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僕の鼓動
あの人は、今日もあの場所にいる。
今日でもう、8日目だ。
あの人を見ている僕を、あの人はたぶん、全く気づいていない。
昨日、財布を拾ってあげたことも、僕の座る席が8日前とは違っている事も。
あの人を、慰めてあげたくて、何度も話しかけようとしたんだけれど、結局あいさつさえも出来ていない。
僕は、勇気もない人間だ。
このホテルには、3つのバーがある。
1つは、海辺にある一番大きなバーで、音楽を楽しめることもあり、欧米人が多くて夜遅くまで沢山の人で賑わっている。
2つ目は、ホテルの中にある落ち着いた雰囲気のバーで、ゆったりした時間を過ごしている人が多い。
3つ目は、プールサイドにあるバーで、一番こじんまりしていて1人で飲むのに最適な場所だ。
僕がいるのがこの、3つ目のバーで。
このバーは、いつもはほとんど人がいなくて、僕とあの人とバーテンダーって確率が多いんだけど、今日は珍しく違っていた。
僕とあの人との間の席に、アジア系のカップルが座り、あいていた少しの席も、欧米人の若い男たちであっという間にうまってしまったのだ。
僕は、なんとなくこの空気に落ち着かなくなって、部屋に戻ろうと席をたった。
欧米人の若者があの人に声を掛けたのが聞こえた。気になったけど、そのまま部屋に向かって歩いていた。
「うるさい!このやろー!」
かなりの大声がホテル中に響き渡る。
振り返ると、声の主は、なんとあの人じゃないか。
あの人の怒鳴り声は、日本語と英語が混ざりあってどんどんヒートアップしていって、相手の若い欧米人も、興奮していくのが見てわかった。
騒ぎを聞きつけた従業員が走ってくるのが見える。
宿泊客までもが野次馬根性で外に出てくるのが見える。
僕は振り向いて走った。
走ってあの人の所へ行って、騒ぐあの人の口をふさぎ、あの人を担いで逃げた。
走って走って、ホテルの中まできて、息を整えて我にかえった。
僕が、あの人を担いでいるではないか。
今まで、見ていることしか出来なかった僕が、こんな事をしてしまうとは……。
動揺してあの人を落としそうになった時、僕の耳に聞こえてきたのは。
なんと、あの人の寝息だった。
「あの・・・す、す、すいません」
「・・・・・」
「へ、へや、どこですか?」
「・・・・・」
完全に寝ている。
この状況でも寝ている。
僕がこんなにも動揺しているというのに、スヤスヤと寝っている。
僕は一体どうすれば……。
考えて考えて。
考えついた結果、僕はあの人を担いだまま、僕の部屋に入った。
まずは、あの人の事よりも、自分を落ち着かせる必要があった。
とりあえず、あの人をベッドに寝かせてあげて、僕は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出すと、一気に飲み干た。
そしてベッドに寝ているあの人を見た。
こんなときは、普通は何をしてあげるべきか?
でも、何をすればいいか正解がかわからない。
何かをかけてあげるべきか、靴をぬがしてあげるべきか。
重たそうなピアスを外してあげるべきなのか。
頭の中がパニックでしかない。
なぜだか緊張もしてきている。
なんだ、この、汗!
一瞬でTシャツがビショビショになっている。
落ち着こうと、もう一度水を取ろうと手を伸ばしたその時だった。
「えっ!」
あの人が、僕の腕を引っ張った。
僕はその勢いで、ベッドに転がり込んでしまって、あの人の唇で止まったのだ。
そう。
キスしてしまっているのだ。
途端に僕の心臓の音が大きく鳴る。
起き上がるに起き上がれないこの体勢と、顔の近さにますます鼓動が早くなっていく。
昨日まで、見ていることしか出来なかったあの人が、今、僕の腕の中にいる・・・。
茶色くてキレイなストレートの髪。
白くてきめ細かい肌。
整えられた眉毛。
ピンク色の唇。
こんなに緊張しているのに、いつの間にか見とれてしまっていた。
息することさえ、忘れてしまいそうになる。
それくらいに、毎日見ていたあの人は綺麗な人だった。
僕は、この体勢のまま、1ミリも動かずに朝を迎えた。
一睡もしていないというのに、八時間は寝たような、そんなスッキリとして心地よい朝だった。
そして、あの人はというと。
この状況の中、僕の腕の中でまだ熟睡している。
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