成就

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成就

 数年後、春虎はお嬢様に婿入りした。  翌年には子供が産まれ、家はますます栄えた。  崖から落ちた反物を回収したのは鬼風の功績だが、帳簿の不備に気付いたのは春虎の聡明さあってこそ。  もとより勤勉な春虎は、お嬢様を嫁に貰い、正式に跡取となってからも決して手は抜かず商いに励み、使用人はそんな春虎を慕い、一丸となって家を盛り立てた。  なにもかも順風満帆だった。  しかし、春虎の胸には常に「彼」の影が巣食っていた。  妻にも子にも人ならざるものへの未練を明かせぬまま、十年がすぎた。  廊下がやけに騒がしい。  「旦那さま、奥様、起きてください!」  「どうしたこんな夜更けに……」  「火事です!」  寿安の報告に一瞬で目が覚める。  「燭台が倒れて屋敷の北東から火がでました、早くお逃げください!」  「火事ですって?」  「子供を抱いて先に行け」  「貴方はどうするの?」  「当主が真っ先に逃げ出すわけにいくか」  寝間着で青ざめる妻を促し、布団で眠り続ける子供たちを叩き起こす。  「どうか無事で」  妻子を信頼できる従者に預けておくりだす。  まだこちらには火が回ってない。妻子は大丈夫だ。  従者に守られ去っていく妻子から寿安に目を転じ、鋭く叫ぶ。  「火元は北東か?」  「は、はい……」  「ならばまだ間に合うな」  皆まで言い終えるのを待たず、寝巻きの裾を翻し駆け出す。  十年の歳月は春虎を商家のあるじとしてふさわしい男に育てた。   「火が回る前に商品を回収しろ!」  「旦那さま、帝から賜った象牙の櫛はどうなさいます!?」  「火が回ってないなら物を、少しでも火が回っていれば人を優先しろ!頭を低くして口をおさえろ、煙は吸うな、昏倒するぞ!」  逃げ惑いがてら指示を仰ぐ使用人たちに的確な采配を振るい、陣頭で指揮して家財を運び出し、いよいよ煙がやってくるや迅速な避難を命じる。  「旦那さまも早く!」  「私はしんがりを守る、お前たちこそ早く行け、使用人も大事な家財だと忘れるんじゃない!」  忠義者の使用人には覿面な言葉だ。  春虎は火の粉が爆ぜて煙が充満する中を疾走し、全ての部屋の扉を開け放ち、使用人が居残ってないか確かめて回る。  使用人を見殺しにして逃げ出す当主など聞いた事がない。  本音を言えば怖かった、先に逃がした妻子の安否が気にかかる、しかし今この家で一番偉いのは自分、家を継いだ婿として果たさねばならない責任がある。  「家を守るのは大切だが、人がいずしてなにが家か!!」    寝巻きの裾をからげて走る春虎の脳裏に教訓が巡る。  『時を遡るってなあ、即ち因果律を捻じ曲げてんだ』  『壊れたもんは元に戻せる、が、死んじまったもんはどうにもなんねえ』  彼がいなくなって十年。  お嬢様と結婚し、子が産まれ、家が栄え、泣き虫弱虫臆病者の春虎を知るものが寿安くらいしかいなくなった今も、彼の教えは魂に根付いている。  煤を被って走り回り、各部屋を点検する春虎のもとへ、性急な足音が馳せ参じる。    「貴方!」  振り返れば妻がいた。  「なぜ戻ってきた!?」  日頃温厚な夫に一喝され、妻は今にも泣き出しそうにくしゃりと顔を崩す。  「部屋に大事なものを忘れたの、初めて会った時に貴方がとってくれた牡丹の簪……」  頼りなげにこちらを見る顔に娘の頃の面影がだぶり、春虎は力強く頷く。  「とってくる」  妻の声を背に再び寝室へ。  箪笥の引き出しを片っ端から開けて中身を漁る、煙を吸い込んでむせながら中身をひっかき回す……  あった。  轟音、振動。  振り返り、目を見開く。  巨大な柱が倒れて出口を塞ぐ。  ここまでか。  既に火は回り煙はすみずみまで浸食している。  出口をふさがれては逃げ場がない。  完全に閉じ込められた。  手のひらの柔肉に食い込むほどキツく握り締めた簪に、青春の日々の思い出が徒然と甦る。  啼き騒ぐカラスの雛。  小枝を編んだ巣に組み込まれた銀の簪。  木から落ちた春虎を抱き上げる強い腕……  春虎は彼を拒絶した。  助けを乞うのは卑怯だ。  化け物だから、醜いから、人殺しだからと、一途に尽くしてくれた彼の存在を全否定した。  目が霞む、熱が喉を焼く、目鼻から入り込んだ煙に激しくむせて床に膝を付く……  「ちょいと拝見」  折からの突風に寝巻きが捲れ、下穿きが覗く。  「!っ、」  狼狽し振り返る。  「紺色か。貧乏臭え、昔と変わってねえ。