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肆話
月が中天に昇る夜、塞翁は腹心の護衛をひとり連れ離れを訪れた。
祝言まで数ヶ月。相手は高級官吏の娘。
気位ばかりが高い醜女だったが、かえってその方が都合がいい。塞翁にしたところで相手の家柄にしか興味はないのだ。
婚約者は塞翁に惚れこんでいる。相手の実家は代々宮廷に大臣を輩出してる文官の名門で、塞翁には渡りに船の縁談だった。
「ここで待て。終わったら呼ぶ」
「御意」
護衛を待たせ閨房へ向かう。
『依存してるのはお前のほうだ、胡蝶なしでは生きられない腑抜けがでかい口を叩くな!!』
秀圭の絶叫が耳にこびりついて離れない。
苦々しげに顔が歪む。
歩みが憤然と早くなる。
あいつになにがわかる。
誰が胡蝶を育てたと思ってる。
親父の種かもわからない妾の子を離れに匿って育てたのは俺だ。
本当なら山に産み捨てられ野たれ死ぬはずだった。
父は不義の子と決めつけ胡蝶を憎んだ。
母は十数年ずっと寝たきり、辛うじて息をするだけのボロ人形と化した。
母は塞翁を溺愛した。
その母が倒れたとき、塞翁は妾を憎んだ。
父を奪っておきながら母まで奪うのか。
妾が継母になるなどごめんだ。穢れた血を入れたら家の品格が落ちる。
下男と逐電した妾の抽斗から薬の包みが見つかった時、慌てふためく侍女の袖の袂からそれを掠め取り、山狩りの準備をし集まった父と使用人の前で舐めてもがき苦しむ芝居をした。
大人たちはころりと騙された。
葉明ただ一人が違うそれは悪阻止めだと叫び続けたが、身内の訴えに耳を貸すものはいなかった。
「当然の報いだ」
後悔は、ない。
罪悪感などとうに蹴散らした。
母は幼い塞翁を膝にのせ日々恨み言を吹き込んだ。
可哀想に塞翁、あの女さえいなければ父上はもどってくるのに、お前と遊んでくださるのに……
呪詛は魂を蝕む毒と化し根づき、母が倒れるとともに全身の毛穴から瘴気となって吹き出した。
妾の落とし子など憎んでも憎み足りない。
腹違いの弟だろうがそうでなかろうが、
「胡蝶と名づけたのは俺だ。お前は俺のものだ。誰にも渡さない」
胡蝶は美しく育った。
塞翁の初恋は麗蓮だった。
胡蝶の中に生きる初恋の人の面影が、妄執の正体か。
下男との逢瀬を見た塞翁を手招き、旦那さまには内緒よと飴玉をくれた女に、子供心に淡い憧憬を抱いた。
「あいつは取り澄ましたうわべしか見てない、俺はお前のすべてを知ってる、お前の中がどんなに熱いか知り尽くしてる。名付け親は俺だ、女の名を与え女として育てた、そうすれば出て行かないだろう、ずっと一緒にいてくれるだろう……」
胡蝶は麗蓮の身代わりか。
それとも俺は、胡蝶がもつ毒にやられてしまったのか。
閨房に入る。
寝台の上に背を向け粛と座す胡蝶。
貞淑な花嫁の如く繻子の面紗をたらし俯く。
「面白い趣向だな。祝言の真似事か」
自分の声がひどく優しくなるのがわかる。
「祝言を上げると聞いてやっかんでるのか」
猫なで声で囁く。
「お前が望むなら二人きりで祝言を上げよう。妻になど興味はない、お前さえいればそれでいい。お前の蜜壷は甘い。いくら子種を注いでも孕まぬ体、永遠の処女だ。母親とは違う。言う事を聞けば可愛がってやる、綺麗な着物も靴も好きなだけ与えてやる、だから」
寝台がぎしりと軋む。片膝乗り上げて胡蝶を抱く。
「……蜜のように甘いその毒を飲ませてくれ……」
胡蝶の体が強張る。
自分の挙動ひとつひとつに怯えてしまう臆病さをたまらなく愛しく思う。
肩を掴む手に力をこめ、ゆっくりと振り向かせ、両手の甲で繻子の面紗を持ち上げる。
「お生憎様、若様」
現れたのは似ても似つかぬ顔。
日焼けした肌にあばたが目立つ、勝気そうな娘の顔。
愕然とする塞翁に凛と背筋を伸ばして向き直り、繻子を取り払った遥淋は笑う。
「坊ちゃんはもっといい男を見つけたみたいよ」
