第三部

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「何話してるの?アリス」  私の背後にはメイが立っていた。振り返ると何かを投げた後のように手を前方に伸ばしている。その眼光はもう何度目かになる、闇の抱えた重いものだった。 「メイ……」 「何、この人。裏街道の害でしかないよ」  そう言いながら、メイはミカの元へと歩いていく。  ミカは目を見開いて静止している。額からはドクドクと鮮血が溢れていた。かすかに息があるようで、少しだけ口をパクパクさせていたが、やがて動かなくなった。  その瞬間、胃から何かがこみ上げてきて、思わず近くの茂みに吐き出した。  屋上で見たものは、死体とはいえ見た目はきれいだったからまだ脳がそれと認識していなかったのかもしれない。  だが今、私が目で見ているものはその時と状況が違い、はっきりとそれとわかる凄惨なものだった。  あまりにも唐突に、それもダイレクトに見てしまったことで身体が拒絶反応を起こしていた。  「や、やだ……どうして……」 「どうして?アリスに悪影響だからだよ。もし今の言葉でアリスが帰りたいって思ったらどうしてくれんのさ。ほんと迷惑だね」  メイはそう言うと額に刺さったハサミを抜き、そして今度は胸めがけて躊躇いなく腕を振り下ろした。ズブッという鈍い音と共に真っ赤な鮮血が吹き出す。私は口を押えて顔をそむけた。 「メ…メイ……やめて」 「どうして?この人が大事なの?自分より大事だって思える人がいるの?」 「メイ、どうしたの…?」 「何でみんな裏街道を否定するの?どうして邪魔ばかりするの?ボクはただ構ってほしいだけなのに!」  メイは眉を下げて悲しそうな顔をしながら腕を振り下ろしている。その度に血が噴き出し、辺りは真っ赤な池のようになった。  私は直視できなくて顔を逸らした。視覚的にもメイに向き合って止めることができない。 「メイ。その辺にしておけ」  その瞬間、どこからか声がした。いつもの冷静な声にも今はむしろ安心させられた。  声のした方へ向くと、案の定ガラクが立っていた。 「ガラクも何。邪魔しに来たの」 「そんなんじゃない。文字を教える話だっただろ」  ガラクは脇に抱えていた数冊の本を見せるようにする。そこにはいつもの絵本ではなく、小学生用のドリルがあった。  うーっと唸っていたメイだが、しばらくすると表情を変えて「そうだったね」と笑顔になる。頬にべったりとついた血によって、その笑顔がかえって狂気に見えた。  私は黙ったままガラクを見る。彼は私の視線に気づきながらも構う様子はないが、いつものように無視しているのではなく、今は何も言うな、と言っているように捉えられた。   ガラクは踵を返し、街へと歩き出す。 「とりあえず風呂だ。帰るぞ」 「はーい」  メイはガラクに続いて歩き出す。  ガラクはあまりにも冷静だ。屋上の探索の時には、すでにメイがこのような一面を持っていることを知っていたのかもしれない。だからこそ屋上の光景を目撃しても慌てることなかったのではないのか。  遊び終わった子どものおもちゃを片づけるような自然な振る舞いだった。  先を歩く二人に遅れて私もアパートへと歩き始める。  少し歩いて、この位置からなら衝撃も弱いだろうと振り返る。  ミカらしき身体がある場所は、真っ赤な池のようだった。もうピクリとも動かないが、それでも血の鮮やかさが、先ほどまで生きていたことを物語っていた。  かつての友人がこのような状況になってもなお、死に対しては冷静に向き合っていた。  ミカは私のことを強い人だと言った。でもそれは違う。強い人は考えることを諦めたりなんかしない。私は現実に立ち向かう意欲すら湧かなくなったから、一番簡単な逃げの方法を取ろうとしている。 「結局、どこまでも他人行儀なんだよね……」  胸の前で小さく手を合わせると、足早にガラクたちの背中を追った。
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