若旦那になったんだから肌触りのいい絹でしたてりゃいいのに」  「どうして」  信じられない。  誰何する声が震える。  「俺は気紛れだからな、飛んで火に入る迷い風を気取ってみたんだ」  火事場には場違いな飄々とした声。  別れたあの日となにひとつ変わらない。  十年ぶりだ。    「恩返しはとっくに時効だ、お前は自由だ、戻ってこなくてよかったんだ」  「俺の行き先は俺がえらぶ」  「―永遠の別れみたいな前振りしといて卑怯だ、十年ぽっちでまた現れて……」  鬼風  クイフェイ  「俺が言ったこと忘れたのか?お前を化け物って言った」  「本当のことだろ?気にしてねえさ」  轟々と炎が唸る火の海で男と対峙する。  掛け軸の絵から抜け出た異形は、しかし背を向けたまま、一度も振り返らない。  十年ぶりの再会に万感ひとつも言葉にならず、孤高の背を瞼に刻みつける春虎の頭上、轟音と火の粉噴き上げ柱が崩れる。  「!!」  逃げられない。  死を覚悟し固く目をつぶる。  柱の下敷きで圧死の運命を悟った春虎だが、予期した衝撃と痛みはいつまでたっても訪れず、糸のように薄目を開ける。  「……あいかわらずぼんやりだなあ、目え開けながら寝てて商家の主人が務まんのか」   懐かしい憎まれ口。  炎に巻かれた柱から身を挺し、春虎を庇った鬼風。  押し倒された春虎の位置からは、ぬばたまの黒髪を生やす後頭部と、筋金の筋肉が縒り合わさった背中しか見えない。  「とっとと行っちまえ」  「お前はどうする!」  「俺は残る。風と火は鬼門の取り合わせだ。種火なら一吹きで消えるが、この規模で風を送ってもいたずらに煽り広げるだけだ」  実体をとっているということは即ち、鬼風も人とおなじ痛みを感じてるということ。  常人ならば骨が砕ける巨大な柱を背負っているせいで背中一面焼け爛れ、肉の焦げる臭気が鼻の粘膜をさす。  「鬼神なんて呼ばれちゃいるが、実際はしぶてェ魔物さ。ちょっと背中を炙られた位で死にゃしねえ、実体をといて養生すりゃあっというまに治る。お前はそうはいかねえだろ春虎、泣き虫弱虫臆病な若旦那は尻をまくってトンズラこくのがお似合いだ」  『俺は、お前が人として幸せになる道を拓く』  「もう一度、活路を拓く」  焼け爛れた背中には、確固たる決意と信念が宿っていた。  鬼風は危険を承知で春虎を助けに来た。  「おいてけっていうのか」  やっと会えたのに  一柱、二柱と立て続けに柱が倒れかかる。  頭を抱え衝撃に備える春虎を竜巻が包む、春虎を中心に錐揉み螺旋を描く風が飛散する火の粉から彼を守りぬく。  「人と魔物じゃ美醜の基準が異なる」  目に映る光景は壮絶の一言に尽きる。  新たに倒壊した柱が鬼風に襲い掛かるも、それさえ肩で受けて敢然と仁王立ち、皮肉げに笑い飛ばす。  「魔物ン中じゃ男前で通ってるんだが、人から見りゃ化け物以外のなんでもねえって百年前からわかってたさ。誰も彼も出会い頭に悲鳴を上げてぶっ倒れる、すっ飛んでく、心臓の弱え奴に至っちゃ頓死。健康な心臓の持ち主だって俺の面の醜さにゃ耐えらんねえ、ずっと見詰め続けるうちに発狂するか絶命しちまうか。……なにが言いてえかっつぅと」  声がふと和らぐ。  「こんな不細工と友達になってくれた物好きも、友達になろうなんてしゃらくせえ台詞かけたのも、お前が最初で最後だろうってことさ」  廟で最初に出会った時。  友達になってくれと望んだ春虎に対し、風は一瞬凪いだ。  今ならわかる。困惑したのだ、きっと。  百年生きた鬼神。  百年の孤独。  人に忌避される運命を諦念し、そういうものだと受け入れた矢先に、鬼風は春虎に出会った。  春虎は鬼神に名前を与え友人として慕い、カラスの巣を壊さず見守る鬼風を優しいと褒めた。  「ここだけの話、貰った名前結構気に入ってんだよ」  「鬼風……」  「行け、春虎。もうすぐ屋敷が崩れる。俺ももう、人の姿じゃ保たねえ。俺の顔は見ずに行け」  おそらく今、男が振り向いたら自分は死ぬ。  だから?  「たかが皮一枚じゃないか」  春虎は、鬼風の顔に惚れたわけじゃない。  そんな皮一枚の、皮相な、上っ面の、ばかばかしいものに惚れるわけがない。  「お前は下穿きの色でその人間を判断するのか?ちがうだろうくだらない、重要なのはむしろ下穿きの下だ!」  鬼風が肩がかすかに動く。  「『俺』はもう子供じゃない、だけどまだお前が怖い、お前の顔をまともに見て正気でいられる自信がない、それがどうした、どんな醜い顔をしてたってお前はお前だ、俺を助けに来てくれた、俺を救ってくれた、その事実がたかが皮一枚でひっくりかえるもんか!!」    