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邂逅
肝試しにでかけたのは新月の晩だった。
「弱虫泣き虫春虎やあい」
「弱虫じゃないよ、一人で厠にだって行ける」
「嘘こけ、こないだ厠に行こうとして我慢できず漏らしちまったくせに」
「あ、あれは仕方なく……」
「怖がり泣き虫春虎め、寄るなさわるな臆病が伝染る」
「なよなよくねくねべそっかき、女みてえに科つくる」
「色も生っ白いし痩せっぽちだし、目ばっかでかくて女みてえ」
「お前みてえなのを女が腐ったようなやつって言うんだな」
「遊郭に引き取ってもらったほうが稼げたんじゃねえか」
「ばかにするな、僕は怖がりなんかじゃない!」
「じゃあ証明してみろ」
「証明?」
「屋敷の裏藪に古い古い廟がある」
「当主さまのご先祖が昔々悪いものを封じ込めた場所だ」
「絶対近寄っちゃいけないって言われてる……?」
「そこに夜ひとりで行って廟に蝋燭をおいてこい」
「いやだ、できない!」
「ほら見ろ、やっぱり口だけじゃないか!春虎は怖がり泣き虫臆病者だ、こんなやつが俺たちの仲間だなんて恥ずかしい!」
「もし本当に魔物がでたら……」
「言い訳か?かっこ悪ー」
「弱虫じゃねえって証明したいなら今晩蝋燭もって一人で行って来い、そうすりゃ一人前だって認めてやるよ」
「弱虫泣き虫春虎を仲間に入れてやる」
屋敷の裏手の藪、そこに存在する廃廟に蝋燭を灯してくる。
言葉にすればたったそれだけ、言うは易し行うは難し。
出立間もないというのに春虎の顔はすっかり青ざめている。
勇敢さを示す行為と口々にけしかけた朋輩も、本心では春虎が怯える様を見たがってるだけだ。
下劣な企みがわかっているからこそ、見返してやりたい。
見事肝試しをやり遂げて帰還してやる。
闇には魔物が巣食う故、夜はみだりに出歩いてはならぬ。
新月の晩はとくに陰気が高まり、人ならざるものどもの動きが盛んになる。
蝋燭が儚く揺れ、薄紙に陰影の濃淡を投じる。
「この家の………だ……」
「?」
空耳かと疑う。
風の音に紛れて途切れ途切れに届く声は醜悪にひび割れて、陰惨な響きを帯びていた。
冥府の底から沸き出ずるかのような陰々滅々とした呪詛。
かそけき揺れる蝋燭の炎を前に、おそるおそる回廊をそれ、剥き出しの地面を踏む。
風の音に紛れたあやしの声は屋敷の裏手に生い茂る藪から聞こえてきた。
僕は臆病者なんかじゃない。
自分に言い聞かせさらに一歩、もう一歩。
話し手の正体をこの目で見極めてやる。
朋輩らの野次を思い返し、鬱勃と闘志が湧く。
春虎だって男だ。
弱虫、臆病者と蔑まれるのがわかっていながらおめおめ引き下がれない。
大丈夫、物陰からそっとうかがうだけだ。
大丈夫、ばれるはずない……
こみ上げる恐怖と怯惰を押し殺し、虚勢で顔を引き締め、裏手に回る。
風の生臭ささが一層増す。
瘴気を孕む風が春虎に頬をなぶり髪にじゃれ、渦を巻いて去っていく。
「この家のあるじはけしからん」
「代替わりしてからワシらへの供物も蔑ろになって」
「業腹だねえ。祟ってやろうかねえ」
「悪い風を起こして屋根を吹っ飛ばしてやろうか」
話し手は人ではなさそうだ。
どうやら春虎が仕える主の人となりを愚痴っているらしい。
さもありなん春虎が仕える商家は代々続く由緒ある家柄だが、当代の主人は跡取り娘に見初められた成り上がりの俗物にすぎず、現世利益を追求するあまり、祭事を軽んじる傾向があった。
当代の主人に代わってから敷地の祠は管理が疎かになり寂れる一方、近在の民の信心は廃れる一方。
それ故加護が衰え、土地に封じられた悪しきものたちが胎動を始めてもおかしくはない。
妄想逞しく春虎は震え上がった。
拮抗する陰陽の気のうち片方に傾けば均衡が崩れ、亀裂からよくないものが噴き出すのは世のことわり。
春虎の気も知らずひそひそ声は続ける。
「奴奴さんも外へ出たがってる」
「だろうなあ、百年たつもんなあ」
奴さん?
