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終章 「またあした」と、互い誓う(または「旅立ち」)
「昨日ベッドの中でずっと考えてたんだけど」
「ええ」
「今度する時さ、イチゴジャムのっけていい?」
「何言ってるの、嫌よ」
「ハチミツとかも合いそうだよね」
「人の話を聞きなさい」
いつものように二人でパンとスープの朝食を済ませてから、食器を洗っている時に言われたのはそんなマルールの惚気話だった。
「毎度思うけれど、本当によくそんな恥ずかしい言葉、面と向かって吐けるわね」
「そりゃもう包み隠さずまるっと本心だからね!」
胸を張って答えるマルール。
けれど次の瞬間にはほんの少し表情に憂いを帯びて、照れくさそうに言った。
「ウサギとかリスとか、今診てる年頃の子はみんなかわいいって言うんだ。わたしにとっては食べるもので……エルネスティーに会うまでそういう気持ちになった事無くて、初めて、かわいいなあ、って思ったのがエルネスティーだったんだ」
「……」
「食べちゃいたいくらいかわいいってこういう事なんだねえ」
ほんわかした笑顔で浮ついたように呟くが、これもやはり言葉通りあけすけな本心なのだろう。
「あ、照れてる?」
「照れてないわ。これ拭いて、棚に戻しなさい」
「はいはーい」
マルールに命じて無理矢理会話を終わらせる。目が覚めてからふた月ほど経つが、こうして事あるごとに惚気たりキスをせがんだりベッドの中で抱き着いてきたり、その後散々な目に遭う事もしばしばだった。きちんと躾したら「待て」と「よし」くらいはできるようになったけれど、ジャムなんて使われたらこれまでの苦労が水の泡になってしまう。
様々な状況が目まぐるしく動く、この二ヶ月でマルールと私は準備を進めてきた。私が眠っていた最中に彼女が言っていた「決意」は、助産師としてやっていくだけでなくもうひとつの意味があったようだ。その事を聞かされて最初は判断に迷ったけれど、やがて自分の中に落とし込んで承諾した。
私たちは世界を旅する。
今日はその始まりの日。
出発する前にベルトラン町長の邸宅に皆で集まる事にしていた。クランとソフィに前もって旅の事を伝えると、ベルトラン町長に相談したのか特に親しかった人たちを呼んでささやかなお別れ会を開こうと提案された。黙って出て行くのは良くないと窘められてしまった。その通りだと反省している。
ベルトラン町長は二十年で髪の毛が真っ白になってしまい、ギヨームさんも年齢の関係で執事を引退している。それでも今日はお別れ会を楽しみにしてくれたようで、張り切って準備をすると言っていた。
家の前で待っているとやがて町角の向こうから馬車がやって来た。馬を引くのはギヨームさん。重ねた年齢は顔付きや声色に表れている。
「ご機嫌、麗しゅうございます。エルネスティー様、マルール様」
「こんにちはギヨームさん」
「よろしくお願いします」
「さあ。お二人とも、どうぞ後ろへ」
ギヨームさんに無理をさせないように客車の扉は私たちで開けて中へ乗り入る。ギヨームさんは微笑みながらそれを見届け、馬を手綱で優しく打った。馬は町長邸へとゆっくり歩み始めた。
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「エルネスティーそのクローク似合ってる!」
「そうかしら……」
「エリーヌのデザインは世界一だからな」
「色はドックスおじさんの奥さんに選んでもらって、前よりちょっと明るい青なんだよね」
「マルールのお嬢もパリっとしてていいベストじゃないか」
「でしょ。新しく仕立てた新品なんだ。ボタンのとこ、エルネスティーの財布と同じものなんだよ」
「マルールお姉ちゃん、旅先ですぐ汚したりしないでね」
「えっ、わかってるよ」
「ソフィ、そういう事言うとそこら辺でこけるって絶対」
「失敬な! そんな事無い、っ、て──わ」
言ったそばから足をもつれさせてその場に盛大に転ぶマルール。これでは先が思いやられる。
皆が大笑いする中、ベルトラン町長が拍手して迎えた。
「皆の者、食事は楽しんでくれているかな。今日はエルネスティー殿とマルール殿との別れの席だが、楽しくやれただろうか。最後まで後腐れの無いようにな」
