雨の中、傘もささず、また染まる

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雨の中、傘もささず、また染まる

 降り(しき)る雨の中、彼女は傘もささずに立っていた。  夜闇に煌めくネオン管、飛び交う雑音は反響し合い、街はその営みを始める。月が昇るにつれ、何処も彼処も賑やかさで溢れ返り、酒と煙草と香水の匂いに捲かれた人々は次々と狂宴の席に着いていくのだ。  そんな様子を横目に、彼女と僕は光の届かない(くら)く錆びたビルの屋上で、座り込んでいた。 「ねぇ」  月明かりだけに照らされたその顔には、不器用な笑顔が浮かべられている。靴は横に転がり、真っ白な服には淡いピンクが浮かび、濡れた髪に隠れた頬からは水滴が流れ落ちていく。  出来れば、僕の傘の中に入れてあげたいのだが、出来なかった。 「私って、何でこんなことしてるんだろう」  自嘲気味に、声を細め、曇天に向かって言葉を飛ばす。  きっと、胸の内に秘め続ける心と、それでも吐き出したい想いとがぶつかり合って、元のカタチなんて忘れてしまう程に滅茶苦茶なのだろう。ただ、彼女の心に穴が開いていることだけは確かだった。  ––––そして、穴を埋めてくれる物を求めていることも。  何も知らない、何も見えない盲目の中、体が求めるままに、人の欲を押し付けられ、見ず知らずの誰もが口にする勝手を、ただただ飲み込むことしか出来ない。  与えられる苦痛に、脳を襲う快楽に、色のない感情に、溺れて行く毎日。  助けてくれる人なんか、理解()かってくれる人なんかいない。  そんな思いで生きてきたんだろう。同情くらいはしたいが、そんなのさえ彼女には煩わしさを与えるだけなんだろうと、言葉を押し込めた。  彼女の問いに何も言わぬまま、ただ無情に時だけが過ぎ去り、気付けば、雨はその勢いをゆっくりと失っていた。 「あのさ、ちょっといい?」  横顔を少し覗くと、彼女の横に立ち、柵に寄りかかりながら答える。 「いいですよ」 「天野さんって、私のマネージャーだよね?」 「……そうだよ」 「私ってどう見られてると思う?」  無邪気で、純粋で、それでもって苦しそうな声で問い掛けてくる。 「……分からないですよ」 「天野さんは?」 「と言いますと?」 「だって、年下の女相手に敬語使ってるって変じゃない?」 「まぁ、商売ですし」  下らない言葉を並べる。  単に面倒な事を起こしたくないだけでしかないし、下手に契約が切れるのが嫌なだけでしかない。  特別な感情はない。 「他の子は客放したら殴ったりされるとか」 「あぁ、よくある話ですよ」 「でも、しないよね?」 「そりゃ、仕事仲間だと思ってるんで」 「んじゃ、私をそう見てるって事?」 「えぇ。それ以上でも、それ以下でも」  自分でもこの言葉がどれだけ人を傷つけるか、なんて知っている。しかし、彼女を相手にこの言葉以外、当てる言葉が思い浮かばなかった。  それからしばらく、人の騒めきと雨の落ちる音だけが聞こえるだけ。  彼女はその場に座り込むと、俯き、足元を只管に見つめていた。小さく、弱く、哀しそうなその背中だけを見せて。  すると、雨もまた強く打ち付け出す。 「……そろそろ、戻りませんか?」 「…………」 「まぁ、任せますよ」  僕の仕事は、彼女のマネージメント。  こんな商売なのだから、あまり良い気持ちにはならなくとも、彼女には働いて貰わなければならない。  けれど、不思議なことに、気の毒にはならないのだ。  ただ、感情がない訳でも無いが。  そっと彼女の側に行くと、自分の服を濡れた背中に掛け、目線を合わせるようにしゃがみ込む。 「……これ。この前、広島に帰省した時のお土産です」  そんな甘い囁きを口にしながら、ポケットに入っているものを差し出す。 「……いらない」  彼女は顔を俯けたまま、無愛想にそう告げるだけ。  だが、心は誰でも、何でもいいから、大きく空いた穴を埋めて欲しいと嘆いていることは知っているのだ。 「そう言わずに貰って下さい。僕が持ってても、なんなので」 「どうして?」 「だって、あなたの名前が彫られたお守りなんですから」 「……そう」 「ほら、幸せになれますように、ってことで」  無力で、無気力な手に握らせる。 「さ、最後の営業行って、帰りましょう」 「……帰り、送ってくれる?」 「分かりました。……取り敢えず、着替えは用意してますので」  まるで仏が諭すようにして、彼女をまた地獄へと進ませる。  これが、僕の、仕事だ。  ––––なんて言って、僕は逃げた。  自分が、こんなことをしているのなんて、認めたくはなかった。  人生を狂わせるような、人の運命を弄ぶような、生きている人間を道具として扱うような、そんな自分の仕事が大嫌いだ。  暗い裏で事務作業をしている中、彼女の声が全てここまで聞こえてくる。  それが、何よりも嫌だった。  だから、僕は彼女に優しくしてしまう。それがどれだけいけない事かなんて、頭では十分に理解している。  だが、僕は仕事以前に、一人の人間であることを、一人の男であることを捨て切れなかった。  午前二時四十七分。  疲弊し切った彼女を助手席に乗せ、ビル街の大通りを走り始める。 「ねぇ……私、キレイ?」  突然、ハンドルを握る僕の袖を彼女は引っ張る。 「えっと、どう言うこと、ですか?」 「私って…………いや、やめとく」  僕は前を見ながら運転するので精一杯だったせいで、彼女の顔は見れなかった。  ただ、何となく落ち着いているように感じたのだ。 「……ほら、そろそろ着きますよ?」  そんな心も無いような言葉を吐く。  また自分が嫌いになる。  だから、雨粒が車を叩きつける音だけを聞き、ワイパーの動きだけを見つめた。  ただ、彼女がずっと僕の渡したお土産を––––『夏菜』と書かれた小さなしゃもじを、肌身離さず持っていたことを、最期の最後まで知らなかった。
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