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およそ一カ月前、晋は大学にあるカフェのテラス席で一人、コーヒーを飲んでいた。
初夏の風が頬を撫でる。もうすぐ夏休みだというのに何の予定もない。真っ白のスケジュール帳を眺めながら溜息を吐いた。
みんなでワイワイ仲良く楽しむタイプではない。人付き合いが嫌いで、コミュニケーション能力もやや欠けている自覚はある。でも流石に長い大学の夏休みになんの予定もないとなると、自分で自分が情けなくなる。
大勢の仲間でキャンプや旅行とまではいかなくてもいい。せめて、親しい友人とお出かけするぐらいの予定が一日くらいあってもいいのではないか。
それが無理なら、一人ででもいいから映画に行くとか、遠出するという予定ぐらいあってもいいはずだ。しかし、今のところ予定は真っ白だ。
一人でなにかしようにも、観たい映画もなければ行きたい場所もない。
寝て、起きて、食べて、好きな本を読んで。時間の感覚が消え失せてしまうような、自堕落な生活をしている自分の姿が今から浮かんで虚しくなる。
氷が解けてすっかり薄くなってしまったアイスコーヒーを啜る。
口に含んだ液体はもはやコーヒーではない。水増しされて、薄い苦みと酸味が不快な後味として残るただの茶色に着色された水と化していた。
持ち上げたグラスをトレイに戻して、晋は席を立とうとした。
その時、声もかけずに正面の席に時夜が座ってきた。晋は俯けていた顔を億劫そうにあげる。
「どうした晋、腐った顔して。さては、前期のテストが芳しくなかったんだな?」
ニヤニヤ笑いながら顔を覗き込んでくる時夜を、晋は鼻で笑う。
「お前と一緒にするな。俺はテストでヘマなんざしねぇよ。楽勝だ」
「あっ、言ったな?だったら一学期の成績見せてみやがれ」
「勝手に見ればいい。ただし、吠え面をかくことになるぞ」
鼻息を荒くして詰め寄ってくる時夜に、晋はぞんざいに成績を投げ寄越した。
優、良、可、不可の四段階で評価される成績表には、見事に優ばかりがずらりと並んでいる。良が一、二個あるだけで、可や不可など一つたりともない。
完璧な成績表を見て時夜が驚いた顔で大きな声を上げた。
「うおっ、なんだよこの優等生な成績は!優ばっかじゃねぇかよ!いつもつまんなさそうに講義受けていて、教授の話を聞いてんのか聞いてねぇのかわからない授業態度のクセに」
賑やかな奴だ。人の成績を学校のカフェテラスで暴露する無神経さに呆れはするけれど、時夜の飾らない自然体な様子は嫌いじゃない。気に入っている。
「俺はお前と違って、つまらなそうな顔をしていても、ちゃんと授業を聞いている。睡眠学習している奴と一緒にするな」
「ちぇっ、オレと似たり寄ったりの悲惨な成績を期待してたのによ」
心底面白くなさそうな顔で時夜が成績表を返してしてきた。
受け取った成績表を鞄にしまうと、晋は頬杖をついてぼんやりした表情を浮かべる。時夜が眉を顰めた。
「成績は良好。これから楽しい夏休み。なのに、なんでオマエはそんなにさえねー顔してんだよ?」
「別に。そんな顔してねぇよ」
「いーや、してる。さてはカノジョにフラれたな?」
「フラれるもなにも、彼女なんざいねぇよ」
「寂しいオトコだな。カノジョいねーのかよ」
「寂しくない。面倒だから今はいらねぇな」
つれない晋の言葉に時夜が何か言うよりも先に、別の低い声が反応した。
「今はいらねぇ、か。普通の男が言ったらただの負け惜しみだけど、美形の月島が言うとかっこいいんだよな。よっ、色男ってか?」
いきなり会話に割り込んできた低い声に振り返ると、ジャージで首にタオルをかけた浅倉圭吾(あさくらけいご)が笑っていた。
