ある一つの世界の小さなお話

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 木陰の落ちる道を二人で歩く。  身長も違えば、足幅も違う僕らは、互いに同じペースで歩くように心がけ、暑さを紛わすかのように駄弁っていた。 「ねぇ、ここじゃない世界ってあると思う?」 「うーん、僕はあまり信じられないな」 「そっか」  レースのロングスカートを揺らし、機嫌良さそうな足取りで歩いて行く彼女を追いかけるように歩く。 「『シュレディンガーの猫』って聞いたことある?」 「いや、ないかな。……猫の種類とか?」 「違うよ。実験の名前」 「実験?」  不思議そうにしている僕を見て、彼女は少し悪戯な笑みを浮かべながら、語り続ける。 「そう。『外から何も見えない箱の中に入れた猫は生きてるか死んでるか』っていう実験だよ」 「ふーん。それと、別の世界って関係があるの?」 「それはね……」  ふと、僕らの前を黒い毛並みの猫が横切った。  気怠そうにゆっくりした足取りで、道路の向こうへと渡ろうとしている。  偶然、なのだろうか。ただ、少なくともその時の僕らにとっては、そうは感じ取れなかった。  「こっちおいで」と言いながら、彼女は左手を差し出すと、その猫はこちらに気づき、ゆっくりと近寄って、注意深く左手の匂いを嗅いだ。  野良猫にしては珍しい方だろう。大抵は逃げ出し、姿を隠してしまうはずなのだが。 「……この猫を外から見えない箱に入れて、毒の入った餌と普通の餌のどっちかが、ランダムで箱の中に入れられるとする」  すっかり懐いてしまった野良猫は彼女に抱き上げられた。しかも、腕の中で喉元を撫でられ、グルグルと喉まで鳴らし出した。 「そしたら、この箱の中の猫って生きてるのかな? それとも、死んじゃってるのかな?」  今度は猫の顔を自分の前に置き、そんなことを言いながら、ひょっこりと横から顔を出す。そんなことをされても動じない猫も猫だが。 「それは……分からない」 「そう。生きているか、死んでいるかは中を見てみないと分からない。そもそも毒入りの餌が出て来ていたとしても、食べてないかもしれない」  頭をわしゃわしゃと撫で、顔をそっとさすると「強く生きるんだよ」なんて言って、猫を下ろす。 「つまり、猫が生きている世界と、死んでいる世界に別れるの」 「あー、まぁ確かに」 「それが別世界。猫が生きている世界なら、きっと猫は里親が見つかり、可愛がられる。死んでいる世界なら、何処かにその猫のお墓が出来る。それだけで十分別世界だと思わない?」  下ろされた猫は、彼女に向かって目を細め、グルグルと言いながら足に擦り寄って来た。だが、そのまま彼女の前へと行き、立ち止まると、お礼でも言うかのようにゆっくりと瞬きをして、何処かへと消えて行ってしまった。 「だからね、よく考えるんだ。私が生きてるこの世界と、私が生きていない世界。それってどう違うのか、ってね」  顔を上げ、空を仰ぎながら、そんなことを呟いた。  その姿はやっぱり綺麗で、また、如何しようもないような儚さを孕んでいるようにも見えた。そして、彼女の目は遠くを、ずっと遠くを見つめていたのだろう。 「それじゃあ、そろそろお昼でも食べない?」 「うん」 「私、行きたいところがあるんだよね」 「じゃあ、そこ、行こうか」  そんな会話を交わし、熱気を帯びたアスファルトの上を歩く。  住宅街の抜け、車通りの多い道を横切って、居酒屋が立ち並ぶ通りを横目に、部分だけ都市化した駅前を通り過ぎる。陸橋を渡り、レトロな雰囲気のある商店街を抜けて行った。
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