足裏で小枝が乾いた音たてへし折れる。
鬱蒼と木々が茂る道なき道を歩く。背中から伝うぬくもりと重みが腰に鞭打つ。遠くから喧騒が届く。
「来たか」
苔が生えた岩は滑りやすく、迂闊に足を乗せようものなら転んでしまう。
一寸先もみえぬ山を月明かりだけを頼りに進む。
「秀圭……」
「心配するな」
背にしがみつく胡蝶が不安げに呟く。その足はだらりと宙に垂れ、秀圭の歩みにあわせて揺れる。
遥淋の背格好は胡蝶によく似ていた。
夜を待って牢抜けし、寝所で塞翁を迎える支度をしていた胡蝶を遥淋を替え玉に仕立てかどわかした。
詮議に問われるのも省みず手引きしてくれた遥淋に感謝の念を抱く。
「山を越えれば違う里だ、さらにその先は違う州だ。そこまで逃げれば追ってこない」
裏山に逃げ込んでからこっち、無理が祟って胸がひどく疼く。
折れた肋骨が訴える激痛にもまして、肩に縋り付く手の震えと心細げな声とが身にこたえる。
「おろして。自分で歩く」
「嬢やは大人しくおぶわれてろ」
「嬢やじゃないってば」
「坊ずはわがまま言うな」
「そっちこそやせ我慢しちゃって、怪我してるじゃないか。汗だってすごいよ」
「俺は平気だ。水桶を運びなれてる」
「僕は水桶より重い」
「あまり変わらん」
「嘘」
「重いのは着物だ。身は少ししかない」
言い争いながら奥へ奥へと歩む。天に輝く月の光も木々に遮られ届かず、墨汁を垂れ流したような闇が茫漠と広がる。
全身が痛い。しかし歩みは止めない。立ち止まればそこで命運が尽きる。
「秀圭………」
首のうしろに熱い涙がしみる。
「ごめん」
「俺はお前の足だ。足に謝る奴があるか」
「もう十分だよ、帰ろう。帰って謝ろう。一緒に謝るから、兄上に」
「謝る相手がちがうだろう」
ずりおちた体を背負いなおす。腕にのしかかる重みに安心感を覚える。
怪我と疲労とで荒げた息のはざまから途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「謝るならお前が殺した蝶に。あとはだれにも謝るな。お前が生まれてきたことも、生きてることも、なにひとつ罪じゃない」
「秀圭と出あったことも?」
「ああ」
「恋したことも?」
「無論」
「恋しあったことも?」
「あたりまえだ」
一歩一歩、足を運ぶごとに体力が削り取られていく。地に足が沈むような脱力感。
胡蝶は声を立てず啜り泣く。
すん、すん。忍び笑いに似た嗚咽。秀圭の首ったまにかじりつき、消え入りそうな声で呟く。
「ありがとう」
そして、飛ぶ。
「!!胡蝶っ、」
秀圭の首から手を放し、下生えに覆われた急斜面に身を投げる。木々の枝がへし折れる音が連続、泥と朽ち葉にまみれた四肢と黒髪が旋回。すかさず胡蝶を追って斜面を滑りおりる。
摩擦で足裏が擦り剥ける痛みを無視、気絶した胡蝶の頬を叩いて目を覚まさせる。
虚ろな目の焦点が定まり、秀圭の顔をとらえるなり絶望と希望が綯い交ぜとなった泣き笑いを浮かべる。
「馬鹿っ、ひらりと跳ぶやつがあるか!」
「僕、軽いから。ひょっとしたら飛べるんじゃないかと思って。この着物もさ、蝶みたいでしょ」
鋭利な枝にひっかけた着物はところどころが裂けて泥だらけの素肌が覗く。転げ落ちる途中に脱げたか、片方素足だ。
「………もういい、秀圭」
「よくない」
「いいんだ」
「よくない」
「お前は一人で逃げろ。僕はここにいる。運がよければ追っ手が見つけてくれる」
「外の世界を見たくないのか」
「………い………」
「はっきりしろ!」
大喝を放つ秀圭の胸ぐらをぐっと掴み、喉も張り裂けよと全霊の絶叫を絞る。
「お前をみちづれにしてまで見たくない!!」
涙をためたその瞳を、おどろに乱れた黒髪が縁取るその顔を見た瞬間、理性が蒸発。
肩を掴み押し倒し唇を奪う。
出会ったときとはまるで違う。着物は汚れきり髪はざんばら、涙で化粧は剥げ落ちて酷い有り様だ。
