狼男の姉

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 朝。早起きの父に見つからないように、こっそりと勝手口から外に出る。夜明けの直前。東の空が白い。必要な道具を、缶ビールのおまけにもらったクーラーバッグに入れたことを確認しながら倉庫に向かう。  倉庫の扉をゆっくりと開く。コンクリートの床から冷気が上がってくる。倉庫のなかには獣の臭いが満ちている。  倉庫の奥の暗がりに、昨日縛った姿勢のままの弟がいる。声をかける。弟は動かない。ゆっくりと近づく。気を失ったように眠っていた。傍に口に噛ませたタオルが落ちている。狼化して暴れたのだろう。体のあちこちから、血が出ていた。  今日は切らずに済みそうだ。  クーラーバッグに入れたフルーツナイフの重みを感じる。  弟のそばにしゃがみ込み、改めて深く眠っていることを確認した。これだけ深く眠っていれば、問題ないだろう。プラスチック製のサンプル瓶を取り出す。左肘の少し上が深く切れている。サンプル瓶の口を開け、傷口に押し当てる。赤黒い血が流れ出る。瞬く間にサンプル瓶は弟の血で満ちた。傷口から離し、しっかりと蓋をする。手早くクーラーバッグにしまう。クーラーバッグには凍らせた保冷剤を入れている。弟の腕からは、血が流れ続けている。  弟を見る。まだ太陽が昇っていないのだろう。わずかに開いた口から見える犬歯は、人間のものではなく、狼の牙そのものだった。  倉庫を出る。辺りははだいぶ明るくなっていた。ちょうどその時、家の前の小道に白の軽バンが止まった。いかにも社用車といった車だが、社名はどこにも書いていない。  運転席から中年の男が降りてきた。中肉中背で、どこか猿を思わせる顔つきの男だった。私は彼をよく知っている。 「おはようございますー、どうでしたか?」  営業スマイルというにはニヤニヤとしすぎている笑顔で男は言った。私は黙って頷いてみせた。 「お、いいですねー」  クーラーバッグから血の入ったサンプル瓶を取り出して渡した。男は後部座席のスライドドアを開け、そこに格納している金属製のクーラーボックスにサンプル瓶をしまう。  そして私に厚みの封筒を渡した。ちらりと中を見る。しわしわの一万円札の束。 「ちょうど五十枚ですよー」  男の言葉に頷いて見せた。私は男が、そのサンプル瓶を百万円で売っていることを知っている。なにしろ私も二年前、この男から狼人間の血を買ったからだ。さすがに半分は取りすぎなのではないかとも思うが、他に販路を知らないので文句は言えない。 「また来月、お願いしますねー」  血液の採取が毎回うまくいくわけではなかった。むしろ失敗することの方が多い。半年に一度ほどの成功率だろうか。それでも手取り十五万の私には、時折手に入る五十万は、弟の狼化に伴う思わぬボーナスだった。 「儲かってる?」 「ぼちぼちでんなー」  関西人でもないくせに、と思いながら男の笑い顔を見た。男に百万円を払ったときのことは鮮明に覚えている。  なけなしの貯金だった。目の前の男の言葉を信じて良いものかどうか分からなかった。いや、十中八九、詐欺だと思った。こっそりと血を飲ますと、人を狼人間に出来るなんて信じられなかった。 「血で狼人間が感染するなんて聞いたことないんだけど」 「ま、私も宣伝はしないですし、飲ませた当人が言いふらすわけもないですし」 「じゃあ薄めて社食にでも混ぜたら、会社の人みんな狼人間にできるの?」 「いやいやいや、容量ってもんが肝心なんです。多すぎたら腹を壊して終わり、少なかったら効果なし。ぴったり一人前の容量で、百万円です。社食に混ぜるなら、人数分買ってもらわないとねー」  そんなお金ないと首を振ると、でも一人分くらいはあるでしょうと男は言った。 「でも、なんで私には、こんなこと話すの?」 「だってお姉さん、憎くて憎くて堪らない人間がいるでしょう?」  私の脳裏に父と母と弟の顔が浮かんだ。三人の中でも弟の、運動も勉強もでき、誰とでも仲良くなれるうえ、誰よりも優しい弟の顔が一番濃い影をつくった。  気がつくと、私は男に百万円を渡していた。
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