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炭酸水に檸檬
カランと音が鳴って俺はドアに目を向けた。一瞬開いたドアの向こうから雨の音が聞こえる。店の中にいると室内を満たす音楽に阻まれて外の音はほとんど遮断されるから、雨が降り始めてもあまり気がつかない。そうやって洗濯物をダメにして、小野に叱られたことが何度もあった。
その小野は店に入ってくるなり怖い顔で俺の前、カウンターに手を付いた。
「啓輔は?」
座る間もなく口を開いた小野に、水を注いだグラスを渡す。それをぐっと呷ってようやく一息ついたようだった。
「とりあえず座れ。啓輔なら二階にいる」
「悪いな」
「いつものことだろ。今頃は不貞寝でもしてんじゃねえの」
「迷惑かけるな」
椅子に座りながら小野は大きく息を吐いた。
高校の同級生だった小野が亡くなった兄夫婦の子供を引き取ると言ったのは、俺たちが二十代も半ば頃のことだった。つかず離れずの距離を保ってはきたが、小野が苦労しながら甥である啓輔の世話をしてきたのを見てきた俺は、できるだけサポートしてきたつもりだ。しょっちゅう店に来ていたから俺も可愛がったし、何よりも啓輔は俺たちと同じ、ジャズが好きだった。
客がいないのをいいことに、外に出していた看板を入れて店じまいをする。夕方頃に開けて夜は適当に閉める、楽なものだ。カウンターに戻るとその辺にあった酒瓶から適当に注いで、一つを小野の前に置くと、もう一つは自分で口をつけた。
「別にいいんじゃねえのか」
「……簡単に言うな」
「どうせあいつのことだから、言っても聞きゃしねえだろ」
啓輔が俺の店に飛び込んできたのは、小野がここに来る一時間ほど前だった。ケンカをすると店に来るのがすっかりお決まりのパターンで、いつも通り俺に向かって息巻いたあと、生活空間である二階へと上がっていった。
「俺の人生だろーって吠えてたな」
「そんなのわかってる」
「生意気だって一蹴しといたけどな。でもあいつは本気でやりたいんだろ音楽を」
「……ああ」
子供の頃からこの店に出入りしていた啓輔が、ジャズというジャンルに興味を持つようになったのは必然だったように思う。啓輔が高校に上がるまではうちで預かることもしょっちゅうで、往年のジャズシンガーを枕に眠っていたし、店でご飯を食べていれば誰もが子供に楽器を教えたがった。
そうして音楽とともに育った啓輔は音大へと進学し、今さらにその先へと進もうとしている。
「本拠地で試したいんだろ」
「別にアメリカへ行くのは大学を卒業してからでもいいじゃないか」
「焦りがあるんじゃねえの。楽器を始めたのは中学生からで、決して早い年齢じゃないしな」
「だとしてもあと二年だ」
「あいつにとっちゃまだ二年なんだろ」
「でも」
三杯目を渡すと一気に呑みほす。俺も小野もアルコールは強い方だが、それにしても今日はペースが早い。
「お前もう止めとけ。帰れなくなるぞ」
「大学に行けたのだって、兄さんと、お義姉さんが残してくれたお金があったからだ。それを無駄にするみたいな……それに」
いつになく酔っているらしい小野が、カウンターに突っ伏す。そして聞こえにくい声でひとり言のように呟いた。
「それに、心配なんだよ。あいつに何かあったら兄さんたちに顔向けできないし……俺にとってもあいつは、子供みたいな、ものだから……」
針の上がったレコードのように、小野は喋るのをやめた。仕事から帰ってすぐに啓輔とやり合ったようだから、よほど疲れていたんだろう。たったこれだけで寝落ちてしまうのは珍しかった。
「矢沢さん」
グラスを洗いながら振り向くと、階段の入り口から啓輔が顔を出していた。
「お迎えが寝ちまったぞ」
「そうみたいだね」
小野の隣に腰掛けた啓輔に、水を出してやる。啓輔はそれには手を出さずに俯いたまま座っていた。
「聞いてたのか」
「まあ、少しだけ」
「そんなら分かっただろ。こいつが何で反対してんのか」
「うん」
「俺もこいつも親になったことがないから分かんねえけどな。きっとどこの親もこんな感じで子供のこと心配してんじゃねえの」
小野がどれだけ啓輔を大事にしているか知っている。引き取った当時、すでにそれなりの年齢だった啓輔と生活するのは大変だっただろう。思春期に差し掛かっていた啓輔と何度もぶつかっていた。十年にも満たない期間だとしても、親代りだったと胸を張って言える時間だったはずだ。
「お前が本気で向こうに行きたいんだったら行けばいいと思うけどな。親父さんたちだって、お前のために残した金をお前が自分のために使うなら怒りゃしないだろ。ただまあ」
わざと言葉を切ると、啓輔はようやく顔を上げた。しっかりと目があってから俺は言った。
「どう考えても世話になったこいつに反対されたまま行くのかよ、とは思うけどな」
「……わかってる」
「俺なら、こいつに反対されたまま行くなんて寝覚めが悪くてできねえけどな」
「分かってるってば」
ふくれっ面は子供の頃と変わらない。俺が買ってやったトランペットを今でも大切に使っている啓輔を、応援してやりたい気持ちはある。できるなら夢を叶えて欲しいと思う。
「ちゃんと話せよこいつと」
「俺だって、淳史さんには分かってほしいし……絶対、苦労かけたし」
「当たり前だ。誰のおかげで飯食えてると思ってんだ」
「頑張って説得するから少しは俺の援護もしてよ」
「どうしたって俺はこいつの味方なんだよな」
高校の時からずっと変わらない。小野は俺に振り回されてばかりだったと言うけれど、俺の方こそこいつの言葉に一喜一憂してきたという自覚がある。
「こいつ泣かせたら承知しねーぞ」
「分かってるよ。っていうかそっちこそいい加減にはっきりさせなよ」
「うるせ。ガキが生意気言ってんじゃねえっつーの」
啓輔が寝ている肩を揺らすと、小野がわずかに身動ぎする。その他愛のない仕草にさえときめくのだからどうしようもない。
「いい歳こいてバカみてえだな」
「は?何の話?」
「こっちの話だ。ほらさっさと起こせ」
なんだかんだ言っても小野は、最後には啓輔のアメリカ行きを認めるのだろう。小野にとって、啓輔は夢の続きでもあるのだ。この店にやってくる若者たちと同じ、果たせなかった夢の延長にいる。
「やるんならきっちりやれよ」
主語のない俺の言葉に、啓輔は育ての親に似た意志の強い眼差しで頷いた。
次にこいつが来る時は、啓輔のアメリカ行きが決まったあとだろう。その時は店じゃなく部屋で飲まそうと考えながら、ようやく目覚めた小野のために俺は炭酸水にレモンを絞った。
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