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実体のないはずの体が重い。
切り落とされて無くなったはずの小指が痛い、なんて話を生前聞いたことがあるが、今になってわかった気がする。
霊になってなお、毎朝決まった時間に出勤させられるなど馬鹿げた話だ。天国に行けた奴らが羨ましい。いまいち気乗りしないまま、いつも通り定位置に立った。勤務開始まで、あと三十分くらいか。
「おはよ。今日も早いね。服装変わったんやね。白装束卒業やん」
いずみさんは僕を見るなり言った。おはようございます、と会釈する。勤務先はここ、駅の地下街にある「憩いの泉」。唯一の上司が親しみやすいことだけが救いだ。
「やっとですよ。このパジャマも恥ずかしいですけどね」
薄青色をした、真新しいシャツの裾を引っ張って自慢した。このパジャマは、白装束を着て真面目に出勤してさえいれば誰でも支給されるものだが、それでも僕にとっては大きな一歩だ。
「あんた、バイク事故で死んだんやから入院着なんて着たことないやろ」
「白装束も着たことないですよ。僕、私服で火葬されましたもん」
突っ込まれたのが気恥ずかしくて、彼女に同調して冗談を返す。携帯を触りながら歩いてきたサラリーマンが、僕の体をすり抜けた。
「お役所仕事やからしゃあないな。そもそも、こんなところに配属されてパジャマも白装束もおかしいわ。墓場とか病院やないと」
「やめてくださいよ。墓場、廃病院、トンネル、樹海。ひと通り面接受けたけど、全滅だったんですから」
「憩いの泉かて、エリートしか働けん場所やで」
このぼやきは何度も聞かされている。僕だって、ここの面接がすんなり決まったときは喜んだものだ。なんといっても、この「憩いの泉」は「トレンチコートの女」が出る場所。インターネットの怖い話をまとめているサイトでもたびたび話題に上がる、有名な心霊スポットだった。まあ、あれだけ恐れられていた怨霊の正体はいずみさんだったのだが。
「あと半年後、ここが取り壊されたらどうします?」
前から気になっていたことを、噴水の縁に座るいずみさんに聞く。この場所が落ちぶれたのは誰のせいでもなく、噴水の取り壊しが決まったせいだった。
「あたしは長いし有名やからな。どこでも雇ってもらえるやろ」
やはり僕だけが、再就職に悩むことになるのか。深く長い溜息が生まれた。ベテランのいずみさんと新人の僕では、当然キャリアが違う。学校のトイレでバイトでもしようか。でも、成人男性の霊は雇ってもらえないかもな。
「ここを離れるの、悲しくないんですか?」
「せやなあ」
遠い目をして続ける。
「悲しくはないな。でも、面倒臭いわ。ここは人通り多いから見つけてもらえるし、仕事も楽やし。ここの前に努めてた岬は最悪やったで。やっと人が来たと思っても、上司に譲ったりしてな。あんたも、ブラックには気ぃつけや」
そう言って、顔に薄っすらと皺を浮かべて微笑む。
いずみさんには生前の記憶がない。もう何十年ものあいだ名前すら思い出せないという。どの霊も最初は記憶がないのだが、こうして働くうちに徐々に取り戻していく。しかし稀に、彼女のような症状を持った者がいるのだ。
だから「いずみ」は本名ではない。憩いの泉にいるから、いずみさん。
「でも、凄いっすよ。たったひとりで大都会の地下街を心霊スポットにしちゃうなんて」
本心だった。いずみさんが座るように勧めてくれたので、言われたとおりにする。綺麗とは思えない水で濡れた噴水の縁に、生きた人間が座ることはない。実体がない僕たちには好都合だ。尻も濡れないし、視えない人が上に座ってくることもない。
「まあ、あんたは若いし優秀や。あたしが先に決まったら紹介したるから、安心しや」
年季の入ったトレンチコートが、長年の努力を物語っている。毎日の仕事は大変でも、いずみさんに褒められるのは誇らしい。
「一個アドバイスするなら、服とか髪の毛はクチャクチャにしたほうがええな。ほら、こうするより」
彼女はこちらを向き、自身の長い黒髪を手櫛で整えた。
「こう、汚らしくするほうが気味悪いやろ。とりあえず、頭はボサボサにして胸元開けてみ」
そう言って頭を抱え、せっかく整えた髪をぐしゃぐしゃに掻き毟ってから顔を上げた。そこには、いつものいずみさんの姿がある。
「へえ、勉強になります」
言われるがままに頭を掻き毟り、上まで閉めていたシャツのボタンを四つ開けてみた。なるほど、コートの皺や汚れも、計算してつけられたものだったのか。
「ええ感じやね。自分のことは自分で、ちゃんとプロデュースしや」
はい、と返事をして、しばらく無言の時間が続いた。
