第三部

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 アパートの玄関前まで来ると、ちょうどメイが階段を上がっているところだった。背中を向けていたので私の存在に気づく様子もなく、小さく安堵した。  しかしすぐに違和感を抱く。メイが居住にしているのは、一階玄関横すぐの部屋のはずだ。  心臓が高鳴り変な汗が出てきた。  どうしてメイは階段を上がったのだろうか。  以前も、階段上から降りてくるメイに鉢合わせした。私が探索に出かけた時だ。あの時は特に気にしていなかったが、よく考えれば不思議だ。階段上は、私が居住にしている部屋と空き部屋、それに屋上しかない。  物音を立てぬよう細心の注意を払いながらアパート内に入る。階段を踏み外さないようにしっかり足元を確認していたことによって、またもや現実が見えてしまった。  階段には血痕がついていた。赤黒くて、絵具にも見えない。それも上へと伸びるように続いている。明らかに血の流した何かが階段を上った時に付着したもののように見えて、背筋が凍りついた。  だが表面はすでに乾いており、以前から付着しているようにも見える。どれだけ周りを見ていなかったんだと溜息が出そうになる。  すでに乾いているとはいえ、血痕を避けて階段を上がる。  二階へと辿り着いたが、メイの姿は見られない。かすかに頭上から聞こえる足音からも、三階へと続く階段を上がっているようだった。目的は私の部屋ではないらしい。ますます理由がわからない。  どう動くべきか悩んでいると、キィという扉を開けたような音が聞こえてきた。音の離れ具合からも屋上の扉のように感じられる。  地図で存在を知ってから少し気になっていた。あまり屋上といった場所に馴染みがないので、機会があれば一度上がってみようと考えていたのだ。  しかし、先ほど見たメイの様子が妙に引っかかる。  今上がると、鉢合わせしてしまうのは確実だ。メイが降りてきたとわかってから私も屋上へ行ってみよう。図鑑の重さで腕もだるくなってきたので、一旦居住にしている二○一の部屋へ戻った。  私はソファに腰をかけた。ずっと抱えていた図鑑と花も机に置いた。洗面台に置いてあるティッシュを数枚手に取り、花と本の間に挟むようにセットして、押し花の準備を手際よく進める。図鑑を閉じて、その上に重しとして何冊か置き、準備を完了した。  私はソファに身体を預けて、溜息を吐きながら脱力した。ずっと緊張の糸が張っていたのか、かなり疲労を感じた。  少し眠ろうと目を閉じた瞬間、気配を感じて振り返る。が、誰もいなかった。  以前から感じていた違和感がほぼ確信に変わった。ここまでくると、もはや偶然でも気のせいでもないだろう。  このアパートには、誰かいる。  メイは今は自分しか住んでいないと言っていたが、本能的に人の気配を察知している。  湧き上がる緊張、恐怖、そして、疑心―――。  身体的にも精神的にも疲弊していたが、違和感が確信に変わってからは、むしろ気が抜けなくなった。ドーパミンが出ているのかもしれない。もうこうなれば、とことん突っ込むしかない。  そういえば一番身近であるこのアパート内をまともに探索したことがなかった。この機会に一度、アパート内を探索してみよう。  メイが屋上から降りてくる音を聞き逃さないように扉に耳を近づけると、僅かに地面を擦るような音が聞こえてきたので、少しだけ扉を開けた。  メイが三階から降りてるところだった。表情は見えないが、先ほどよりも足取りが軽くなっているように見える。数秒後、一階の階段を降り始めたので扉を開けて外に出た。  屋上に何かあるのだろうか。  緊張が走る。どうして緊張するんだ。ただ単に屋上を見に行くだけじゃないか。それなのに足がすくんでしまっている。こんな経験をするのは初めてだった。  当然のことだ。今まではそういったことは全て避けて生きていたんだから。でも、ここでは現実を知る覚悟を決めた。私はこの世界を、ここの住民を知りたい。だから今は死にたくない、とすら思ったんだから。  固まっていた足が溶解されて動き始める。そして気づくと屋上へと続く階段を上っていた。  三階から続く階段を上がり切ると、目の前にあったものに目を丸くした。  黒い布地に黄色で大きく「立入禁止」と書かれたカーテンがかかっていた。カラーリングからも文字からも、明らかに立入禁止を示す警告がそこに掲げてある。  だが、先ほどメイが屋上の扉を開いた音を聞いている。三階の上はここしか通じておらず、このカーテンの奥に屋上の扉があるだろうことは、ほぼ確実だった。  私は悩んだ。目に見えて警告が掲げられているのに、それを無視して屋上に上がるのか。だがここまでわかりやすく禁止されることに、かえって気になり始めていた。この奥に屋上があるのは確実だし、メイが屋上に上がったのもほぼ確実だからだ。  そこで苦笑する。あぁ、これこそがカリギュラ効果なんだな。  私はカーテンの裾をつまんだ。  途端、後ろに気配を感じた。 「――――――何してるの?アリス」  私は脊髄反射で振り返った。  新たに知ったことだが、あまりにも恐怖しすぎると、声が全く出なくなるらしい。
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