伍話

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伍話

 それからどうなったかって?  そりゃあ、ね。話すだけ野暮ってもんよ。……どうしても聞きたいって?しかたないわねえ、じゃあ話してあげるわ。  翌日になってもふたりは見つからなかった。  山狩りの先頭に立つのは若様。さすがに憔悴してたっけ。  目なんかぎらぎら血走っちゃって、ああいうのを狂相っていうのかしらね。  必死の捜索にも関わらず二人の行方は杳として知れなかった。  そこに第一報が入った。  女物の靴が池に浮かんでるって。  山狩りに駆りだされた使用人の中にはお嬢様の存在自体初耳のものも大勢いたわ。そりゃそうよね、ずっと隠して育てられてたんだもの。いきなりこれこれこういう背格好の娘が下男と逃げてますなんて言われても困っちゃうわ。  若様は血相変えてとびだしていった。  その池は山奥にあってね、すごく綺麗な池だった。そしてたぶん、すごく深かった。  睡蓮が咲く池の真ん中あたりにぽつんと靴が浮かんでいた。金糸で蝶々を刺繍した華奢な靴。  それを見た途端、若様の顔色が変わった。虚脱した、っていえばいいのかしら。すとんと膝をついたかと思いきや、獣みたいに魂切る咆哮をあげてね。使用人たちが止めるのも振り切って池の中へ入っていった。もちろん慌てて取り押さえたわ、後追いでもされたら困るもの。  胡蝶、胡蝶、胡蝶ってお嬢様の名前を呼びながら。  どこを見てるかわからない虚ろな目で、うわ言にしか聞こえなかったけど。  池をあさっても亡骸は見つからなかった。まあ、見つからなくてよかったかもね。  醜く膨れ上がった溺死体なんか見ちゃったら首をくくりかねないわ、あの取り乱しようじゃあね。  秀圭と胡蝶は死んだ。心中よ。逃げ切れないと思い余って、山奥の美しい蓮池に身を投じたの。  私もあとで知ったけど、くしくもその池は胡蝶様の母上と下男が首を吊った場所のすぐ近くだった。  運命って残酷ねえ。  でもね、最期の瞬間までふたりは幸せだったと思うわ。約束どおり添い遂げたんだもの。秀圭はけっして胡蝶様をひとりで死なせなかったでしょうし、胡蝶様はけっして秀圭の手を離さなかった、そんな気がするの。  蝶々の水葬。  軽い翅は浮き上がり、結んだ絆は深く沈む。  ね。ふたりとも浮き上がってこなかったわけもわかるでしょ。  それからの事を少し話しましょうか。  胡蝶さまに先立たれ、若様は気がふれてしまった。  ふたりを追い詰めた罪悪感に苛まれ……なんて殊勝なもんじゃないわ。  身勝手なひとだから、ただただ最愛の蝶々をなくした喪失感に耐えがたかったのよ。  秀圭の言葉は正しかった。依存していたのは若様のほうだった。  跡取りとしての重責や周囲の期待に押し潰されかけた若様を支えていたのは胡蝶様だったのね、皮肉にも。  鬱憤の捌け口にしていた胡蝶様が亡くなって、若様の精神の均衡は崩れた。  縁談は破談。  奥様はぽっくり逝き、旦那さまが後を追うようにして他界して、李家もすっかり廃れちゃったわ。  今じゃ使用人は往時の半分。ご自慢の庭は蝶々の遊び場よ。  なあに、葉明婆さん。若様がお呼び?はいはい、今行くわ、ちょっと待っててね。  ……ほら、声が聞こえるでしょ。胡蝶、胡蝶って。  私を呼んでるの。お嬢様と間違えてね。  背格好が似てるからかしら。たしかに一度化けたけどね、容貌は天と地の差だってのに……せいぜい睡蓮と胡桃くらいだって?いやあね、おだてたってなにもでないわよ。というか変なたとえね。  若様がああなっちゃった原因の一部は私にある。  若様が正気にもどるまで……いいえ、若様が死ぬまでお嬢様になりきるつもり。纏足は、ね、いまさら無理だけど。  玉の輿の野望が叶っちゃったわ。  冗談だったのにねえ。人生ってどこでどう転ぶかわからないからふしぎよね。  はいはい、いま行きますよ。胡蝶はここにおりますよ。  ところで行商人さん、何を見せてくれるの?  あら、素敵な着物ね!特にこの蝶の刺繍が見事。私にはちょっと派手だけど……  ………なんだか見覚えある柄ね。どこで手に入れたの?  そう、隣の州で……  …………思い出した。木の枝にひっかかってた着物の切れ端とよく似てる……  誰から買ったの?  ……そう、若い男。ぜひ買ってくれって頼まれたの?  十四、五の裸足の少年をおぶってた?  でもね、まさかそんな……特徴を聞かせてくれる?……ああ、じゃあちがうわ。  胡蝶様の髪は長かった。その子はざっくり短かった。小汚い身なりで靴も履いてないなんて。  どっからどう見ても少年だった?  可愛い顔はしてたけど、ちゃんと喉仏はあった?  男の特徴は……堅物?朴念仁?年の離れた兄弟に見えたって?あはは!  すこぶる仲がよさそうだった。少年が耳元でなにか囁けば男が笑う。お互い頬をくっつけあってくすくす笑った。  どうして靴を履いてないか聞いたの?  で、答えは?  『もう必要ないですから』  『その靴、きゅうくつなんだ』  ………ふうん。変わった兄弟ね。   着物?いらないわ。ほら、よく見て、ここんとこ破けてるでしょ?繕ったら着れるでしょうけどねえ……傷を抉りたくないもの。  じゃあね、行商人さん。若様が待ってらっしゃるからそろそろ行かなくちゃ。  え?あはは、人違いよ!「お嬢様」は死んだの。  最後に行商人が見た光景を話そう。   別れ際、行商人に一礼して踵を返そうとした男の肩を不満顔の少年が叩く。  男は憮然と首を振るも、少年はなおも食い下がり、平手でやや加減して胸を叩く。  男が根負けして折れる。  男の背中から降り立つやよろけ、慌てて男がさしだした手を払い、ねじれた足でひょこつきながら歩き出す。  寄り添い歩く男と少年の手が自然に絡み合い、はにかみがちな微笑みを交わしあって帰途につくその後を、つがいの蝶々がひらひら追いかけていく。    いま漸く蝶々は自分の翅で飛び始めた。
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