さてそういう訳で、とベルトラン町長は私とマルールを呼んでそれぞれ小さな細長い箱を渡してきた。
「これは?」
「開けてみるがいい」
中を開けると、そこにはループタイが入っていた。クロークの青と同じ青いサファイアがペンダントにあしらわれている。マルールの方を見ると、彼女の箱にはブナの枝葉をモチーフにあしらった金のチョーカーが入っていた。
「これを私たちに?」
「うむ。それぞれをイメージしてミゼット殿が遺してくれたものだ。末期の際にこれを毎日磨いておくようにと言われてな。七年間こっそり磨き続けていたのだ。ループタイはマルール殿に、チョーカーはエルネスティー殿に、と。似合うといいが」
わたしたちは向かい合って、最初にマルールのループタイを付けた。彼女の首に回して紐を締めると、首元の良いアクセントになる。マルールもチョーカーを手に取って私の首に巻いてくれた。
「なんか結婚式みたいだね。似合ってるよ」
「……そうね、マルールも」
周囲の騒がしさの中、私だけに聞こえる声でそう言うマルール。本当の結婚式ではないにしても、ベルトラン町長がそれを見越してこの席を準備したのは容易に想像できた。わざわざ相手へのアクセサリーを手渡してきたのもそれが目的なのだろう。
ミゼットおばさん、死に目には会えなかったけれど、もしできるのならもう一度お礼が言いたかった。
「ありがとうございます」
「うむ。……出発はいつにする? 秋とはいえ日が落ちるのは早い」
「東へ向かって、今夜はひとまず近隣の村の宿に泊めてもらおうと思っています。出立も頃合かと……」
「皆わたしたちの事忘れないでよね!」
皆が頷き、私たちは邸宅を後にした。マルールがLegion Graineを移植した馬は私たちと共に行く。自分だけ取り残されていく悲しさをギヨームさんも味わわせたくないのだろう。旅の荷物はその馬に任せる事になった。
ベルトラン町長の邸宅から町の出口まで見送られ、私たちは南西の橋から森へと入る。
木々の合間から木洩れ日が射し込む、今日はとても良い天気だった。私たちの門出を祝福してくれるような──そんな思いをこの森に抱いた事は一度だって無かった。
自作らしい鼻歌を歌いながら歩くマルールの背にはライフルがある。人を傷付ける代物とわかってはいるが、丸腰で旅に出るのはまだまだ危険が多い時代には違いない。彼女はあれから弾倉に込める弾の数を一発と決めているらしかった。なるべく弾を無駄にせず、危険な時に逃げるための手段として考えているらしい。特殊な身の上、捕まってしまっては元も子も無い。
「マルール」
「ん、どうしたの」
「旅に出て治療方法が見つかったら、マルールはどうするの」
虚を突かれた様な質問だったのか、少し考えてから彼女は言った。
「今だって死ぬのは怖い。わたしは多分、エルネスティーみたいに死ぬ事に対して前向きにはなれない」
「そう」
「でも、君と一緒なら──ん?」
マルールの見上げた先を見ると、巨大な影が太陽の光に紛れて羽ばたいていた。鳥のような、あるいは蛇のような影。その姿は影の大きさと高度からしてかなりの巨体のようだった。
「竜だ……」
「え?」
「……すごい昔にグスタフさんて貿易商の人が、空に昇って王様になった竜の物語をしてくれたんだ。鱗も持ってた。ちっちゃくて薄くて、虹色に透けてて、すごく綺麗だった」
「そんなお伽噺がある訳」
ハッとした。そんな夢のような、お伽噺のような出来事があっても、何ら不思議な事では無いのだと。体の素材、それでなくとも付着した細菌や微生物がLegion Graineの思いがけない治療薬になるかもしれない。
それだけじゃない。
きっと目を見張るような奇跡が、たくさん待っているのかもしれない。
「行こう、エルネスティー」
「ええ、マルール」
息も凍るほど冷酷と思われていた。
そんな永遠を終わらせるために。
私たちは、いつまでも、手を繋いで歩いた。
青い魔女の通過儀礼 end
(or “their story goes on”...)
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