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丹治比の国のサチ
「目を覚ますのだ、サチ」
誰かがあたしを呼んでいる。ここは御陵館ホテルの三階、部屋番号は302号室だったと思う。戻ってきてくれたのかな。「ミチオさん、帰ってきたの?」
あたしの声が空気のワッカを震わせた。まわりがぶるぶる震えて、弾けて破れた。
ぼんやりした黒い影が少しずつ視界を形づくっていく。呪呪師のアカハラ、シロハラ、それに・・・。
「そうだ、キバシリ様だ」あたしは思い出した。
「サチ、起きたか」
あたしはまわりを見ようとしたけど、まるで首が動かない。それに左側が見えない。
「動かしてはならん。お前は丸五日、意識がなかったのだ」
「丸五日?」
そう口にした途端、ここしばらくの記憶が水に洗われるように頭の中から流れて消えた。
次に思い出したのはミズアオイの大地に倒れたタガメの体と、血に塗れた異形のミズチだった。
「痛ててて」あたしはチクチクした痛みに頭を押さえると、包帯がぐるぐる巻きにされているのがわかった。
「サチ、お前はおみずちさんに頭を割られたのだ」
「おみずちさん?」
「手足のある、身体の大きなミズチじゃ。サチもジュジュの森で会ったのだろう?」
「うん、フヤのことだね」
「お前の頭は左側が裂けて左の眼球も潰れた、それでも死ななかったのはフヤのおかげだ」
奥からドヤドヤと人が入ってくる音がした。
「サチー」
「起きたのかー」
モモ、チチが覗きこんできた。あずきとつるまめの顔もあった。
「トンボは?」あたしは聞いた。
「トンボも他の武人もみんな戦死してしまったの」チチの声だ。
「そうなのか。じゃあ、フヤは」
「フヤはお前の頭をずっと押さえて、血が流れないよう守っていたのだ。だが大仙から司令官のシン様が軍勢を引き連れて総攻撃でやってきた時、どこかに消えてしまった」
「そうだったの。で、陣地は?」
「ここは守られた。シン様たちに異形のミズチはみな殺されたのだ」
「これで終わったの?」
「もちろんミズチとの戦いは終わったりしない。フヤの話しではおみずちさんも絶滅はありえないと言っていた」
知らない巫女が顔を覗かせた。
「サチ殿。ようお目覚めなされた。しかしサチ殿のお身体は元には戻りません。陣地での任務は私が引き継ぎましょう。サチ殿は大仙陵墓に帰還ください」
あたしは黙ってうなずいた。
それから三日後。朝焼けを浴びて、サチの身体はミズアオイの丘を離れ、大仙に運ばれていった。板の上に寝たサチを四方から新任の掃討武人、それと踊り連のあずきとつるまめが担いでゆく。
強い太陽の光が五人の目を刺した。サチは眩しさに右目を閉じた。左目を失い、身体も動かせなくなったサチだが、死なずに済んだのはフヤのおかげだ。フヤはどこか近くにいる、とサチは感じていた。いつかまた会えるだろうとも。
一行が大仙に到着し、まぶた越しに映る太陽の光が弱くなると、サチは薄目を開けた。太陽が厚い雲に覆われ始めていた。風の音が聞こえてくる。
丹治比の国は死者の国だ。巫女たちはただ、粛々と毎日の祈りを捧げる。神の眠りを妨げるものが出てきませんように。この陵墓が今日も一日、平穏でありますように。風が柏の葉をそっと揺らせますように。
終わり
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