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第一章
ベタつく潮風に攫われるさらりとした黒髪を搔き上げて、月島晋(つきしましん)は遠くを見つめた。
一面に広がる透き通ったオーシャンブルー。遥か彼方は空の蒼と海の碧が溶け合っている。それ以外には何もない。
デッキを歩いて船の後部へ移動すると、手摺に肘を掛けて、晋は進行方向とは逆を見詰めた。
海に白い泡で軌跡を描きながら、船は陸地からどんどん離れていく。
薄汚れた木の桟橋、小さな船がポツポツと停まっているだけの寂れた港が小さくなって見えなくなった。頭上ではウミネコが馬鹿にするようにギャアギャアと喚いている。
「なーにぼんやりしてんだよ。船酔いか?」
隣にやってきて手摺に凭れる青年に目を向ける。
癖毛な灰色の髪に灰色の瞳。彼は同じ人文学部の友人、椿木時夜(つばきときや)だ。
晋が答えずにいると、時夜が更に尋ねた。
「それとも、島に行くのが怖くなっちまったか?」
ニヤニヤ笑う時夜に、晋はふんと鼻を鳴らす。
船が向かっているのは、四国のずっと下に位置する、地図にも載っていないようなほんの小さな無人島だ。
島の名は鬼月島(おにづきとう)。正確な名前かどうかは知らないが、ネット上ではそう呼ばれている。その島には増築が繰り返された風変わりな屋敷があって、中に入った者が行方知れずとなったとか、凶悪な化け物が住んでいるという噂が絶えないらしい。
増築が繰り返された屋敷。アメリカにもそういう話があった。銃を開発した会社の社長夫人が幽霊に唆されて建て増し続けた、あの有名な屋敷の話だ。
晋はそんな噂など微塵も信じてない。それこそ、アメリカの奇妙な増築屋敷を文字って誰かが作った話に違いない。だから怖いなんて一瞬たりとも思わなかった。
そう、怖くはない。ただ、なんとなく嫌な匂いがする。
でも、そんなことは杞憂に違いないと頭では理解しているし、とるにたりない不安だ。
そんなことよりも、現実的にもっと気にかかっていることがあり、つい顔が暗くなる。
「別に、なんでもねぇよ」
時夜に対して素っ気なく答えると、晋はまた遠くを見詰めた。
真っ青な景色を眺めていると、胸にしまい込んでいた不安が不意に脳裏を過る。
鬼月島への旅行を計画し、同じ人文学部の三年生の連中を誘い集めたのは、ミステリー研究部という妙なサークルに所属している時夜だ。
旅行の目的は鬼月島の噂の真相を解き明かすことだそうだ。
情報の氾濫している時代だ。ガセネタなどそこら中に転がっている。その中から希少な本物を見つけ出すのは非常に困難だ。いかがわしい怪奇談となれば、いっそう本物を探すのは難しいだろう。
たかがサークル活動で歴史に残るような本物のミステリーを発見しようなんて気概は、恐らく時夜にはない。
大学一年からずっと一緒に過ごしてきて、彼の性格はよくわかっている。
鬼月島に関する噂の解明は時夜にとって単なる建前にすぎない。おおかた、ミステリー研究と称して仲間とワイワイ旅行したかっただけなのだろう。
ようするに大学での華やかな思い出づくりがしたかっただけというわけだ。
ミステリー研究部のサークルの連中を誘わずに同じ人文学部の同級生を誘った理由は、時夜いわく
「ミス研の連中って暗いヤツ多くてさ、一緒に旅行してもつまんねーんだよな」ということらしい。
こんな時に集まらずして、なんのためのサークルなのだろうか。甚だ疑問だ。
ちなみに晋は、時夜には旅行に誘われていない。
親友などというベタな言葉を使う気はないが、間違いなく時夜といちばん仲がいいのは自分だと自負していた。
しかし、時夜は自分を旅行に誘ってくれなかった。
晋を誘ったのは別の人間だ。
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