なるほど鬼風は化け物だ。  その化け物に惚れた自分は、とうに人の道を外れてしまったのだ。  深く深く深呼吸し、火箸のように灼熱した簪を逆手に持って翳す。  背けるくらいなら潰してしまったほうがいい。  「!!馬鹿っ、」   簪の先端で己の目を突く。  刹那、視界が赤く染まる。  脳髄まで貫く激痛に悶える春虎を、気も狂うほど焦がれた腕がかき抱く。  「何考えてんだせっかく助けてやったのに台無しだ、お前の目が……壊れた物は戻せる、死んだ人間はどうにもなんねえ、潰れた目は治せねえぞ」   長年の夢が叶った春虎は、今ここにある愛しいひとの顔を片手で包む。  「……見えているから、ほんとうを見失う……見えない時のほうが、よく見えていた……」  視力と引き換えに得たもの。  自分を守り抜く腕のぬくもり。  「お前が化け物なら、俺も化け物になればすむことだ」  妻の訴えに動かされた以上に、鬼風に結び付く思い出の品だから簪を取りに戻った。  「……俺は、あの頃と変わらず臆病だから……お前をまっすぐ見る自信がない」  自分を助け出した鬼風を、一方的に化け物と罵った時と違うのは、十年の別離で深まった狂おしい恋しさだけだ。  「だけど、目を潰せば……向き合えるし、一緒にいられる。恐れずにすむ」  卑怯か。  逃げか。  それでもいい。   「お前を哀しませずにすむ」  鬼風が強く強く春虎を抱きしめる。  昔見たいと願った姿はもう永遠に見えないけれど、代わりに彼を手に入れた。   盲目になって初めて、まっすぐ顔を見れた。  力尽きて目を閉じ、漸く再会した親友に身を委ねきる。  「……接吻したいから目を潰したと言ったら笑うか?」  「……俺の口、違う場所に付いてんだけど」  「構うもんか」  鬼風の顔を手挟み、口付ける。  「どこへも行かないでくれ」      強く強く、もう二度と手放さぬように春虎を抱いて異形が微笑む。  「あたぼうよ」  余力をしぼって鬼風の顔に手を這わせた春虎は、目鼻口さえばらばらな顔に、笑みのようなものが浮かぶのを指先で感じ取る。  天井を支える梁と柱が連鎖的に倒壊し、一対の異形を覆い隠した。    屋敷は焼け落ちた。  煤の積もった焼け跡を彷徨い歩くのは、虚ろな目の未亡人。  「私が簪なんてとりにもどったから……」  さめざめ泣き崩れる奥方を、所々焦げた着物を羽織った寿安が赤い目をして支える。  「旦那さまはご立派でした。使用人がすべて避難するまでお残りになって……指示が素早く的確だったおかげで、家財の大半を無傷で運び出せました」  「あの人がいないわ」  「奥様……」  家財一式は運び出せた。  使用人も無事。  残された妻子が暮らしていくのに不自由はない。  「後の事は私たち使用人にお任せください、旦那さまに受けた恩義は必ずお返しします」  「使用人上がりのせいか旦那様はわしらにとても親切にしてくださった」  「不幸中の幸い……といったらなんだが、財産の殆どは無事です。またすぐにでも商売を始められますよ」  「元気だしてください奥様、せっかくの綺麗なおぐしが乱れてしまうわ」  忠義者の使用人に囲まれた奥方は、それでも顔を手で覆い泣くのをやめない。   「屋敷と心中するなんてばかよ」  「心中ってなあに、母様」  咽び泣く母の姿を遮るようにして子供たちを招き、腰の曲がった寿安がこっそり教える。  「心中というのは好きな方と一緒に死ぬことですよ」  「父様死んじゃったの?お屋敷と?」  あどけない問いが追い討ちとなり、遂に寿安も着物の袖で口元を覆って嗚咽する。  焼け跡の人だかりが涙に暮れる中、寝ている間に屋敷が燃え落ち、幼さ故にまだ父の死すら理解できぬ子供たちはあたりを駆けまわりはじめる。  「なんだこれ、真っ黒」   春虎によく似た末の子が、焼け跡の煤の下から真っ黒い簪を掴み出す。    その時。  焼け跡に吹いた風が煤を舞い上げ、男の子の手の中の簪が、元の精巧な輝きを取り戻していく。  「わあ……」  目の前で起きた奇跡に感動する末の子。  たった今過ぎ去った風がまるで意志をそなえているかの如く錯覚し、簪を握り締めた男の子は、もう片方の手を空に向かって振りたくる。  「お母さんが喜ぶよ。風さん、再見!」    男の子の声は闊達な希望に溢れ、晴天の空に高らかに響くのだった。
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