レコード一枚分の白昼夢

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レコード一枚分の白昼夢

「いらっしゃい」  カランとドアベルが鳴って、一瞬だけ蝉の声が聞こえた。と、同時に鍵を開けていただろうかと考えている。時刻は昼を過ぎた頃で、店を開けるにはまだ早い。特に時間が決まっているわけではないが、日が暮れてきた頃に店を開け、客のはけ始めた頃に閉める。それも日付が変わった頃だったり空が白み始める頃だったりとまちまちだった。 「マスターやってる?」  なんちゃって、と笑った客はどう見ても子供だった。白いカッターシャツに黒のズボンは明らかに制服で、高校生というよりは中学生くらいに見える。 「おいおい、ここはガキの来るところじゃないぞ」 「まあいいじゃん、コーラちょうだい」  気にした様子もなくカウンターに座ると物珍しそうに店の中を見回している。店内はカウンターの他はテーブルがいくつかあるだけで、奥には機材とステージが据えられていた。そのステージを指差して、 「あそこって何、演奏とかできるわけ?」 「そういう店だからな」 「いいなあ」  感心している子供に栓を抜いたコーラの瓶と氷を入れたグラスを出してやって、自分は炭酸水にレモンを絞る。昨日も、というよりは今日の朝方まで飲んでいたからまだ少しアルコールが抜けていない。  子供がコーラをグラスに注ぐと、小気味良い音を立てて氷が鳴った。 「ちょっと大人気分」 「ガキだなあ」 「それよりさ、音楽がなってないんだけど」 「あ?」  首を傾げて俺の後ろにあるレコードプレーヤーを指さす。基本的に店が開いていても閉まっていても一階にいる間はレコードを流しっぱなしだった。何もかけていないのは今まさに下に降りてきたばかりだったからだ。 「今からかけるところだったのにお前が来たから暇がなかったんだよ。というかお前どうやって……」 「あれかけてよあれ」 「人の話を聞けっつーの」  子供が口にしたタイトルはジャズのスタンダードナンバーだった。CMなんかでもよくかかるから誰でも聞いたことのある曲だが、タイトルは知らない方が多いかもしれない。 「なんかやってんのか」 「何かって?」 「楽器だよ楽器」  レコードを取り出してプレーヤーに乗せ針を落とすと、やがて軽快なメロディが流れ出す。俺は昔からこの作業が好きだった。 「アルトサックス」 「へえ」 「おっさんは?」 「おい、口には気をつけろ。お前と同じだよ」 「ここでも演奏したりすんの?」 「俺の店だからな。好き勝手にやってんだよ」 「そうなの?」 「っていう相方の談」  元々、叔父夫婦がやっていた飲食店を好きにしていいと言われて、本当に好き勝手に改築してジャズバーにした。ステージを設えて機材を揃え、防音設備を整えるとかなりの投資額となったが、まあなんとかやれている。  小野に相談した時は「お前は本当に自由だな」と笑われたが。 「いいなあ、俺なんか部活でしかできないからストレスよ」 「まあな」 「楽器欲しいけど自分じゃ買えないし。子供って不便」 「大人もそんなに楽じゃねえわ」  だってさ、と口を尖らせる顔は子供らしく、まだ15歳くらいだろうか、自分にもこんな時代があったかと懐かしく思う。あの頃は自分も音楽に夢中だった。 「あ、ねえ大人のおっさんに聞きたいんだけどさ」 「さっきも言ったが口の利き方に気をつけろっつーの」 「好きな子に告白ってどうしたらいいわけ」 「突拍子もねえな」  同じ部活のやつでさ、と楽しそうに話す素直さはこちらが気恥ずかしくなるほどで。十代の頃は自分もそうだったのだろうかと考えてみるが、思い出せそうにはなかった。それほどに時間が経ったのだろう。 「言いにくいじゃない。友達としか思われてないし多分」 「気持ちはわからなくもないけどな」 「そっちはどうなの」 「は?」 「その相方さんに言ったの好きって」  カウンターに頬杖をついてこちらを見上げてくる視線にたじろぐが、それは出さないように言い返す。 「言わねえよいちいち」 「そういうのはよくないと思います」 「大人になるといちいち口に出さないんだよ」 「そういうのが大人のよくないとこだよな」 「うるせえな」  音楽はいつのまにか終わりに向けて最高潮に達していて、ピアノが細かなリズムを刻んでいく。俺は視線から逃げるように、次のレコードを探すふりでラックに手を伸ばす。 「お互いちゃんと言おうな」 「なんで諭されてんの俺」 「いつでも言えるなんて思ってたら遅い時だってあるんだよ?」 「何を生意気なことを」 「だってもう二度と会えないことだってあるんだから」  レコードが止まる。  子供には時間なんていくらでもある、と言おうとしてレコードをもったまま振り返る。そこには空になった瓶とグラスだけが残されていた。  カラン、とドアベルが鳴った。 「えらく早く店を開けたな。看板が出てなかったけど」  呆然としたままドアを振り返ると、そこに立っていたのは買い物袋を提げた小野だった。ドアが閉じる寸前、蝉が喧しく鳴く声が聞こえた。 「今、誰かとすれ違わなかったか」 「いや?」  小野は重い音とともに荷物をテーブルに置くと、カウンター内に回り込んで食材を業務用冷蔵庫に入れ始めた。俺はそれを呆けたまま見ている。 「誰かいたのか?」 「え?」 「グラスが置いてあるから」 「ああ、まあ」 「なんだかぼうっとしてるな。レコードもかけずに珍しい」  荷物を詰め終えた小野がレコードプレーヤーに近づくと針を落とした。それは先程のまま、同じ曲が流れ出す。 「これ、俺の好きな曲なんだ」 「そうだったか?」 「ああ、祖父さんに初めて教わった曲だった。それと」  レコードのジャケットを手にして懐かしそうに目を細める。こういう顔の時は大抵、 「達也に教えたのもこの曲が最初だったな」  そこで俺はようやくああ、と息を吐いた。そういえば今日はお盆だったのだと思い当たる。死者が帰る日だ。最近は実家にも帰っていなかったからすっかり忘れていた。  これは、レコードが見せた白昼夢だろうか。  俺の知らない思い出話をする小野を俺はつまらない顔で見ている。どうしたって、子供の頃の話だとしても、小野の亡くなった友人の話は面白くはない。まあいわゆる嫉妬の部類だ。  乗せられて気持ちを口にするには歳を取り過ぎているし、だからと言ってこの場所を代わってやる気もさらさらないけれど、こいつだって俺の隣で大概好きにやってるんだと伝わるように。 「仕方ないな、今日だけだぞ」  好きだった曲をかけて、思い出話に付き合ってやろう。  食い逃げかよ、と呟いて俺は冷蔵庫から新しいコーラの瓶を出すと栓を抜いた。
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