暮らしが保証される。
正直塞翁に羨望を感じないといえば嘘になるが、塞翁の愛人の座を狙う女たちの醜い争いは感心しない。
色恋沙汰にまつわる軽薄な風潮に、秀圭は苦りきった顔をする。
「そういう尻が軽いのは好かん」
「ったく、堅物ねえ。ああそっか、ごめんごめん、あんたこういう浮いた話は苦手だっけ。恋愛には奥手だもんねえ。堅物すぎて惚れた腫れたに縁がないんでしょ」
遥淋にかかっては形無しだ。
「塞翁さまにお会いしたことは?」
「遠くからちらっとお見かけしたことはあるが口をきいたことはない」
「いい男だったでしょう」
「……よくわからん」
邸内で塞翁を見かけた事は数えるほどしかない。
一介の使用人と跡取り息子では立場が違う、親しく口をきく機会もない。
遠目には遥淋が惚れ惚れするのも頷ける美男子だった。
「まったく朴念仁ねえ、張り合いのない。塞翁さまがお帰りなさってから屋敷の表も中も大騒ぎだっていうのに、流行に乗り遅れちゃうわよ」
「格別乗りたいとも思わん」
頑固な秀圭にほとほと呆れ遥淋が首を振る。
「この頃お屋敷に駕籠の出入りが激しいのは縁談よ。正妻の座を狙ういいとこのお嬢様が肝いりで送り込まれてくるのよ。まだ塞翁さまがおちたって聞かないけどね。面食いなのかしら?」
瞼に昨日蓮池のほとりで会った娘の面影がちらつく。
ひょっとしたら、あの娘も縁談に。
「どうしたの秀圭、しかめっつらしちゃって」
娘の着物や靴は良家の令嬢のもの。年は若いが、塞翁の妻候補として縁談にやってきたのなら辻褄が合う。ならばどうして池のほとりでぼうっとしていた?縁談を抜け出して庭の見物?お見合いにも塞翁にも興味がないのか。
ふいに遥淋が眉間をつつく。
「皺を寄せない。男前がだいなしよ」
「……からかうな」
憮然として遥淋の手を払う。遥淋は活発に笑いつつ言う。
「悩み事?話してみなさい」
「いや……昨日妙なものを見てな。それが心にかかっている」
「妙なものって?」
「胡蝶の化身か睡蓮の精か……生身の存在とは思えん」
遥淋が首を傾げる。秀圭もまた己の心の動きを不思議に思う。
どうしてこんなにもあの娘が気にかかるのだろう。
塞翁の妻になるかもしれない娘が。
「俺は帰るぞ。あとは一人でできるだろう」
「ありがとうね秀圭、またなんかあったらよろしくね。そうだ、使用人頭があんたに頼みたい事があるって言ってたわよ」
「なんだ?」
「使い走りじゃない?いってらっしゃい」
秀圭の肩をトンと叩いて送り出し、桶をもって厨房へ向かう。
「秀圭や、これを町の仕立て屋に届けとくれ。塞翁様ご所望の品だ、くれぐれも丁重にな」
言伝られた用件は使い走りだった。遥淋の勘はよく当たる。
「承りました」
快く請け負い、丸めた反物を肩に担ぐ。
はるばる都から取り寄せたというその反物はなるほど素晴らしい光沢の生地で、愛人に貢ぐのではないか、恋人に贈るのではないかと若い女中たちが色めきだって噂する。
庭を突っ切って門へ向かう道すがら、昨日の不思議な出会いをふと思い出し、橋の付近で歩調をおとす。
「な」
既視感。
絶句。
昨日とほぼ同じ場所に同じ物が落ちていた。
金糸で蝶を刺繍した赤い靴。
先端は尖り踵は高く、靴本来の用途を大きく逸れた装飾を施されている。
「またか?」
足を守るという本来の目的から逸脱し、拘束具として機能する靴。
どうしてここに。昨日届けたはずなのに。あの娘が来てるのか。
あそこにいるのか?
胸の奥で激しく動悸が打つ。自然と足が急いて池へ向かう。
おつかいと娘と、自覚のないまま優先順位が入れ代わる。
一度目は親切心、二度目は好奇心と使命感、それ以外のなにか。
落とし物は届けねば。綺麗な靴なら尚更だ。
庭に放置された靴を腰を屈め拾い、なかば確信をもって持ち主に会いに行く。
好奇心と義務感の他に忌避に近い感情も働く。
あの娘に会いたくない、関わりたくないと心が尻込みする。
せっかく靴を拾ってやってもつんとして礼ひとつ言わない娘……
いた。
此岸と彼岸を繋ぐ橋の欄干に、緞子の如く照る黒髪をたらし娘が座っている。
娘は瞑想するような表情で水面を見つめていた。魂もたぬ人形のような静けさをまとう。
大股にそちらへ向かう。
「落とし物だぞ嬢や」
返事はない。なかば予期していたが、腹は立つ。
娘は秀圭の接近を知りながら無視し、手慰みに蝶の翅をちぎる。
「お前の耳はザルか、節穴か。俺の忠告は届いてなかったようだな」
娘の態度にむっとしつつ靴を突き出す。
「庭で拾った」
娘が初めて振り向く。しゃらりと髪が揺れ、匂いが立つ。
艶めく流し目で秀圭に一瞥払い、あえかな唇を薄く開いて皓歯を零す。
娘が言葉を発する前に、その足元にぽんと靴を投げる。
「自分で履け。俺は忙しい。わがままに付き合いきれん」
娘がきょとんとする。
秀圭は踵を返す。
落とし物は届けた。義務は遂げ責任は果たした。もう何の関わりもない……
ぽこん。
「!痛っ」
無防備な後頭部に衝撃。
頭をおさえて振り返る。