雑踏に目を向けると、髪で顔を隠した白いワンピース姿の女性の霊が見えた。十五歳から二十五歳までの女性が最初に支給されるのが、あの白いワンピースだ。それ以下はブラウスと赤いサスペンダー付きのスカートだったか。性別関係なく服装を選択できるよう、ジェンダーフリー化運動をしている団体もあると聞いた。
彼女が次の衣装に昇格できないフリーターなのか、あえて着ているだけなのかは知らない。
僕も次は地縛霊以外にしてみようか。そうなると、取り憑きとか、守護とか。守護霊の類は競争率が激しいから無理だろうし、取り憑きも人間相手は大変そうだな。人形の呪いを題材にした映画が流行ったせいで、人形もぬいぐるみも競争率が高いと聞いた。
生きている間のホラー映画はただの娯楽でも、僕たちにとっては営業妨害。たまったもんじゃない。
「そうや、もう写真の映り込みかたって教えたっけ?」
不意に話しかけられて、鬱々とした長考を断ち切った。自分で考えていたことなのに、ほっとしているのがおかしい。
「いや、写真はまだです。でも、そこのガラスに映り込む方法は教えてもらいました」
地上へ続く出口、ガラス戸を指して言った。それでもなお、いずみさんは思い出すのに少し時間がかかったようだが、すぐに表情を明るくした。
「せや、せや。なかなかスジ良かってんな。じゃあ今日は、機会あったら写真教えるわ。要領は同じやから、リラックスしてやりや」
僕の勝手な妄想だが、生前のいずみさんは有能なキャリアウーマンだったのではないかと思う。仕事を教えるのも、僕のやる気を引き出すのも上手い。
「この辺で写真撮ってる人、たまにいますもんね」
地下街の中心かつ噴水が目印になる憩いの泉は、待ち合わせスポットとしても利用されている。そのためだろうか、主に若い女性が記念撮影していることが頻繁にあった。
「あれ、自分撮りって言うんやっけ。わからんなあ、最近の若い人は」
いずみさんが年寄りくさい口調をわざとらしく真似て言った。
「いちいち写真を撮るなんて理解できませんね。僕たちからすれば助かりますけど」
「いやあ、実はそんなこともないねんな。特に最近は困るわ」
意外な反応に驚き、どうしてですか、と聞く。すると、彼女は唇を尖らせたまま続けた。
「携帯の写真でな。猫とかの耳ついて可愛く映るやつあるやろ。あれ、やめてほしいわな」
少し前から、若者の間で流行っている写真加工アプリ。顔認識機能を使って自動的に可愛らしい動物の耳がつくものから、実物よりも目が大きくなったり美肌に映ったりするものもある。簡単に僕が説明すると、いずみさんは顔を顰めて唸った。
「なるほどな。あんな変なもん使われたら、こっちはたまらんで。昔のカメラはボヤッとして、映るだけで怖がられたのに。今は綺麗に映るだけでも怖さ半減。それで動物の耳までつけられたら、もうな」
可愛くデコレーションされた幽霊を想像して、僕は思わず吹き出す。
「はは、たしかに。それにしても、色々と大変ですね」
「文句言うのは早いで。ヒヨッコ」
にやついた彼女にこめかみを小突かれる。拳はそのまま通過し、頭の中心まで進んで止まった。
「すみません。やめてくださいよ。僕、まだ貫通されるの慣れてないんですから」
するりと手が引き抜かれ、猛烈な違和感が残る場所を撫でる。どういうわけか、他の霊には干渉できない。それでも、自身や無機物に触れられるのがせめてもの救いだ。こうして座ることだってできる。
「ごめん、ごめん。ほら、そろそろ仕事の時間やで」
いずみさんが立ち上がって、首を鳴らす仕草をした。実際には鳴らないけれど。
「あ、さっきのやけどさ。やっぱり悲しいで、取り壊しになるんは。あたしは生きとったころの記憶戻らんし、こっちが人生みたいなとこあるから」
痩せて尖っているせいか、どこか寂しそうに見える彼女の背中を軽く叩いた。手が勝手に出てしまったのだ。もちろん感触はなく、手のひらは空振りするばかり。
「ここがなくなっても、いずみさんって呼びますね。いずみさんのこと」
「なんやの、急に」
彼女は豪快に笑って、髪を汚らしく整え直した。
「そうだ。加工アプリで撮ってる人のカメラには、姿そのものを映さずに顔認識だけされるっていうのはどうでしょう」
なにもない空間に動物の耳だけが浮かんでいれば、きっと驚くはず。我ながら名案だ。
「おお、流石やね。あとで試してみよか」
またも褒められて、僕の心は単純にも少し軽くなった。転職は、憩いの泉での仕事をしっかりと完遂してから考えよう。
「さあ、今日もがんばるで」
待ち合わせをしている高校生の背後に立ったいずみさんの姿は、今日も恐ろしく輝いている。
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