第三部

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 黙々と手を動かした。今は何も考えないようにしたいが、どうしても視界に入る。その度に目を逸らしたくなる。  感じるのは、今手当てしている傷よりも、素肌の傷の方が深いだろうということだった。  ガラクは何も言わない。この場の空気がとても重く感じた。  黙って治療に専念したことにより、想像以上に手当は早く終了した。先ほどよりも痛みは引いたのか、ガラクの表情も落ち着きを取り戻している。  ガラクは黙り込んだ私を見て、観念したように腕の裾をまくる。私は再び目を丸くした。  袖から覗いた腕も、脚と同じく無数の傷跡があった。 「まぁ、これが、オレが裏街道に来ることになった原因だ」 「その傷は、事故とかではないよね」  ほぼ確認に近かった。明らかに意図的に傷つけられてるように見えたからだ。 「そうだな。もちろん自分でやったわけでもない。表にいた頃にやられたものだ」  そう言うと先ほどよりも腕をまくり、観察するように自分の腕を見た。 「これは『バカ』……か。こっちは『女好き』。確かにそういった役を演じたこともあったが、オレ自身に向けられた言葉だとしたら腑に落ちんな」  傷跡は見るからに罵倒文句が浮かんでいた。  裏街道では季節は感じられないものの、ずっと肌の露出が見られない服を着ている姿に少し違和感を抱いていた。  一度、ガラクの風呂上り姿を見たことはあったが、あの時はまだ目が慣れてなく、メガネもかけていなかったから、現実が見えていなかった。  裂いたズボンの隙間から覗く脚とまくられた腕だけでもわかる。全身同じような状態ではないのか。  しかし、平然とした様子で傷を確認しているガラクを見て反応に困った。どうしてそんなに軽い調子で言えるのか。  私の心境を察したのか、ガラクはこちらを見ると苦笑した。 「もうずいぶん前のことだ。さすがに今では、過去として受け入れてる」  ガラクは裾を元に戻して、空を見た。 「メイも言っていたように、オレは物心ついた時から芸能界にいた。父親はいなかったが、母が熱心なこともあって仕事も絶えることなくそれなりに貰えていた。だが、それに比例して妬みを買うことが増えた」  ガラクは滔々と語り始めた。  まさかガラク本人の口から、過去の話を聞くことになるとは思わなかった。それほど私の顔に不安が表れていて、気を遣ってくれたのかもしれない。私は黙って耳を傾けていた。 「オレが十七の時だ。仕事で学校に通うことが難しくなり、母から中退するように言われた。だが、小学校の頃からまともに学校に通えていなかったんだ。一日だけでもいいから普通の学生として学校に行きたいとその時初めて我儘を言った。母は初めは立場を考えろと反対したが、しぶしぶ許可してくれた」  そう言って、息を吐きながら目を閉じる。 「今思えば、オレをよく思わない奴にとったらむしろチャンスだと考えたんだろうな。特別扱いすることなく接してくる奴らに心を許してしまったオレもバカだった。詳細には言わんが……結果、身体はこんなありさまだ」  本当に過去として受け入れているのだろう。ガラクの表情には怒りは感じられず、むしろ懐かしさすら滲んでいた。  そんな彼の軽い調子から混乱しそうになるが、語られる内容は到底軽いものではない。 「顔面が傷つけられなかっただけまだよかった。向こうも芸能関係の仕事をしてたやつらしいからな、大ごとにされるのを懸念していたんだろう。元々はオレの我儘から始まったことだ。仕事に影響が出るのだけは避けたかった。だからこの件は隠そうと普段通りに振舞った。幸い当時は撮影がひと段落したところで、それに隠すのは得意分野だったからな、しばらくはバレることもなかった。しかし傷口が塞がってもなお、傷跡が残ってしまった。仕事上、さすがに隠し通すことは難しかった」  ガラクは視線を落として、腕をさするようにする。 「痛々しい傷痕、人に見られる仕事が務まるわけがない。だが大ごとになることで、オレや母に向けられる視線が変わるのが怖かった。だからこのことは世間に流さずに芸能界引退ということで片をつけてもらった。しかしそれから母が豹変した。いつの間にか母は仕事を止め、オレのマネージに専念していたようで、生活をどうしてくれるんだと激昂した。過保護だったのも全てオレを商品として扱っていたからで、仕事のできなくなったオレに関心を示すことはなくなった。傷がつけられた原因にも一切触れることがなかった。そして数日後、錯乱状態のままホームから飛び込んだ」  私は思わず口を手で覆った。ガラクは地面を見ながら目を細めた。 「周りの人間は信用できない。唯一の理解者だと思っていた母も、結局オレを道具としてしか見ていなかった。学校にもまともに通っておらず、名前と顔が知られていることで気軽に行動できない。だが芸能界復帰も望めない。日々の生活に母の自殺の賠償金で仕事で得た金も底をつきそうだった。どうすべきかわからなくなり、気づけばビルの屋上に立っていた」  死ぬなら電車への飛び込みだけはやめろ、とぶっきらぼうに言った。  しかし、すぐに視線を落とす。 「だけど、やっぱり怖かった……。こんな状態でもなお、死ぬのが怖くて、生きたいと思ってしまった。その瞬間、前が見えなくなり、気づけば裏街道に来ていた」  張り詰めた空気。私は息ができなくなっていた。
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