「埃臭えあばら家に閉じ込められて、さぞかし腹あ立ててるだろうさ」
「自業自得だろう、ちょいとばかし悪さのしすぎだ」
「けども人の手え借りねえとさすがに破れんだろう」
「結界が……」
結界。
裏藪に結界らしい建物といえば、消去法で廟しか思い浮かばない。
「…………!」
冗談じゃない。
むざむざ廟に行ったら飛んで火にいる夏の虫だ。
混乱を来たし、とにかく屋敷のほうへ戻ろうと手探りで歩みだす。
破邪符など持ってない、魔を追い払う力などない、春虎は無力で無知な子供で地面に転んだところを襲われればひとたまりもなく獲って食われるのがおちだ……
逃げる最中に転ぶ、即座に立ち上がり一目散に駆け出す、肘振り足蹴り出し頭を屈めひた走る、もう肝試しなんてどうでもいいのこのこ来たのが間違いだった屋敷に帰りたい、虱の沸いた布団が恋しい朋輩の鼾がうるさい相部屋に帰りたい一念で懸命に突っ走る……
「!!あっ、」
斜めに視界が傾ぐ。
帰りたいと気がせくあまり注意がおろそかになり同じ蹴っ躓く、地面を滑って肘を擦り剥く、黴臭く湿った土の匂いが鼻腔にもぐりこむ。
手をすり抜けた蝋燭を慌てて掴む。
奇跡的に消えてない。
蝋燭を取り戻し、袖を汚す土を払って立ち上がった春虎は、眼前を塞ぐ威容に息を呑む。
廃墟の廟があった。
おそらく、朋輩たちが言っていた場所だ。
意匠を凝らした梁や柱も今はすっかり塗料が落魄し、風雨に晒されるがまま骨格はささくれ老朽化し、古色蒼然と神威の枯れ果てた外観を呈す。
帰りたい。
否、ここまで来たのだ。
弱気と勝気がせめぎあい、葛藤していると生臭い風が吹き、心許なく蝋燭が揺れる。
唯一の光源を失ってはなるまいと、春虎は何も考えず廟に踏み込んだ。
辛うじて雨風を凌ぐ屋根と壁がある分、外にいるよりは蝋燭が長持ちする。真っ暗闇の中、藪を抜けて屋敷に帰る心細さを思えば、目の前の廟に飛び込む方がマシだった。
瘴気、または邪気と名付けてもいいような不浄凝る廟の奥へ、蝋燭を翳しおそるおそる進んでいく。
「怖くなんかない……怖くなんか……」
笑われっぱなしでいいのか、春虎。
見返したくないのか。
くじけそうな心を鼓舞し、湿気を吸って膨張した床を体重で撓ませ、忍び足で奥へと進む。
内部は荒廃した伽藍だった。
朽ちた床板には埃が積もり、柱の間に蜘蛛の巣が張っている。
もう何十年と人が詣でた痕跡のない、空虚な堂だ。
軋む床を爪先で探り、何本の柱を経て梁をくぐり、遂に嘗て祈祷が行われていた奥の間に到達。
「蝋燭を置いておしまいだ……」
安堵は油断に繋がる。
その一瞬、無防備にも笑みを浮かべ蝋燭を掲げた春虎は、壇の後ろの掛け軸に気付く。
「!!ひィあぁあっ、」
口から迸る絶叫。
蝋燭の火がふっと消え、視界に帳が落ちる。
祈祷壇の後ろに掲げられた一枚の掛け軸。
そこに描かれていたのは世にも恐ろしく醜悪な異形の姿。
どう表現すればいいのか。
ろくろく読み書きもできぬ無学で幼い春虎は自分が見たものを正確に言葉にする術を持たない。
