#3 百合ヶ丘ランの苛立ち

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#3 百合ヶ丘ランの苛立ち

 ヘリコプターが東京湾原発付属実験所につくと、実験所から自衛隊員が2名出てきた。 「101実験室への荷物の搬送を行います。それまで休憩室でお休みください」  ランもシュウも疲れ果てていたので、自衛隊員の案内にしたがい、ランは第一休憩室に、シュウは第三休憩室に向かう。 「知夜詩(しるよし)様は、こちらの第三休憩室です」  そこには寝袋しかなかった。そして部屋は狭かった。  しかし、普段の環境も研究室で寝泊まりするような感じだったし、大きな不満はなかった。 「ここで寝るのか……まあいいですよ」 「お前、正気か……?」 「まあ、普段とあまり変わらないですし」 「いや、それは君の話だろう」  ランの自宅は広めの邸宅であったので、このような狭い空間で生活することは耐え難いのだった。  そんな話をしながら、自衛隊員は次の部屋の案内をする。 「百合ヶ丘先生は、あちらの第一休憩室です」  渋々廊下を歩いていくと、やはり無機質なドアが見える。  嫌な予感がしつつも、自衛隊員が扉を開く。 「おお!」  ランの声には驚きと喜びが混じりあっていた。  第一休憩室は高級な部屋だった。  しかも比較的広い。大体50平米程度であろうか。  壁の色は黒と白のコントラストが際立つモダンな模様だった。  そしてより良かったのは、エルゴノミクスチェア、ハイスペックなノートパソコンとディスプレイ、高速インターネット環境、ホワイトボードなどだ。  研究と実験に必要なものは揃っていた。  ここが修復を完了するまでの生活拠点となるので、寝泊まりに必要な環境も充実していた。  ハイクラスなホテル並みの設備だろうか。  ベッドはふかふかで肌触りがよく、ジャグジーを備えた高級なバスルームもついている。 「搬送(はんそう)中に備品を組み立てておきました。川野大臣からの伝言で、お気に召されなかったなら連絡してほしいとのことでしたが、いかがでしょうか?」 「まあ、私の邸宅に比べてはだいぶ質素ではあるが、十分だ。ありがとう」  自衛隊員は少し安堵した表情を浮かべ、さらに付け加えた。 「もう1点、ご家族への安否連絡は川野大臣の指示で、さきほど行いました。皆様ご無事のようでした」 「そうか、やはりアイツは気の効くやつだな」  自衛隊員が去ったあと、ランは軽くシャワーを浴びた。  しかし、何かやや奇妙だと、彼女は考えた。  この部屋は原発の休憩室としてはあまりにも広すぎるし、ほとんどスイートルームのようだ。  もともと誰かを招き入れるために作られた部屋なのか?  であれば、招き入れる人物、それは一体誰なのか?  そんなことを考えてみるものの、これでは明日の実験に支障が出ると思い、風呂から出て着替えると、ベッドに寝転がった。  彼女は一言つぶやいた。 「明日は、晴れているだろうか。いや、晴れてなくてはならない」  物憂げな表情を見せていたランはやがて眠りにつくも、その体が休まることはなかった。  ——それから3日間がたった。  地震の翌日から今日まで、ずっと雨が続いていた。  実は自動修復AIロボットには1つ弱点があった。  雨が降っていると精密には動作できないのだ。  ゆえにランとシュウにできることは何もなかった。  二人は、ただそれぞれの休憩室にいた。  ランは、不規則に起きてアプリの天気予報を見て、それが雨であることを確認すると、不機嫌な気持ちになる。  そして、なんとなく中継中のニュースを見てみる。  都市部の被害状況の様子だけであれば、まだ良かった。  最悪だったのは、実験施設の目の前にある原子炉がヘリコプターから映る様子とか、放射能汚染に対して過度に不安を煽るような報道特集が流れることだった。  ランにとっては不快でしかなかった。  そしてもっとも彼女が嫌悪したのは、安全な場所からただ科学者への責任を、ただ呑気(のんき)して口にするだけのコメンテーターとか人気政治家であった。 「ああ、最悪だ」  彼女はそうこぼすと、テレビを消し、もう一度アプリの天気予報を見て、ベッドに戻る。  これが地震の日から今日までの、ランのルーティーン(習慣)だった。  外の情報はすべて不快でしかなかった彼女にとって、楽しみは食事くらいしかなかった。  しかし、彼女は自衛隊から支給される食事も気に入らなかった。  決して質素なものではなかったが、ランは好き嫌いが多すぎたし、味には結構うるさかった。  一方、シュウは第三休憩室で、彼の研究の一貫である言語解析AIの論文の続きを書こうとしていた。  