契約

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 春虎は孤児である。  親は春虎が五歳の時に流行り病で死んだ。  それから親戚中を厄介者扱いされ転々とした挙句、ある裕福な商人の屋敷に貰われたが、そこでもみそっかす扱いで朋輩たちにいじめられていた。     「春虎、こっからあそこまで全部やっとけよ」  年上の楊が底意地悪くにやけ、春虎に箒を押し付ける。  「無茶だよ、一人でできるわけない」   「頑張ればできるさ、なあみんな」  「そうだそうだ」と仲間が唱和し野次をとばす。  春虎は唇を噛んで俯く。  屋敷に住みこみで働き始め春虎は立場が弱く、生来の気の優しさからろくに口答えもできないときて、大変な仕事や損な役目ばかり押し付けられる。  逆らおうものならちびのくせに生意気だと拳を見舞われ、理不尽を耐え忍ぶしかない。  「……わかった」  仕方なく、ため息を吐いて箒を受け取る。  薄情な朋輩らは春虎一人を残し遊びに行ってしまった。  先日擦り剥いた膝が、置き去られた胸の痛みに呼応してずきりと疼く。    『甦らせてくれた礼はする。助けがほしくなったら呼べ、気が向きゃあ行ってやる』  夢とも現とも判じかねる体験だった。  肝試しを中断し、命からがら逃げ戻った春虎は寝ている朋輩を叩き起こして回り、自分がたった今見たこと聞いた事を報告したが、誰一人として真に受けはしなかった。  臆病者の春虎が目を開けながら見た夢だとある者は笑い、小便が染みた春虎の股間を指さし、どうりで臭いと思ったと馬鹿にした。  あれ以来廟には近付いてない。  内心、札を剥がした事実がばれて折檻を受けるのではないか怯えていた。    しかし春虎の予想に反し、屋敷の人間はもとから昼なお暗く、不吉な廟に近付きたがらない。  朋輩たちは皆寝ぼけていたため、動転しきった春虎が口走った「鬼神の封印を解いた」という重大な発言を聞き漏らしていた。    罪悪感と恐怖と不安と。  春虎一人で抱え込むにはあまりに、重い。  しかし、あの鬼神は約束した。困った時、呼べば助けに来ると。  春虎は身の丈に余る箒を持ち、きょろきょろとまわりを見回す。あたりに人けはなく閑散としている。   屋敷の庭は広く、端から端まで掃き清めていたら日が暮れること請け合いだ。  ぎゅっと箒を握り、衣擦れに紛れかき消えそうな声で呟く。  「……ねえ、鬼神」  夢か。  現か。  現ならば答えよと切に念じる。  「いるなら返事して」    いない。  やはり夢か。自分は夢遊していたのか。  あんな恐ろしいこと現実にはなかったんだ。  安堵と失望を同時に抱く。    現れずほっとする一方、心のどこかで出現を祈り、期待していた自分に気付く。  向こうから風に乗り流れてくる朋輩らの歓声。  石蹴り遊びに興じているのか、行ったぞ、そっちと、快活にはしゃぐ声が弾ける。  「……なにやってんだろ」  瞼がじんと熱を帯びる。下を向くと涙がこぼれそうだ。  すん、と鼻を鳴らし箒の穂先で埃を蹴立てれば、ごほごほと苦しげな咳がどこからか。  「!」  振り返る。だれもいない。  突然、風が吹く。  姿なき何者かが春虎の手から箒を奪い取る。  「呼んだか、ガキ」  「……来たんだ」  「のけ者にされたんでべそかいてたのか?」  夜の闇の中で聞く声とは違い、昼の健全な明るさの中で聞く声はいやに闊達に感じられた。  含み笑いでからかわれ、春虎は咄嗟に箒を取り返して叫ぶ。  「塵が目に入ったんだ!」  「自業自得じゃねえか?早く掃きゃいいってもんじゃねえだろ、掃除の極意がわかってねえ。ガキ、お前さては四角いところを丸く掃くたちだろう」  「……やな奴」  春虎はむくれる。  ふくれっつらの春虎をけらけら笑い、藍衣の裾を巻き上げる。  風を孕んで裾がひらめき、貧相な尻を包む下穿きが覗く。  「ひゃっ!」  「色気のねえ尻だなあ」  「悪戯するな!」  裾を押さえて叱責するも、けらけらと太平楽な笑い声に反省の色は全くない。  「現役ン時はどっちがより女の下穿きを吹っ飛ばすか仲間と競争したっけなあ。突風がびゃっと下穿きさらってよ、胡弓みたく甲高え悲鳴を上げた女たちがむっちり肉々しい桃尻まるだしで逃げまくって……あれぞまさに桃源郷、どんな景勝地も凌ぐ極上の眺め。色とりどりに乱舞する下穿きはさながら花吹雪」  「最低」  「生娘みてえな反応だな。首まで真っ赤」  春虎をさんざんからかって満足したらしい鬼神が場を仕切る。  「で、娑婆の空気を満喫してる俺様を呼び付けたわけは。お前さんを仲間はずれにしたいじめっ子どもをちゃちゃっとなます斬りにしてくりゃいいのか?」    「違う!!」  「こえー。冗談だって」  「……ここからあそこまで掃除してほしいんだ。塵一つ残さず」  すっ、と指を上げる。  広大な庭の端から端まで指し示し、春虎は少し意地悪な気持ちになる。  できるもんならやってみろ。  が、声は易々と承る。  「よっしゃ」  呆然とする春虎の前で、手から奪われた箒が右へ左へひとりでに動いて塵を掃き集めていく。    確かに手際はいい。  手際はいいが……    手持ち無沙汰に見守っていた春虎が悪気なく呟く。  「……結構地味だね」  「あァん゛?」  その一言を挑発と受け取った鬼神が、勇み立って実力の片鱗を見せる。  庭一面の塵芥を悉く(ことごと)旋風が吹き払い、濛々と万丈の煙を立てる。  「うわあ!?」  ずるりと下穿きが脱げて未熟な下半身を露出、反射的に両手を重ね前を隠せば、春虎の耳朶をけたたましい哄笑が叩く。   「用事は済んだ。行くぜ」  「待って……」  「漏らした下穿きはもう乾いたか?」    見られていた。  あの夜恐怖の絶頂で失禁したところを目撃してたのだ、こいつは。    満面を羞恥の朱に染め、踏ん捕まえようと手足を振り回す春虎を鮮やかにからかって、笑いは飛び去って行く。  一刻後に帰って来た朋輩たちは隅々まで掃き清められた庭に仰天し、いったいどういう手を使ったんだと春虎を取り囲み質問攻めにしたが、なぜか春虎は箒を抱えムッツリ黙り込み、頑として口を割ろうとしなかった。
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