「―おまっ、え、こそ馬鹿だ、僕の戯言を真に受けて仕事を棒に振った、僕はお前を利用したんだぞ、母上と同じだ、お前を誑かして足の代わりにした、僕をさらって逃げてくれるならだれだってよかったんだ!」
「そんなのはとっくにわかってた!!」
どうしたことだろう。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの醜い顔を、橋の上で蝶をちぎっていた人形めいた無表情より、ずっとずっと愛しく感じる。
「何故靴を落とした?気付いてもらったからだろう?助けを求めていたんだろう」
「僕は」
「靴を落としたのはわざとか。塞翁におぶわれながら庭に靴を落とした、誰かに拾われるのを期待して、見つけてくれると願って」
おそらく胡蝶にできる精一杯の反抗だったのだろう。
助けを求める唯一の手段だったのだろう。
「庭におちた靴なんて誰も気にしない、面倒だから放っておく、そうしない馬鹿が一人だけいた……」
靴をぶらさげ庭中歩き回って、蓮池に架かる橋の上に胡蝶を見つけた。
「だれも来なかったら諦めるつもりだったのに……!」
だれか気付いて。
僕のところへやってきて。
見つけだして。
屋敷でただ一人纏足を施された人物のもとへと靴は拾いぬしを誘い、そうして秀圭と胡蝶は出会った。
「いちかばちかの賭けだった、運命なんて糞くらえだ、そんなもの絶対信じない、僕が生まれ持った性別さえ否定し続けた運命なんて信じるもんか!そうさ、兄上の隙を見計らってこっそり靴を落とした、事情を知らない使用人が拾ってやってくれば兄上の悪事を訴え出れる、僕を助け出してと乞える!兄上の読みは当たってる、僕を助けだしてくれるならお礼に抱かしてやったってよかったんだ!」
『お前は僕のお気に入りだった』
『触り方が変にいやらしくないのも気に入った』
切れ長の目尻からあふれた涙がこめかみを滴り落ちる。
「みなが見るのは蝶々の翅ばかり。醜い毛虫には目を背ける」
翅をむしられた蝶に価値はあるのか。
本質が醜い毛虫でも好いてくれるのか。
「……お前が…こんな足に、すごく優しくさわるから……ホントは気持ち悪いはずのものが、キレイに清められた気がして……こんな足の僕でも生きてていいんだって……」
脆く壊れやすい蝶の翅にふれるように、なえた足にふれた。
「キレイな翅みたいに」
兄上以外にこの足にふれてくれる人なんていないと思った。
翅じゃない部分を慈しみ愛してくれるひとなんて、いないと諦めていた。
「この足は僕だ。兄上に虐げられ、萎えて枯れて縮かんだ僕そのものだ」
胡蝶の言葉に応じ、秀圭は体の位置をずらし足にくちづける。
足の指ひとつひとつに唇の火照りが移り、胡蝶がじれったげに唇を噛む。
「どうして池に身を投げた」
「―っ、靴が……閨房の前におちてた……お前に見られたって、兄上との、見られたって、それで」
足を捧げもつ。
親指を口に含む。
一本一本丹念に吸い上げる。
土踏まずの反りをなで、踵の丸みを包み、指の股に舌を潜らせ絡め泥を啜る。
「お前に軽蔑されたら生きていけない……!」
足の指がひくつく。
親指がぴんと張り詰め撓い、鉤字の手指が土をひっかく。
足への刺激だけで達してしまいそうな胡蝶の前で下穿きをずらし、勃起した男根を露出する。
「来て、秀圭。中に入れて。刺し貫いて」
胡蝶が男根に手を添え自ら体内へと導く。潤う媚肉が収縮し、男根をきつく咥えこむ。
ひとつになりたい情熱に突き動かされ腰を使う、唇を貪り合う、燐粉で黄色く変色した手がしっとり汗ばむ肌を這うごと指形がつく、肉壷に抜き差し陰茎が卑猥な水音をたてる、はしたなく上がる足を掴んで吊るす。
「愛してる、胡蝶」
「僕も」
胡蝶が笑う。
秀圭も笑う。
追っ手がかざす松明の火影が燎原の如く麓一帯を覆い、想いを遂げた秀圭と胡蝶は強く手を絡め合い、地のはてまでも添い遂げようと誓った。
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