狼男の姉

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 弟を一人倉庫に残し家に戻ると、リビングの方から味噌汁の匂いがしていた。 「ただいま」  配膳をする父親に改めて声をかける。 「終わったよ」 「いつも悪いな」  父の顔は冴えない。いつものことなので気にせず食卓につき、テレビをつけた。  夕食は鮭の塩焼きだった。それに青菜の煮浸しに、根菜のキンピラに味噌汁に漬物。弟が狼人間になってから、食卓に肉が並ぶことが、めっきりと減った。まるで何かの罪滅ぼしのように。付き合わされるこちらの身には堪らないが、食事を作ってもらう身なので文句は言えない。  食事だけではない。二年前に弟の慎夜が狼人間になってから、私たち家族は大きく変わった。  まず母の不在である。弟を溺愛していた母は、狼となった弟を見たショックで精神を病み長期入院することになった。  ついで、弟が実家に帰ってきた。東京のITベンチャーで働いていた弟は、逃げるように地元に帰ってきた。仕事も友人も恋人も捨てて。今は農業を営む父を手伝っている。  父も変わった。そもそも父は、五十を過ぎるまで目玉焼きひとつ作ったことのない人間だった。家事は全て妻任せ、昔ながらの家父長制を疑問に思うことなく生きてきた人間だった。母が不在の今、父は家事を一手に引き受けている。そして時折、私の方を、機嫌を伺うかのように上目遣いで見つめている。  父から茶碗を受け取り、箸を持った。父は斜め向かいの席に座る。互いの間に会話はない。静かな食卓に、ニュースを読み上げるキャスターの声が白々と響く。  あらかた食べ終わった時だった。テレビのなかの若い女が読み上げたニュースのヘッドラインに思わず箸を置いた。 「続いて特集です。本日の特集は、狼人間症候群研究の現在についてです」  チャンネルを変えようとリモコンに手を伸ばす。しかし伸ばした右手がリモコンに触れる前に、父親に手を抑えられた。昔から変わらない、無骨な大きな手。父は首を振った。 「観るの? 大丈夫?」 「ああ」  テレビでは日本に百人程度はいると見られる狼人間たちについての解説と、狼人間化のプロセス研究が細々と続けられているということが紹介されている。大学の准教授だという白衣を着た男が言う。 「猿を使った動物実験では、狼人間症候群の患者の血を摂取した猿の狼化が確認されました。従来、狼人間症候群は、狼化した患者に噛まれることにより罹患すると考えられておりましたが、今回の実験で別の発症プロセスが存在する可能性が示唆されました。また、猿の狼化は、十六夜の夜に起こり、満月の夜以外にも狼化する患者がいるということとの関連性を調べているところです」  そこで画面が切り替わった。父親の表情を盗み見る。額にわずかにしわを寄せ、奥歯を噛み締めていた。やがてゆっくりと瞬きをし、小さくため息をつく。 「慎夜は、狼男に噛まれてなどいないと言った」  父は言う。 「でも血を飲んだとも思えないけど」  私はそれに答える。 「そうだな」  父はもう一度ため息をついた。 「狼人間症候群の研究はまだ始まったばかりです」  狼人間を見たことなどないであろうキャスターの一言で特集は終わった。  テレビを消した。静寂。再び箸をとる。残りの夕食を食べる。  ふいに寒気がした。  顔をあげる。地を震わすかのような狼の遠吠えが聞こえた。  思わず顔をあげると父と目が合った。 「ごめん、猿轡、はずれちゃったみたい」  父は小さく首を振る。  再び遠吠え。つられた近所の犬の吠え声も聞こえる。  遠吠えは弟の声だ。頭では分かっている。しかし体じゅうに鳥肌が立っていた。
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