さっきまで運動をしていたのか、額に汗が光っている。汚いというよりは爽やかに見えるのは、圭吾が精悍な顔立ちをしているからだろう。スポーツ刈りの短い髪がよく似合っている。
「からかうんじゃねぇ。お前だってモテるだろ、サッカー少年」
唇の端を吊り上げて晋がからかうと、圭吾は白い歯を見せて笑った。
「まあな。でもお前ほどじゃないって」
圭吾は机にコーラとボリュームたっぷりのベーコンレタスバーガーとポテトフライが乗ったトレイをテーブルに置き、隣の机から椅子を持ってきて、無理やり二人席に入り込んできた。
時夜が不貞腐れた顔を圭吾に向ける。
「なにちゃっかり入ってきてんだよ、圭吾。オマエと晋が揃ったらオレは完全に引き立て役になっちまうだろーが」
「ははっ、拗ねるなよ椿木。俺だって、月島と比べたらかっこいいなんておこがましい。中の上ぐらいの顔でしかないぜ」
「謙遜すんなよ。あーあ、オマエらはいいよな~、女の子選びたい放題じゃねーか。オレもそんな立場になりてーよ」
時夜が机の上に突っ伏し、狭い机を半分ほど占領する。
「おい、邪魔だ。時夜」
邪険にすると、時夜が恨みがましい目で見上げてきた。
「そんで晋、成績優秀、女にもモテるオマエがなんで憂鬱な顔してるわけ?」
「つまらねぇからだよ。夏休みだってのに一つも予定がない。したい事も思いつかないんだ。授業があった方が退屈しなくてすむ」
「予定がないって、何言ってるんだよ。月島も旅行に来るんだろ?」
圭吾の言葉に晋は顔を顰め、首を捻った。
「なんだよ?旅行って」
「あれ、聞いてないのか?椿木が夏休みに同じ学部で仲のいい連中を何人か誘って、島旅をする計画を立てたんだぜ。俺も誘われて行くことにしたんだ。なんだよ、お前ら仲いいから、ぜったい月島には声かけてると思ってたんだけどな。誘ってないのか?椿木」
珍しく時夜が気まずそうな顔で晋から視線を逸らす。
「ああ、声かけてなかったわ。忘れてた」
あっけらかんとした声だったけど、そのなかに僅かにだが苦々しさが混じっていることに晋は気付いた。
もともと他人の感情の機微にはわりと敏感な方だ。加えて相手がよく知った時夜となれば、些細な変化さえも感じてしまう。
そんな自分とは正反対に、鈍い圭吾はまったく時夜の感情の動きに気付いていない。時夜は感情を素直に表現する一方で、肝心なところで自分の本音を隠すのが上手いから無理もない。
本気で時夜がうっかり自分に声をかけるのを忘れていたのだと信じ込んでいる圭吾が羨ましい。
「そっか。仲良い月島を誘い忘れるなんて、椿木はおっちょこちょいだな。じゃあちょうどいいから、いま誘おうぜ。行くだろ?月島」
別に行きたいわけじゃない。仲がいい時夜と圭吾はいいとして、いくら暇でも友達じゃない連中と旅行するのなんて嫌だ。
時夜が誰に声を掛けたか知らないが、晋は同じ人文学部に彼ら以外に一緒に旅行するほど仲がいい奴は一人もいない。行っても楽しめそうにない。
だが、時夜から声を掛けられなかったということがひっかかった。
だから碌に考えもせずに、圭吾の誘いにすぐに頷いてしまった。
どうして俺に一声かけてくれなかったのかと、時夜に対して少しむきになっていたのかもしれない。
「俺も同行させてもらおうか。もちろんいいよな?時夜」
「おう、もちろんいいぜ」
頷いた時夜は、明るくお調子者のいつもの時夜だった。そのことに密かにちょっとだけ胸を撫で下ろす。
きっと自分を誘わなかったのに深い理由なんてない。たまたまだ。
表面上はそう納得しながらも、棘が残ったようにすっきりとしない気分だった。
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