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一月一日
看板を中に入れるために外に出ると、風が吹いて身震いした。大通りの方はまだ明るく賑やかな声が聞こえてくる。繁華街から外れた裏通りにあるこの店までは喧騒も遠い。もう一度身震いして看板を手に店に戻ると鍵を閉めた。
「今最後の一人が寝落ちたよ」
カウンターの向こうで小野が囁くように言った。店の中は寝息が聞こえるばかりで静かだから、小声でもよく通る。俺はカウンターの一番隅に腰掛けた。
「よく寝てんな」
この店には音楽の道を目指すやつらがたくさん集まってくる。まだ高校を出たばかりのようなのから、バイトを掛け持ちしながらもう何年も頑張っているようなのもいる。俺の隣でカウンターに突っ伏して眠っている顔はまだまだ幼い。ふと今はアメリカにいる啓輔を思い出した。
「何か飲むか」
「俺もお前も大概酒好きだよな」
「本当にな」
グラスに注いで水で割る。マドラーで一かきしてこちらに寄越してきたそれを受け取る。小野が自分の分を作るのを待って乾杯した。
「すっかり様になったよな」
「そうか?」
慣れたように二杯目、と言ってももう何杯目かはわからないのだが、ともかくお代わりを作って小野はぐっと呷った。
小野がこの店に立つようになったのは春のことだった。銀行を辞めて店を手伝おうと思うと言われた時、正直に言えばかなり驚いた。今までも休みの日には手伝ってもらっていたことはあったし、いずれは一緒にやっていけたらと思っていた。けれどそれも小野が銀行を定年退職して、それこそジジイの道楽みたいに気楽にやれたらいいぐらいの気持ちでいたのだが。
「あっという間の一年だったな」
「歳とると時間の経つのが本当に早いよな」
「その台詞、本当におっさんみたいだぞ」
「お前もおっさんだっつーの」
「それもそうか」
高校の時に出会ってもう二十年以上になる。ずいぶん歳をとったが、頑なだったあの頃よりも小野はずっと気軽に笑った。
「なあ」
「なんだ」
「……今日、泊まってくだろ」
「今さら帰れって言われても困るけど」
「だよな」
差し出されたグラスをいっきに飲み干して勢いをつける。勢いをつけないと言えないのも情けない話だが。
「なあ」
「だからなんだよ」
怒っているというよりは笑いながら小野が言う。俺はつられて笑いながら言った。
「そろそろ一緒に住みませんか」
「なんで敬語なんだよ」
「いいから答えろよ。返事までの時間が耐えられないだろ」
「お前は意外と小心なところがあるよな」
「分かってるなら黙ってろっつーの」
小野が寝静まった店内を見渡す。視線を追って酔っ払いたちが転がっている店内を一瞥してから小野に目を戻すと、かちりと視線が合った。
「ちゃんと俺が寝る場所、あるんだろうな」
「いまさら何言ってんだバカ」
あるに決まってんだろと椅子から立ち上がると、小野もカウンターを離れる。面倒くさいから片付けは全部、起きてからだ。部屋の照明を落として暖房の温度を少し上げた。住居である二階へ行こうと先に階段を上がっていた小野が振り返る。
「矢沢」
「どうした」
「あけましておめでとう」
時計を見れば確かに、いつの間にか0時を過ぎていた。
「全然気づかないもんだな」
「俺も今さっき気がついた」
「じゃあ、末永くよろしくお願いします」
だから何で敬語なんだよと笑う小野の後ろをついて行きながら、ベッドを買い換えようと鼻歌まじりに思った。
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