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ある一つの世界の小さなお話
「ここじゃない世界って、どんな世界なんだろう」と、遠い空を仰ぎながら彼女は言った。
それはもう十二年も前の話で、八月に入ったばかりのこと。陽炎立つ正午。照りつける太陽はアスファルトを焼き、ジリジリと鳴くヒグラシはとても煩く、吹き付ける風さえも生暖かい。まるで灼熱地獄の中を歩いているように思えた。
丁度、その日は快晴だった。
清々しい程に空は滄溟で、雲の一つもなく、気温は三十度越え。ただ普通に歩くだけでも疲れてしまうと言うのに、この暑さではたった十分足らずで倒れてしまいそうだ。
その上、湿度が高いせいで心地の悪い空気が全身に纏わり付き、汗の一つとして出やしない。勿論、汗臭いのよりはマシなのだが。
ただ、だからこそなのだろう。
今でもその日の記憶は、どんな記憶よりも淡く、美しく、何よりも輝いていた。
例えるなら、写真や動画とは違う。それは、水面に反射する風景のようなもの。一番相応しい物と言えば––––水彩画だろう。
水で滲んだ色の数々が重なり、境界線は歪。目に映るもの全ての輪郭は繊細な毛筆で描かれたようにはっきりとはしていない。ただ淡さと鮮やかさだけが残る情景なのだ。
そして、その中央にはいつも彼女の後ろ姿があった。常に僕の前を歩き、後ろで腕を組んで、この世の何もかもを知っているかのように話す。時折見えるその横顔はとても綺麗で、同時に、何処か悲しそうだった。
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