ただひたすらに醜悪、ただひたすらに邪悪、ただひたすらに……
掛け軸に描かれた異形の者は本来目がない場所に目を持ち、鼻がない場所に鼻を持ち、その面相は絶対悪の権化の如く筆舌尽くしがたく怪奇千万。
昼の光の中で正視すれば気死しかねぬ禍々しさに充ち満ちて、およそ正常な神経の持ち主ならば戦慄を禁じ得ない。
たかが絵、されど絵。
廃廟に飾られた絵に驚倒した春虎は、蝋燭が消えた事によって完全に動転し、おまけに腰が抜け、出口を求めて床を這いずる。
文字通り、暗中模索の堂々巡り。
「ひっ、ひっ、ひ……ごめんなさい、罰当たりでした、もうしません、廟を荒らしてごめんなさい……」
「いーや、許せねえな」
「!」
凄まじい勢いで顔を上げる。
廟内に殷々と何者かの声が響く。
「罰としてガキ、俺を逃がす手伝いをしろ」
「だれですか?」
「誰だって?しゃらくせえ!」
酒場でくだ巻く無頼漢さながら伝法な啖呵を切り、けらけら笑いのめす。
そこらじゅうで物音が立ち、柱と床板がみしりと軋む。
「ば、化け物……」
「おうとも、化け物だ!」
あちこちを殴り付けて回る音がやみ、春虎の鼻先に渦を巻いて埃が乱舞。
「おもての雑魚どもが言ってたろ?いくら血の巡りの鈍いガキだって危険な場所には危険なもんがいるって察しがつくだろ」
「廟に閉じ込められてるっていう……」
「鬼神ちゃんだ」
あっけらかんと宣言。
竜巻を纏った何者かはすこぶる上機嫌に続ける。
「陰気が高まる新月の晩、復活にゃお誂え向きだ。百年かかってようやっとここまで力を取り戻した、が、限界だ!だめ、むり、お手上げ、降参!おいガキ、そこに貼ってある札が見えんだろ?」
目を瞑りたい衝動に抗い、やっとの思いで眼球から瞼をひっぺがし、示された方角を向く。
「アイツをとれ」
「できません」
即答。
鬼神は激怒する。
鈍い音が連続し衝撃波が炸裂、天井床壁に自暴自棄の無軌道さで力の塊が衝突して撓む、癇癪の暴発に両耳を塞ぎしゃがみこむ。
「できませんってな何だクソガキ、俺は百年もおんぼろ廟でひとが通りかかンの待ってたんだぞ、数十年ぶりにやってきた人間だ、うんと言うまで返すもんか!」
「だ……だって、悪いものなんでしょ。さっき他の魔物たちが言ってた、悪さのしすぎで封印されたって……解き放てば悪さを働く、お屋敷の人たちを困らせる、旦那様に仕返しする!」
「はッ、俺あそんな度量の小せえ男じゃねえぜ!だいいちとっくに代替わりしてんだろうが、俺を廟にぶちこんだヤツは憎いが子孫にまで恨みはねえ」
「駄目、だめです!悪いことしたから百年も閉じ込められてるんだろ、人を祟って死なせて作物枯らして……悪い病をまきちらして……お前は悪い魔物だ、外にでちゃいけないんだ、永遠にここにいろ!」
コイツを解き放てばたくさんの人が不幸になる。
ありったけの勇気を振り絞って怒鳴れば、唐突に騒音が病んで廟に静寂が戻る。
しばらくして聞こえてきたのは、しおらしい嗚咽。
春虎は大いに当惑。
「………泣いてるの?」
どうして?
