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―――そして誰もいなくなった。
これは、かの有名な推理作家、アガサ・クリスティの作品『そして誰もいなくなった』の一文である。私は今、その本を人気もなく静まりかえった図書室で読んでいた。
元々、ミステリーなどに興味はなかったが有り余るほどの時間を浪費するために立ち寄った図書室でたまたま手に取った。いや、つい手にしてしまったといった方が正しいか。今のこの状況が、あまりにも本の内容と似通っていたから。
私がミステリーを好まないのには幾つか理由がある。その中でとくに大きな理由としては、その内容があまりに非現実的だからだ。
考えてもみたまえ、絶海の孤島に無関係な人々が集められわざわざ、歌に見立てて殺すというのだ。それに何の意味があるという。普通に生きていれば、そんな非現実的なことに遭遇することなどまずない。
どんなに名作、傑作だと周りが囃し立てる作品があっとしても私はその手の作品を読もうとは思わなかった。
では、なぜ、今、私は好まぬ本を手に取り読んでいるのか。先にも述べたが、この状況を頭の中で整理するためでもある。
このミステリーの世界にも似た状況を。
ことの起こりは半月も、いや一月も―――いやいや。正直な話、いつからなのか私もよく覚えていない。この閉鎖された建物の中ではどうしても時間というものが鈍ってしまう。もしかしたら、私自身、どこかがおかしくなっていたのかもしれない。
正確は始まりの日は置いておくとして、私はここに閉じこめられるまではしがないサラリーマンをしていた。成績も良くも悪くもなく、会社も倒産する兆しすらなかった。順風満帆な人生といってもいい。
しかし、それは唐突に終わりを告げた。いつものように定時を過ぎたので退社しようとした時、会社の前に緑色の迷彩服を着た集団が会社に乗り込んできた。彼らが軍隊であることはすぐに分かった。ただ、その目的だけは不明だった。騒ぎになる中、窓の外を見ると軍の車両だけでなく、十数台のパトカーも停まっていた。社内に入ってきたきたのが軍隊だとすれば、会社を取り込んでいるのは警察が中心だった。よく見ると、白い防護服を着た人が列を成して会社に入ってくる。
いったい、何が起きたというのか。私は帰り支度の途中のまま身動きがとれずにいた。他の社員も同じだった。事の成り行きを見守る他ない。やがて、社内に防護服を着た彼らが入ってくると、有無を言う和さず何かの液体を散布し始めた。それが、眠り薬であると気付いた時はもう遅い。強い眠気に襲われ、私を含め全員が気を失ってしまった。
私が目を覚ますと、そこは会社ではない。一人、一人が丁寧にベットに寝かされていた。私は最初、寝ぼけて変な夢でも見ていたのかと思った。仕事に疲れ、自宅に帰る気も起きず近場のビジネスホテルに流れ混み、そのまま寝てしまったと。実際のところ、そう思うのも無理はない。運ばれた場所がホテルを改装したような建物であったから。窓にはガラスではなく鉄板が張られ、ホテルの入り口もしっかりと封鎖されていた。
ホテルには私以外にも他の人がいた。同じ部署の人であったり、他の部署であったりとあの日、会社にいた面々は全てホテルに集められたらしい。
それにしても、何があったというのか。私達は互いに覚えている限りの情報を交換しようとした。どんな些細なことでもいい。この異常な状況を知ることができるのならば。だけど、その必要はすぐ無くなった。私達の疑問に応えるように、スピーカーから音声が流された。
声の主は医療関係者であることを名乗った。それから、
「あなた方は、現在、ある種の病気に罹っています。感染拡大を防ぐ為、隔離処置をとらせていただきました」
実に単純な理由であった。だが、それは同時に私達に言いしれぬ恐怖を与えた。ある種の病気と告げられたが、それがどのような病気であるのかは教えてはくれなかった。そもそも、私達は病気に罹っているという自覚がなかった。「そんなばかな!」と、反感的な意見も飛び出すが病気とはそういうものだ。自覚して分かるものが全てではない。少なくとも嘘ではない。嘘のためだけに、ここまで大がかりな隔離処置などしない。
かくして、私達は何の事情も知らされないまま隔離された生活を強要されるはめになった。とはいえ、隔離生活そのものは思っていたほど、悪いものではない。食事も好きなものを注文することはできた。酒も量は制限されているが、ある程度は嗜むこともできた。あと、あまり公にはできないが刺激の強い薬も一日一回、決められた量までなら使うことも許されていた。
外に出られないという問題点はあるが不自由というほどではない。むしろ待遇は良い方だ。
しかし、全員がそう思っているとは限らない。なにせ、私達が罹っている病気というのが一切、教えられないのだ。外の情報を得ようとしてもテレビやラジオは使えず(市販のビデオや音楽を聴くのは良い)、携帯電話の類も手元になかった。
この状況は嫌でも不安になる。せめて、病気だけでもと頼むも、
「こちらもワクチンの開発を急いでいる。もうしばらく待ってくれ」
その言葉に繰り返しだった。
