49人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ
「信じられない……まさかお前が……」
その続きを俺は何も言えなくて、ただ目を何度もしばたかせた。羊を置いて、マルチノの傍らに歩み寄る。
「フーゴ。僕を軽蔑したかい?」
マルチノは澄んだ青い瞳に涙を浮かばせて、俺を見上げた。
その瞳を見つめて、俺は言い聞かせるように穏やかに言った。
「大丈夫だ。このことは誰にも言わない。誰にだって、人には言えない隠し事のひとつやふたつはあるものだよ。だから、気にするな。それに俺だってマルチノのことを想っていた……ずっと……」
胸の高鳴りと共に手を伸ばし、彼の柔らかな金の髪を撫ぜた。もう不思議と、トンスラへの劣情が起きない。それよりもマルチノを守りたい、愛しいという思いの方が強かった。
「秘密が人を変えることもある。喜びも悲しみも深くすることがあるんだ」
そう言うと、俺は涙で潤んだ目のマルチノの、震える細い肩に手を置いた。彼に向かって、力強くはっきりと言う。
「謎のトンスラ剃りはもう現れない。もしもう一度現れたって、お前のトンスラは、俺が守ってやるよ」
「フーゴ!」
感極まったマルチノが、俺に飛びつくように抱きついてきた。俺もその華奢な身体を抱きしめる。
温かく柔らかな彼の身体を抱きしめたとたんに、俺は自分の中にある、トンスラ剃りへの歪んだ欲望が消えてゆくのを感じた。まるで春の暖かい風に吹かれて、氷が解けてゆくように。
誰も居ない春の羊小屋で、しばし俺たちはまるで一つの塊のように、互いを抱きしめあっていた。周りでは羊達が鳴いている。それを聞きながら、俺の胸には、世界中への感謝の気持ちがあふれた。
さようなら、謎のトンスラ剃り……。
俺は心の中で、過去の自分にさよならを告げた。
こうして、修道院に再び平和が訪れた。
その後、礼拝所にある聖像の手の中に、一本のかみそりが握られているのが見つかった。俺が置いたのだが。
聖像の顔は、事の顛末を慈しむように笑っていたという。
(おしまい)
最初のコメントを投稿しよう!