ジンジャーエール

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ジンジャーエール

 カラン、と軽快な音とともにドアを開けると、とたんに外の日常的な世界が終わる。全身をリズムに浸して、心臓に直接響くコントラバスの音色が心地よい。 「なんだまた家出か」 「違うよ」 「子供がこんな時間に出歩くなよ」  カウンターの向こうからタオルが飛んできて、俺はそれをありがたく受け取った。まだ早い時間のせいか客はいなかった。 「雨は大分強いのか」 「そうでもないけど、びしょ濡れ。最悪」 「まあそう言うなよ。雨もいいもんだぜ?」 「めんどくさいよ」 「雨とジャズは相性がいいんだよ」  耳をすますと、コントラバスの低音の合間に雨の音が聞こえる。確かにそれは一流の音楽のようにも聞こえた。  両親を亡くした俺を引き取ってくれたのが父の弟である淳史さんで、その友人の矢沢さんがやっているのがこのジャズバーだった。常に音楽がかかっているこの場所は、俺にとってもう一つの我が家でもある。いつものカウンター席に座ると、グラスにジンジャーエールを注いで出してくれた。 「じゃあ、なんだよ。何しに来た」 「矢沢さんてさ、淳史さんのこと好きなんでしょ」  矢沢さんが飲んでいたコーヒーを吹き出した。 「おまっ、急に、なに」 「だってバレバレじゃん」 「ああそう……」  淳史さんと矢沢さんは高校時代の同級生で、同じブラスバンド部に所属していたそうだ。それ以来、付かず離れずしながら曖昧な関係が続いているらしい。 「矢沢さんて好きな人には構いたがるタイプだよね」 「……そうねえ」 「俺は別に偏見とかないよ?」  グラスに差したストローをくるくると回す。この店のジンジャーエールは自家製で、結構辛口。少しだけ大人になった気分になる。 「何なんだよ急に、お前は」 「急にっていうか」 「なんかあったのか」  別に、と俺は言葉を濁した。矢沢さんはそんな俺を見てため息をついた。 「それ飲んだらさっさと帰れよ。あいつも心配してるだろーし」 「矢沢さんと淳史さんが恋人にならないのって俺のせいだったりする?」 「本当になんなんだよお前はさっきから」 「だって」  淳史さんが俺を引き取ったのは、まだ20代も半ば頃のことだった。大学を出て銀行に勤め始めてまだ数年しか経っていなかったのだ。いろいろ考えているうちに、もしかしたら淳史さんの自由を奪うような、重荷になっていたのではないかということに思い至った。考え出したらいても立ってもいられなくなって、この店に来ていた。 「あのな、そんな気遣いはガキには百年早いっつーの」 「だって、俺のせいで恋人もろくに作れないのかも」 「あいつがそう言ったのか?」 「言わない、けど」 「だろな。お前に言うわけねえよ。でもあいつは俺には愚痴もこぼすわけだ。んで、あいつは俺にもそんなこと言ってないんだよ。だからお前が思ってんのは単なる杞憂だ。はい、終わり」  さっさと帰って寝ろ、と乱暴に言う。 「じゃあなんで付き合わないのさ」 「寒いこというんじゃねえよ」  でも、と食い下がると矢沢さんは大げさにため息をついた。 「あのな、そういうのはこの歳になるともう口には出さないもんなんだよ」  それ以上は何も言う気がないようで、俺は諦めてジンジャーエールを飲み干した。お金を払おうとしたらいつものように断られる。 「出世払いでいいんだっつーの。その代わりお前、有名になったら俺のこと恩人とか言えよ」 「有名になったらね」  まだ雨音が聞こえて、入り口横の傘立てから傘を一本抜いた。 「お前が心配しなくても、俺もあいつもお互いのことはよくわかってんだっつーの」  振り返るといつも通り飄々とグラスを磨いている。その顔からはなにも読み取れはしないけれど、淳史さんなら分かるのかもしれない。分かるわけないだろ、なんて言われそうな気もするけれど。  外に出ると、雨は少し弱まっていた。まだ耳の奥で鳴っているメロディーと雨音が溶け合っている。帰ったら淳史さんに音大へ進みたいと話そうと、俺は決めた。
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