だが、なかなか筆が進まなかった。  彼の目の前の、放射能測定器の数字が、徐々に増えていた。  その様子は彼の集中力を削ぐのには十分だった。  シュウが昼ごろトイレに行こうとして実験室を通りかかったとき、実験室のドアが空いていた。  ランがそこの椅子に腰掛けていた。  なんとなく話しかけるのは危険だとシュウは思った。  トイレから第三休憩室に帰ると、今度はドアがしまっていた。  第三休憩室にシュウが戻ると、ランの叫び声がした。  ついにキレたらしい。  第三休憩室まで届く声に驚いたシュウは、実験室の彼女のもとに急いで向かった。  シュウがドアを開けると、その音に気づいたランは振り返って彼の顔を見た。  ランは早口でまくし立てた。 「シュウ、なぜ雨は止まないんだろうか?答えは明白、秋雨の真っ只中だな。そんなことはわかっているんだよ、クソ!」  ランは、うさぎのぬいぐるみを思い切り蹴り上げた。  ぬいぐるみは宙を舞い実験室のドアにぶつかり、シュウの横に転がった。  シュウはランをなだめようとした。 「まあ先生、そのうち雨は上りますよ、少し待ちましょうよ」 「雨が上がる?ああ、それは火を見るより明らかな事実だなあ!キミ、なんで私がこんなにキレているかわかるか?」 「それは——」  シュウの言葉を無視するようにランは言葉を続けた。 「現実は待ってくれないんだ。昨日より放射能濃度が上がっているのは君も知っているだろう?」  シュウは改めて実験室の放射線測定器の値を見た。  確かに、現在3.12マイクロシーベルト。  昨日より0.18マイクロシーベルト上がっている。  8号機の破損は、当初の予想より進んでいるようだった。 「確かに、これは深刻ですね」 「ああ、深刻だよ!しかも一向に実験ができない。ああ最悪だ……こんな実験は今までなかったな。今ここから逃げ出せないのは科学者のカルマだな!クソ!」 「先生、落ち着いてください。きっとこの実験が終われば——」 「東京は救われる、そう言いたいのか?」  言おうとしていたことを先に言われたシュウは言葉に詰まった。  一方で、ランは自分自身で「東京は救われる」などと、正義ぶった言葉を口にしたのは些か(いささか)奇妙だとも思った。 「知夜詩(しるよし)君、キミは、私がなぜ研究を続けているのか、わかるかい?」 「正直なところ、先生の考えは僕にはわかりませんが、ただ——僕自身は科学の研究を続けることで、世界がもっとよくなると、そう信じています」 「そうか、それはよかった」  ランはさっき蹴り上げたうさぎのぬいぐるみを拾い上げた。 「私が研究を続ける理由は、君とは少し違う。いや、むしろ理由などないかもしれない。結局のところ、それは科学者である私のエゴとかアイデンティティでしかない」  ぬいぐるみを定位置に戻し、彼女は続けた。 「科学はときに人を傷つけるかもしれない。AIの発展で人々は仕事を失うかもしれない。ただ、科学によっていずれ世界は豊かになると私もそう信じている。私は科学者として生きていることを誇りに思っているが、さて、君はどうかね?」  シュウは大した研究の功績がないので、科学者としての誇りがあるかと問われると少し微妙な気もしたが、(うなず)いて彼女に同意した。  ランは、実験室の窓から空を見上げながら、ふとつぶやいた。 「未来の科学はきっと、私が望んだときこの空を一点の曇りもない、実験に最高の環境にしてくれるのだろうな、それが今であったなら——」  シュウも、ランの後ろから窓を覗き込むように空を見上げた。  確かに、いまこの雨が止むこと、ただその1点だけで、原子炉の自動修復AIロボットの実験を開始することができる。  そして、この前の原子炉の事故で失われた科学への信頼もきっとこの実験が成功すれば挽回できる。シュウはそう思った。 「それ」が突然現れたのはその時だった。  いきなり猛烈な暴風が2人を襲った。  言葉を発する間もなく、2人は吹き飛ばされ、実験室の壁に打ち付けられた。 「な、なんだ……」  ランは一瞬驚きで言葉が出てこない様子だったが、状況を整理するため急いで窓に向かった。  吹き飛ばされたとき、彼女の「緩衝材」となったシュウも痛みを堪えながらも駆けつけた。  ランは言葉を失っていた。  シュウも窓の外を覗き込んだ。    なんと、雨が上がるどころか、空は快晴であった。    ——シュウはこのとき神を少し信じた。  というよりもむしろ、雨が上がっていたことと「もう1つの彼の知らない事象」を前に、神を信じざるを得なかった。  2人の目の前の空には、「城」が浮いていた。
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