Ⅲ-22 朝日と起きて、夕暮れに帰ろう

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 マルールの姿。 「……エルネスティ……?」  顔には黒い、蔦の模様。 「……おはよ。エルネスティー」  私も返した。「ええ、マルール」と。 「うん──今日もいい天気でしょ」  その笑顔は、とても眩しかった。 ━━━━━━━━  マルールの仕事が終わったのは日が落ちてすぐの頃だった。私たちは人の少ないガス灯照らす帰り道を二人で歩んでいる。懐かしむように少しずつ、マルールが車椅子を押す、その手を借りて。伝えたい事、話したい事は山ほどあった。それでも私たちの間に会話は無かった。  どこかぎこちない感じ。マルールの仕事が終わるまで別室で待っている間、クランから色々な事を聞いていた。私が今日目覚めるまで二十年の歳月が経過していた事、町も店も人の顔ぶれも、二十年前とはだいぶ変わっている事。  ミゼットおばさんは七年前に肺癌で亡くなっていた。原因はやはり煙草の吸い過ぎ。最期には贔屓にしていたお客が大勢集まり、気難しい性格ながらも愛されていた彼女の一面が窺えたという。ドックスおじさんもその後ほど無くして八百屋を畳み、今は同い年の女性と余生を過ごし、イゾーはウスティーク孤島という場所に移住し妻子と共に過ごしている。病気の完治後ジャックとエリーヌは結婚して子どもを三人もうけ、クランとソフィも下手物店での知識を活かし、数年前に二人で病院を開業した。人間の患者を診るだけでなく、馬車でやって来る貿易商の馬の健康診断をしたり、森で怪我をした動物や町の人のペットを治療したりと、多忙な日々を送っているらしい。  そして、マルールは────助産師としてやっていた。  あのマルールが、とクランから聞いた話はにわかに信じ難かったが、扉を開けてすぐの光景はそれと信じざるを得ない。文字を書く事もままならなかった彼女はギヨームさんを家庭教師としながら周囲の人々の助けを借りて習得し、町の医師たちに頼み込んで勉強を始めたのだと言う。なるほど、とそれで合点がいった。彼女の決意とはこれの事だったのか、と。 「ねえ、マルール」 「あ、うん。何?」 「どうして助産師になろうと決意したの」 「それは」  ややあって口を開き──人を殺して生きていた日々はどうにもならないし、忘れようとしても胸の痛みで思い出してしまう、だからという訳では無いけど、見捨てて来てしまった命は忘れずに、見守る命を増やしていきたい──ぽつぽつと語られたのはそんな素朴な言葉だった。  彼女らしい、と思う。 「マルール」 「ん?」 「私、もっと早くあなたに出会いたかった。あなたと出会って、もっと早く、楽しい事や辛い事を分かち合えていたら、私……」 「エルネスティー」  遮るように名前を呼ばれ、目の前にゆっくりと回り込まれた。私の視線より低く屈んで心配そうな表情で顔を見上げてくる。顔の右半分に鋭い蔦の這ったような黒い模様が浮かんでいた。私の模様とは全然違う。 「私、目が覚めてからずっと不思議な気分がするの」 「うん」 「たった一度瞬きしただけなのに、私の目には変わった事も、変わっていない事も、はっきりと両方見える」  そう言うと彼女は微笑んだ。この笑顔だ。二十年前と同じ、困った人を安心させるために力の抜けた笑顔を見せる。 「そう。君がほんの一回、瞬きしてた間にね──大切な事は変わらないように、悪かった事は良くなるように、町の皆で頑張ったんだ。エルネスティーの事悪く言う人、もうほとんどいないよ。それに、この辺りに戦線が近付くのもまたしばらく心配しなくて良さそう」  そう言って僅かに顔を逸らした。 「戦争は」  問うと、今度は苦々しい表情。 「何度か町に戦線が近づいて飛び火した。怖い人も危ない人も、怪我をした人も沢山来た。つらい思いをしてまで、どうして戦うのって聞いたけど」  それが自分の生き方なんだって。  他の生き方がわかんないって。  皆揃って同じ事言うんだ。 「マルールは」 「ん?」  きょとんとした顔。それを見届けて私は意を決して訊ねた。 「マルールも、変わってない?」  この二十年、私はあなたとの距離が離れたとは思っていない。けれどあなたはどうなのか、逸る気持ちを抑えられなかった。  マルールは泣きそうに顔を歪ませてから体にゆっくりと腕を回し、少し痛いくらいに抱き締めると耳元で言った。
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