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「鉄は鉄に磨かれ、人は友に磨かれるというよ。課題の期限を毎回守るのは大変素晴らしいけど、たまには友だちと遊びに行ったりしないの?」
春から通う美大の教授はそう言った。
なら「B全用紙に5ミリ角の正方形を描いて、ひたすら塗りつぶす」なんて課題を出さないで欲しい。隣り合う色は同じじゃいけないし、正方形のエッジもシャープでないといけない。それを手描きでだ。
一年時にこの課題の洗礼を受けることで、その後の製作がぐっと楽になるという名物課題。それを残ってやっているのは俺のみだった。他の連中は早々に遊びに行ったらしい。
期限はまだ先だからって、油断してるんだろう。もしくは、金も理解もある親の建てた家の広い自室で作業しているか。
ばーーーーーーーか。
俺の両親は、絵やデザインなんて腹の足しにもならないと思っているクチだ。高3で通った画塾の授業料も必死のバイトで賄った俺とあいつらでは、そもそも友だちになんかなりようがない。
大学に入ってできた友だちは未だ0。いらないとさえ思ってる。どうせ社会に出たら客を取り合うライバルだ。
正方形のひとつを、暗い色で塗りつぶす。
……ほんとはときどき、考えないでもない。
たまには街に出て、色々なものを見聞したほうが作品が良くなったりすんのかな。
いや。やっぱり、つまらない飲み会に出て金を払うのは無駄だ。
会費数千円を稼ぐため、深夜のコンビニで何度ぴっぴっとバーコードを読み込まなければならないと思ってるのか。酔っ払いに、心ない言葉を浴びせかけられながら。
「……休憩するか」
気づけば暗い色ばかりになった画面にため息をつき、俺は立ち上がった。
卒制の時期になれば泊まり込みで作業も当たり前の美大の教室には、冷蔵庫などの備品がひと通り揃っている。そこに、朝バイト先でもらったプリンを突っ込んであった。
窓の外ではすっかり日が傾いて、昼と夜とが入れ替わろうとしている。
バイトまであと数時間。作業を進めなければ。凝り固まった眉間を揉み解しつつ振り返る。
そこに、突然、人がいた。
人に訊かれたら一七〇センチと答えることにしている俺より、確実に一五センチは背が高い。
威圧感を感じないのは、夕方の日差しに透ける、ゆるく癖のある髪に縁取られた面差しが、ごくごく柔らかいからだ。人生で一度も罵声を放ったことなんかありません、みたいな顔つきをしている。
一言で言うのなら、育ちが良さそう。見たところ学生。
でもこんな奴、同期にいたっけ。
「あの……?」
全然気配しなかったけど、いつ入ってきたんだ?
不審に思いつつ声をかけると、彼は弾かれるように面を上げた。
「拓磨!」
えっ、なんで名前。
たぶんというか絶対知り合いではない相手に名を呼ばれ、俺は戸惑う。だがその戸惑いも、続く言葉の前には薄れてしまった。
「おれのこと見えるの?」
――ん?
すらっとしたイケメンが、久しぶりに散歩に連れ出してもらえる柴犬のように相合を崩すのも意外なら、発言内容も想定の範囲外だった。
……もしやこれは「あれ」か。
美大につきものの〈入学したものの周りの才能に圧倒され、おかしなキャラを演じることによりどうにか存在意義を保とうとする現象〉か。
「良かった〜! さっきから誰にも気づいてもらえなかったんだよ〜」
俺の憐みの視線にも気づかず、男は半泣きで抱きついて――こなかった。
できなかった。
そいつの体は、俺の体をすっと通り抜けたからだ。
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