私は途中まで感覚だけで時間を計っていた。一日、二日、三日、一週間、一月。私達が病気ならば、少しは身体に変調が起きてもおかしくなかった。もしくは、身体の中から病気は消えている。その点を訴え、隔離をやめてもらおうとした。
「こちらもワクチンの開発を急いでいる。もうしばらく待ってくれ」
やはり、その言葉に繰り返しだった。
変事が起きたもは、それからしばらくしてのこと。私と同じ部署で働く同僚が首を吊って死んでいたのが見つかった。
自殺だった。自らの病気に絶望しての自殺だったらしい。感染対策なのかロボットが現れ、学生の遺体を降ろして運んでいった。自殺者を見て、誰もが暗い気分になる。これまでは、皆が運命共同体であるような気分でいた。その中から現れた自殺者は、その共同体にヒビを入れる結果となる。もはや、同僚の死は他人事ではない。いつか、自分も同じようなことをしてしまうのではないか。そんな不安が頭を過ぎる。
そんな私達の不安を予期したかのように、待遇がグッと良くなった。これまでの食事も少し質の良いものになり。今まで認められていなかった娯楽道具にも使用許可が下りた。
皆は同僚の死を忘れたく、一時の快楽に身を任せることにした。私だってそうだ。それほど、親しい間柄でなかったとはいえ同僚の死は衝撃的だった。少しでも、同僚の死を忘れたく身を投じた。
しかし、そんなのは一時の予防策でしかない。一人の死は確実に私達の心を蝕んだ。
二日後には別の部署の男女が寄り添うようにしてベッドで死んでいた。配布されていた薬を溜めていたらしい。それを一度に摂取した。自殺する気だったのか、それとも今の状況を忘れたかったのか。今となっては確かめようがない。一つだけ確実に言えることは、自殺であるということ。
これが、小説だったら一致団結して苦難を乗り越えようと叫んだり、努力したはずだ。だが、現実は小説のように上手くいくはずもない。
いや、むしろ今の状況の方が小説の中身なのかもしれない。抗う術もなく、絶望的な状況に身を置き、自らの死を選ぶ時を待つ死刑囚のように。
何も悪いことをしていないのに。そう叫びたくもなるが、そんなのは不条理で非現実的な世界では通じない。物語の世界というのは、常に自分の胸に剣を突き立てられているようなもの。ちょっとした加減で、その剣は自らの身体を貫くのだ。
殺人と自殺では『そして誰もいなくなった』とは大きな違いある。だが、こうして非現実的な体験をした私から言わせてみれば、今起きていることも小説も何も変わらない。
政府は相変わらず、ワクチンを作っていると、言うがもはや、私には関係のないことだ。どんな娯楽も快楽も沈みきった心を浮上させることはない。
有り余る時間の中で小説を読み終えた私の心に哀しみが溢れていた。今や、このホテルの中で生きているのは私だけだ。まあ、心は荒み生きていると言えるかどうか怪しいが。
私はホテルの中を歩き回り手頃なロープとそれをかける場所を探していた。図書室に立ち寄ったのもその一環だ。他の場所はもう先に使われてしまった。先客がいた場所で後追いする気にもなれない。
天井の太い梁にロープを結わえ付け私は本を積み上げ足がかりにして昇った。ロープの先端には輪があり、その輪に首を通す。
唯一、心残りがあるとすれば、私達が罹ったとされる病気の正体を知りたかったことぐらいか。病気の正体を知っていれば、状況は少しは好転したのかもしれない。
本の山は崩れ、首に強い圧迫感を感じ、私の生涯は幕を下ろした。
「―――最後の一人が死んだか」
図書室内での様子はカメラを通して医師の目に触れていた。医師はこうなることは分かっていた。それだけに、最後の一人も命を断ったことに安堵と虚無を感じていた。
安堵は最後の患者が死んだこと。虚無は最後まで患者を助けられなかった医師としての情けなさだった。
「彼らが死なないよう、出来る限りのことはしてきたつもりだった。娯楽にしても、違法だと分かっていても医療行為だと言い聞かせ薬を投与したことも。だが、全ては徒労に終わった」
「先生が悪い訳ではありません。悪いのは、あんなウイルスの研究を続けていた会社です。某国との取り引きで人を自殺に追い込むウイルスを製造していたなんて。しかも、ずさんな管理体制のせいで会社内にウイルスを蔓延させた。万が一、あのウイルスが世界中に広がったら、世界中から人がいなくなってしまいます。彼らを隔離し出来る限り生かしつつ、解決策を模索する。それが、私達に出来る唯一の方法です」
自殺するウイルスなど彼らに教えられるはずがない。それこそ、彼らの不安を煽り自殺に追い込んでしまう。
「彼らの遺体は慎重に扱え。それからホテル内も完全消毒だ。難しい場合は建物を焼き払っても構わない。ウイルスを根絶する・・・・・・」
「大変です!」
医師が次の指示を出している中、職員が青ざめた表情でモニタールームに飛び込んできた。
嫌な予感が医師の脳裏に過ぎる。昼間だというのにゾクリとした寒さを感じた。
「主任が・・・・・・主任が自殺を―――」
それは第一報に過ぎなかった。これから始まるであろう世界規模での非現実的な出来事に向けて。
―――そして、誰もが・・・・・・。
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