ある金曜のこと

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 自分は嘘がうまいと思っている人ほど嘘が下手だ。本当の嘘つきは、嘘を嘘とさえ思っていないから、口から水のように嘘が流れてくるのだと。  そんなことを言ったのは誰だったか――。  今日も駅まで奈保と向かい、反対側の通勤電車に乗る。向かいのホームで奈保が席に座ったのを確認するとコートの裾を正して笑顔で手をふる。 「いってらっしゃい」  小さくつぶやくと、まるでそれが合図とでもいうように電車は走り出す。見送ったあと、新宿行の電車へ一駅だけ乗り隣駅の図書館へ向かうのが最近の涼介の毎日だ。  東京の西のはずれのこの街へ初めて来たのだと言った奈保と、三ヶ月前に結婚した。奈保の両親は幼い頃に亡くなったというし、涼介も派手なことはしたくなかったので式はあげなかった。  会社から異動辞令が出たのはほんの一週間前。新卒で入社して九年間、営業と商品企画部で一定の成果を出してきた。最初の四年間は和菓子部門で新店舗を関東圏で一位の店舗に成長させたし、希望してやっと異動できた商品企画部で生み出したクルミと生チョコのパイ生地ケーキは昨年の冬期売り上げと人気投票ともにトップに輝いた。何度も雑誌やテレビに取り上げられ、これから小さなチームを持ってもっと作りたいお菓子に専念できるはずだった。それなのに……。  言い渡されたのは人事部への異動だ。人事への異動は出世路線だと同期は言うが、涼介は何よりも、おいしいお菓子を生み出して世の中に届けるのが好きだった。感情的になるな、よく考えよう――そう言い聞かせていたが、涼介は会社を辞めた。そしてそのことをずっと、奈保には言えないでいる。
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