凄い力をもってる、凄い悪い魔物なのに。
「悔い改めてやり直そうとしてる俺様を黴くせえ、埃っぽい、こんな廃屋に永遠に縛り付けようってか。人間はくせに血も涙もねえ」
「あの」
「ド外道当主め、いっそ殺しゃよかったんだ、これじゃ生殺しだ。じめじめ薄暗い闇ン中に閉じ込められて話し相手もねえ、百年前は自由に空を飛び回ってた俺様が今じゃこのザマ、床下のネズミにだってシカトされる始末」
よよと泣き崩れる。
まるで自分が泣かせてしまったみたいなバツの悪さ。
「誰も彼もが悪党って決め付ける、改心したって訴えても信じてくれねえ」
「改心したの……?」
「百年も廟にぶちこまれたんだぜ、いやでも改心するさ!今じゃこのとおりすっかり心を入れ替えて……そうだ、取り引きしようや」
名案を閃いたと嬉々として。
「身なりから察するにお前、下働きだろ。毎日毎日牛馬みてえにこき使われてんだろ。封印解いてくれたら家来になって恩返ししてやる。貢献するぜ俺さまは」
「信じられない……改心したって証拠を見せてよ」
「経でも唱えりゃいいのか?」
「僕一人じゃ決められない……旦那様に相談しないと」
春虎のすぐ後ろで轟音が炸裂。
反射的に凍り付く。
「わっかんねえかなあ、ンなことしたら丸損だ。お前の家来になってやるって言ってんだぜ?旦那様なんぞ担ぎ出したらせっかくのうまい話がパアだぜ?千載一遇の好機を棒に振るのか」
鼓膜をざらり舐め上げる声のいやらしさに鳥肌が広がる。
「俺が付いてりゃ百人力だ、どんな辛え仕事だって一瞬で終わらしてやる、人間どもが崇め奉る鬼神サマだからな」
「でも……」
「煮えきらねえ奴だなあ」
舌打ちの後ははぁんとひとり合点。
「こんな夜更けにガキが廟に迷い込むとは面妖だとおもっていたが、なるほどね、朋輩にいじめられたんだな」
「なんでわかるの!?」
「そのべそべそした性格みてりゃわかるさ。大方みそっかす扱いで相手にされてないんだろ、朋輩を見返したくて出かけたはいいがすっかりぶるっちまって……足腰震えてるぜ、ざまあねえな」
「うるさい!」
「臆病者」
「ちがう!」
鬼神は飄げて哄笑する。
どこからか巻き起こる哄笑に被せて暴風が荒れ狂い、掛け軸の裾が激しくはためく。
「運命を変えたくねえか、ガキ」
燭台が倒れて床を叩く。
「飼い殺しの一生はやだろ。俺と組めば脱け出せる、成り上がりの布石を打てる」
万一死んだからとて、春虎の死を嘆き弔ってくれる人間などいない。
春虎に親はなく兄弟もない。
天涯孤独の孤児である。
物心付いた時から親戚中を転々とし、売り飛ばされた屋敷ではこき使われて、老いて死ぬまでずっとそんな毎日が続くというなら
どんなに強く激しく風が吹いても封印の札は外れない。
おそらく、人の手でしか剥がせない仕組みだ。
「お前の願いを叶えてやる」
野望?
そんなものありはしない、春虎は己の分をわきまえている、一生を下働きとして終えるならそれでいい
だけど
嗚呼、だけど
「封印をといたらっ……」
急を告げる風に抗い、叫ぶ。
「封印をといたら、外に出たら、一緒にいてくれますか!?」
自ら口走った台詞に驚く。
ばかげてる、相手は鬼神だ、人間じゃない。
遠い昔に悪さを働いて廟に封じ込められた化け物、わかっているが人恋しさに負ける限界だ耐えられない寂しいんだ僕は、真っ暗い廟にひとりぼっち怖いの我慢してやってきたのは仲間として認めてほしかったから、もし肝試しをやり遂げれば仲間として迎えてくれる、友達ができるとおもったから
それが叶わぬ望みなら
「友達になってくれますか!?」
手を伸ばし札を毟り取る。
その夜、春虎は鬼神と契りを交わした。
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