秀圭の頭にあたったのは彼自ら届けた靴。娘が振袖をたぐって投げたのだ。
「~一体……」
娘が顎をしゃくる。履かせろの合図。
怒りが沸き立つ。欄干にもたせた体を反転、裾を膝まで捲り上げすらりとした素足をさらす。
かまってられるか。
よほど無視して行きかけたが、じっとこちらを見つめる娘の瞳に胸が騒ぎ、不承不承靴を拾って歩み寄る。
「行ってほしくないなら口で言え」
すん、と息の音。憤慨した様子。
娘の前に片膝つき、窄まった足に靴を嵌めていく。
娘はされるがまま大人しくしていた。
下賎な使用人が高貴な身に触れても抵抗は感じないのか、危害を加えないと信頼しきってるのか。鳥の囀りが遠く近く響き、穏やかな時が流れる。衣擦れの音さえ優雅だ。
何度見ても憐憫の情を催す。
自然に逆らい人工的に曲げられた指、後天的に歪められた足。
矯正の建前を借りた肉体改造。
よくこんな足で出歩けるものだと感心する。
「見た目に似合わずお転婆だな」
いたわる手つきで足を抱き、指ひとつひとつをつまんでくすぐる。
秀圭の言葉を正しく理解したのか、娘は愉快げに笑う。
すん、すん、すん。声を伴わぬ息の音だけの笑い。
「……口がきけないのか」
どうしてすぐ気付かなかったのか。
そう考えれば辻褄が合う、不自然な態度も筋が通る。
話さなかったんじゃない、話せなかったのだ。
聾唖か。いや、こちらの言葉はちゃんと理解している。
娘は哀しげに目を伏せ、首に巻いた布にそっと触れる。
声を喪失した纏足の娘に罪悪感の裏返しの同情が湧く。
「すまん、誤解していた。あんたがわざと話さないのかと勘ぐって……俺を無視してるのかと……大人げなかった」
しどろもどろ謝罪する。
けっして躾がなってないわけでも澄ましてるわけでもない。
大胆に裾を捲り上げたのは娘に許された数少ない意思表示の方法、要望を伝える数少ない手段。
『行ってほしくないなら口で言え』
今さっきの失言を後悔する。
自分を責めて俯く秀圭の頬を髪がくすぐる。娘がおもむろに顔を近づけ、大きく口を開ける。
真似しろというのか。
つられて口を開けるやすかさずなにかをつっこまれる。
「!ごほっ、がほっ」
喉の奥までつきこまれた指にえづく。
激しく咳き込む口の中のものを唾と一緒に吐き出せば、娘が手を叩いて笑い転げる。
「う………なんだ」
喉の奥がいがらっぽい。吐き出したものを見てぎょっとする。
蝶の翅。
「蝶を食わせたのか?」
すん、すん。娘は無邪気に笑う。
袖の袂でくりかえし口を拭い唾を吐き、娘の嬌態をにらみつける。
「性悪め……!」
憎憎しげに毒づく秀圭に対し娘はしてやったりと得意げな顔。
大人の女顔負けの媚態を演じたと思いきや次の瞬間にはお転婆な娘へ、万華鏡のようにころころ表情が変わる。
粉っぽい指の後味を反芻し、妙にまごついてしまう。
これ以上ボロをだす前にと立ち去りかけ、裾を引かれたたらを踏む。
「もう気がすんだろう」
口をぱくぱく開け閉め。なにかを伝えようとしている?
立ち止まった秀圭を見上げ、橋にぺたりと座り込み、燐粉を塗した指でもって何かを書きつける。
『胡蝶』
「フーティエ……胡蝶。名前か?」
こくんと頷く。
胡蝶。娘に似合いの美しい名だ。秀圭は気後れしつつ答える。
「俺は秀圭……屋敷の下働きだ。この春から雇われた」
『秀圭』と、娘の名の隣に自分の字を書く。
胡蝶はまじまじとそれを見つめ、両手をぱっと開き、ついで右手の指を四つ折る。
「齢か。お前十四なのか?」
驚く。
十四にしては背が高い。念入りに施された化粧のせいで大人びている。
「俺は二十三だ。お前より九つ上だな」
胡蝶は一言たりとも聞き逃すまじと集中して秀圭の自己紹介に耳を傾ける。
人と出会い知識を吸収するのが楽しいのだろう、好奇心旺盛ぶりが微笑ましい。
初対面の時は近寄りがたく浮世離れして見えたが、今の胡蝶は年相応に無邪気で子供っぽい。
十四と口の中で反芻し、呟く。
「輿入れにはまだ早い……」
考えていた事が口に出た。
頭の片隅にこの娘は塞翁の婚約者候補だという思いが常にあったからだ。
厄介払いか。
口の利けない娘がいたんじゃ体面が悪い、早く嫁に出して追い払おうという魂胆か。
「嬢やは塞翁さまのいいなづけか。お屋敷に滞在してるのか」
首を横に振る。
秀圭は腰を上げ、ぶっきらぼうに言い放つ。
「俺は行く。嬢やも早く屋敷にもどれ、人がさがしにくるまえに」
橋板を軋ませ歩み去ろうとして、胡蝶の様子が気にかかり振り返る。
橋に突っ伏し、振袖の袂を豊かに波打たせ、あたりに散らばった蝶の翅の切片を拾い集めて水面に撒く。
胡蝶の手から放たれた蝶の切り翅ははらはらと虚空を舞い、花弁のように水面を覆う。
蝶を弔う儀式の静謐さが心を奪う。
春風に漣立つ水面が描く神秘的かつ幻想的な模様に魅せられつつ、切り翅を撒く娘の目が放つ鈍い光に惹きつけられる。
まるで蝶を憎んでるようだと思った。
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